串打ち三年、裂き八年、焼き一生

齋藤 遊雨晴

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串打ち三年、裂き八年、焼き一生

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串打ち三年、裂き八年、焼き一生

その鰻屋の女将さんは、こう語るのだ。
「この前、来た若い娘さんね、魚の皮が食べられないから、鰻の皮を剥いてくださいって。その時のうちの主人の表情ったらなかったわ。情けないというか、悔しいというか、じっと鰻の皮と身の間に包丁を入れるのだけど、不憫で見ていられなかったわ」
その鰻屋の店内には鰻協会のプロモーションポスターが貼られている。
“串打ち三年、裂き八年、焼き一生”
その若い娘さんは、字を読む事ができないのか、その意味を理解する事ができないのか、僕は少し寂寞たる思いを感じた。
「うちの主人は、修行時代に焼きを任されるまで十年かかったの。最初の三年は、串打ちばかり、四年目から、ようやく裂きをさせてもらえるようになって、焼きを任せてもらうのに十年かかりました。同じ店で働いていたので、その頃の主人の、ひたむきさというか、真剣さに、惚れたのね。あら余計な事を喋りました。少し愚痴を言いたくなる事が続いてね、ごめんなさい」
「いいえ、とんでもないです。話を聞く事くらいならできますから、いつでも、どうぞ」
女将さんは少し微笑みながら厨房に入り、僕の鰻丼のオーダーをご主人に伝える。

