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 学校とは呼ばれているが、彫金の教え方というのはそれぞれの彫金士に任されていた。自ら書物を著してそれを読ませる彫金士もいたし、何事も実践だといきなり魔物と対峙させる彫金士もいる。

 その中で、ラトシェの師であるフェネリという彫金士の教え方はおそらく、ラトシェには合っていなかった。実のところを言えば、彫金を教えてくれたのはフェネリではない、とラトシェは思っている。彼女は、こうしてこうするのよ、と目の前で彫金するところを見せてくれるのだが、その次が、じゃ、やってみて、なのだ。見ただけでわかるなら、誰だって苦労しない。
 フェネリの下にいる彫金士の見習いたちは、そこでもう挫折するものが多かった。裕福な家から来た子供の中には、親に訴えて彫金士学校を辞めてしまったり、どういう手を使ってか師を変えてもらったりするものもいた。ラトシェのように、金と引き換えに来たような子供はどうしようもなかったが。

 それを何とかしたのがイスカだ。イスカも裕福な家の生まれではあるらしいのだが、彫金士学校を辞めたり師を変えたりすることはなかった。他の師についている見習いたちに頼んだのか、本を手に入れて彫金について独学で研究し、フェネリの足りない言葉を引き出し、何とか他の子供にも伝わるよう噛み砕いて説明してくれていた。
 練習用に彫金士学校で飼育されている、ジャック・ラビットというほとんど危険性のない魔物を相手に、フェネリの見守る前で彫金に挑んで、最初に成功したのもイスカだった。よくできたわねぇと珍しくフェネリも褒めていて、授業の後も二人で何か話していた。ラトシェは後で知ったことだが、フェネリは教える立場についたのが初めてで、何をどう説明すればいいのかよくわかっておらず、イスカと授業の進め方について話し合ったようだった。

 その後、続々と、とまではいかなかったが、フェネリの門下生たちは徐々に彫金ができるようになっていった。フェネリも少しだけ教え方が上手くなっていたし、足りないところはイスカが上手く補っていた。

 ただ、ラトシェだけは全く彫金ができないままだった。大人しいジャック・ラビットを相手にしていても、何も起きずに終わってしまう。フェネリの言うことも、イスカの説明も真面目に聞いて、文字を読むのはまだそんなに得意ではないけれど本も読ませてもらって、それでもだ。成功する兆しすらない。

「何でだ……」

 今日も上手くいかない。
 がっくりとジャック・ラビットの囲いの中で項垂れるラトシェに、ひそひそとささやく声が聞こえる。

 みんなできてるのに。
 イスカの説明でわからないって、どうかしてる。
 フェネリ先生のやり方、ちゃんと見てないんじゃない。

 違う。そんなことない。先生のやり方は、いつだって真剣に観察している。イスカの説明だって、必死でメモを取っている。誰よりも熱心に、彫金というものに向き合っているはずだ。
 でも、違うとも口に出せない。ラトシェは自分の中から溢れる魔力というものをきちんと感じ取れたためしがないし、網状にして、というのももちろんできない。根本的なところができないのだ。その状況で違うと言ったって、何の説得力もない。

「今日もみんながんばったし、そろそろ終わりにしましょうか」

 フェネリが声をかけて、ラトシェ以外の見習いたちがばらばらと囲いを出て行く。

「ラトシェ? どうしたの?」

 言い返すこともせず、黙ってそれを見送っていたラトシェを、フェネリが不思議そうな顔で振り返った。教え子が全員囲いを出たか、きちんと確認していたのだろう。

「……もう少し、練習する」
「そう……あまり根を詰めすぎないようにね?」

 無理をしないように、とラトシェの頭を撫でて、フェネリも囲いを閉めて歩いていってしまった。ジャック・ラビットはほぼ無害な魔物だから、師が傍についていなくても危険はない。穴を掘ったり耳をかいたり、気ままに過ごしているように見えるジャック・ラビットたちに向き直って、ラトシェはもう一度、ゆっくりとフェネリの言葉を反芻した。
 まずは、自分の中にある魔力の塊に触れて、そこから細く長く、魔力を糸のように練り出していく。

 まあ、そこの感覚