僕は、この店の鰻丼が好きで、月に数回、来るようになった。関東で食べる鰻とは少し違う。関東の鰻は、どこか上品な食べ物である印象があるのだが、ここの鰻は野性味に溢れているのだ。
おそらく調理方法が違うのだろう、蒸さずに直接焼くので、鰻本来の旨味を感じるのだ、タレは濃厚な甘ダレで、野生的な鰻本来の味と濃厚な甘ダレが相性抜群で、風味絶佳なのだ。
それに加え、女将さんが親切で、必ず季節のものを何か添えてくれる。夏は西瓜だったり、冬は風呂吹き大根だったり、おもてなしの心に触れる事ができる贅沢な時間。
鰻が焼けるまでの時間に、お茶をすすりながら、庭にあるビワの木を眺めながらビワをいただく。
皮が剥かれ、四分の一にカットされたビワは、水々しい。柔らかな食感が初夏の訪れに気付かせてくれる。
鰻丼を注文すると、ご主人が生簀から鰻を取り出し、捌き、炭火で焼く。
この鰻が焼けるのを待つ時間が好きである。店内の客は僕一人しかいない、ゆっくりとした時間の流れに身を任せる。
しばらくすると、鰻丼を女将が厨房から運んで来た。ここの鰻丼はご主人が自ら焼いた陶器の御重に盛り付けられるので、鰻丼と言いながら、鰻重と変わらない風格がある。
「お待たせしました」
「いただきます。ところで、さっきお話しされた愚痴を言いたくなるような事って、どんな事ですか、差し支えなければ聞かせてください」
女将は、少し戸惑い、うつろいがちに宙を見上げ、小さく深呼吸をして話を始めた。
「実はね、うちの店が鰻を仕入れている問屋の社長が自殺したの。聞いているでしょう、シラスウナギが不漁で、鰻が高騰しているので、うちの鰻丼も先月から五〇〇円、値上げさせてもらっています。でも、五〇〇円あげさせてもらっても、残るのは以前の半分程なの。うちも精一杯頑張っているのだけど、鰻の値段が、どんどんつり上がっていてね。その問屋さんとは、うちの主人が店を持つようになってから、ずっと面倒を見てもらっていて主人が気にいる鰻を選んで譲ってもらっていたのね。なので、その問屋さんからはもう鰻を仕入れる事ができなくて、別のところから今のグレードの鰻を仕入れると高くついてしまうの」
女将さんは、少し声が震え、涙ぐんでいる。
「ごめんなさい、暗い話をしてしまって、鰻が冷めちゃうわ、召し上がって」
女将は、厨房に消えていった。
僕は、鰻を生業とする方々が、困窮している事を身近に感じた。新聞や雑誌では鰻の価格が高騰している記事を見る事はあっても、どこか、遠い空の出来事として捉えていたのだ。
とりあえず、手を合わせ、鰻丼をいただく。
まずは、肝吸いを一口すすり、鰻とご飯を箸で口元に運ぶ。鰻の香ばしい芳香が飛び込んで来る。鰻の柔らかくもプリッとした身とパリッとした皮の食感とタレの旨味が絶妙なハーモニーを奏でている。
“美味い”
鰻丼を食べ終え、お茶を飲み、勘定をする。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま、二千四百八十四円頂戴します」
この店ではクレジットカードも電子マネーも使う事ができない。本体価格が二三〇〇円で消費税8%を加えると二千四百八十四円となるので、僕は予め、小銭で八四円を用意する事にしている。
一度、三千円を出した事があるのだが、女将は電卓で計算し、お釣りを確かめ、レジからお釣りを取り出し、金額の確認をするのだが、お釣りが足りなかった事があった。計算を間違ったのか、お釣りを数え違えたのか定かでないのだが、小銭の計算は負担になっているのだと気がついた。その時、お釣りが足りなかったのだが、黙って店を後にした。
ただどうなのだろう、消費税の計算が複雑になり、電子マネーでピットやれば決済を済ませ、計算が面倒だからキリのいいところに価格設定し、便乗値上げ的な方法、簡単な方法、楽チンな方向に流れてしまうのは、僕には、何かしっくり来ないと思えるのだ。
便利が、この国では最優先なのだろうかという疑問が頭を過る。
僕は、この鰻屋に来る時に小銭を用意し、鰻丼の代金を払う時に、少しだけ気持ちよくなる事に気がついた。何か、これで良いのではないだろうか、一円というお金に気を配り、感謝する事って電子マネーから気づく事はできないだろう。そこには、自分なりの秘め事というか、豊かさというか、確からしさを感じるのだ。かなり、しっかり、スッキリ、はっきりと。
僕が、二千四百八十四円を女将に渡すと
「いつも小銭を用意してくれてありがとうございます、年寄りには助かります」と女将はお礼の言葉を述べるのだ。
誰が褒めてくれる訳ではないのだが、きっとお金の神様は僕を見捨てたりしないはずである。
店を出る時に厨房を覗くと、ご主人が小さく会釈をしてくれるのだが、一度も言葉を交わした事はない。
女将さん曰く、最初の店は名古屋の大須で始めたのだが、ご主人は、一本気なところがあり、客との揉め事が絶えなかったようである。鰻を食べ残す客がいたりすると
「鰻に申し訳が立たないので、二度とこの店に来てくれるな」など説教じみた事を話すので、客が寄り付かなくなったらしく、女将さんは離婚も考えた事があったそうだ。女将さんは大須から三河にあるこの店を探し、再度やり直そうとした。ご主人に出した条件は、客とは金輪際、会話をしない事である。
ここに移り、四十年近くが過ぎ、ご主人は約束を守り、客と会話をしない事で揉め事はなくなり、商売も軌道に乗ったらしい。女将さんの一計は成功したと言えるのであろう。
でも、いつかはご主人と話をしたいなとも思うのである。

土曜の丑の日に鰻屋に足を運ぶ、通常なら土日でも十二時前に店に入れば、静かな店内なのだが、流石に土用の丑の日は混んでいる。この鰻屋を贔屓にしている客は多く、車で遠くから来店する人も多くいる。
土用のの丑の日は、大勢の客で賑わうので女将さんだけでは手が回らないようである。大学生らしい男性アルバイトが店にいた。
「いらっしゃいませ、今日は土用の丑の日なので鰻丼のみの営業です」と、ぶっきら棒な語り口で案内される。
服装もジーンズにTシャツで、前掛けをしているので、なんとか様になっている印象である。お茶も、片手でドスンとおいたりするので、やはり、いつもの女将さんと比べると、少し落ち着かない。
鰻丼は、いつもの鰻よりもひと回り大きく、丑の日仕様なのか、ご主人の心意気が感じられた。
鰻丼を食べ終え、勘定を済ませると、女将さんが
「この子、この前お話したでしょう。自殺した鰻問屋の一人息子なの。大学生でね、たまたま近くで、一人で暮していてるので、アルバイトに声をかけたの。まだお父さんが亡くなったショックを引きずっているようだけど、うちの鰻丼食べて美味しいって言うのよ。可愛いところがあるから、少し様子見てあげよと思うの。接客は不慣れだったでしょう。勘弁してあげてください」
「そうですか、僕は別に、困った事はなかったからご心配なく」
「今日は忙しいけど、時々、アルバイトに来るから、適当な時に、何かお話してあげてくださいな。大学を辞めて、働くとか言っているのだけど、私たち夫婦は大学の事とかわからなくてね。」
スポーツ刈りで、黒縁の眼鏡の奥にある目は、笑っておらず、何か一点を見据え、固まってしまったセメントの様に見えた。

その翌週の土曜日に鰻屋に行くと、例のアルバイトは店にいた。
僕が席に座ると、そのアルバイトはお茶を持ち、近づいて来た。僕が座っている席まで、あと数歩のところで、サンダルを引っ掛けたようで、お茶を僕の席にこぼしてしまった。
「すいません」
彼は急いで、厨房から布巾を持ち、僕が座っているテーブルを拭いた。女将さんも慌てて、厨房からやって来た。
「失礼しました、服は濡れたりしていませんか」
「はい、大丈夫です。何も問題ありませんから、ご心配なく」
アルバイトの彼は、一生懸命、テーブルを拭いている。
そのアルバイトは、どこか、おどおどしており、苦しみの海で?いている事が窺えた。
「もう大丈夫です、丁寧に拭いてくれてありがとう」
そのアルバイトは、肩を竦め、少し驚いたように僕を見て小さく会釈し、厨房に戻り、再び、お茶を運んで来た。
今度は、お茶をこぼす事なく、両手でお茶をそっとテーブルに置いた。
少し、落ち着き始めたようだ。
「この仕事は、慣れましたか」
「慣れるどころか、ヘマばかりしています。仕事するって大変ですね」
「まあ、仕事は大変だけど、ヘマは、つきものじゃないかな」
そのアルバイトは、少し表情を柔らかくしたように見えた。
「実は大学を辞めて、仕事しようと、考えているのですが・・・」
「何か、訳がおありですか」
「父がいなくなり、母が苦労しているので、何か力になれないかと考えています。すいません、余計な事を話しました。ご注は・・・」
「鰻丼でお願いします」
僕は、このアルバイトから、ある種の優しさを感じ始めていた。
今日の季節物を女将さんが運んで来た。今日は西瓜だ。
五センチほどにカットされた西瓜が二切れ、小鉢に入っている。口の中でシャクリと音を立てる。
ご主人が、生簀から鰻を取り出し厨房に入り、
二十分ほどで、贅沢な鰻丼が運ばれて来た。今日も、いつもと変わらぬ味である。
鰻丼を食べ終え、勘定を済ませ店の玄関に向かうと、玄関近くに、そのアルバイトは、僕を見送ろうとしていた。
何かが、僕に喋らせていた。
「大学を辞めて、仕事をしたいとの事ですが、お母さんは、それで喜ぶのかな」
そのアルバイトは、黙って僕の話を聞いていた。
「もしかすると、お母さんは、君を守ろうと頑張っているのではないかとも思えるのです。生意気なようだけど、親って自分の子供のために苦労しても、それが喜びなのかもしれない。君が立派に生きる事が、お母さんのためでもあるように思えるのですね。別に金持ちになるとか有名人になるとかでなく、普通に、地に足をつけて生きる事かな」
そのアルバイトは、うっすらと涙を浮かべていたが、瞳が花開くように、ふわりと柔らかくなったように僕には思えた。
「ありがとうございます。なんだか少し気持ちが良くなりました」
「それは、良かった。それでは、帰ります。ごちそうさま」
玄関を出ると、店のご主人がいた。
「女房との約束でさ、お客とは話をしない約束なんだけど、一言だけ言わせて。
“ありがとうございます”
あの子、あなたの言葉で、生き返ったように見えるんだ。俺も、あなたの言う事に賛成だよ。それじゃ女房に見つかると厄介だからさ、また来てください」
僕は、エスティマに乗り込み、ブレーキを踏みながらエンジンスタートボタンを押した。
どうして、あんな言葉が飛び出したのか、よくわからなかったのだが、少し良いことをしたのかもしれないと思った。
エスティマは、嬉しそうに走り始めた。
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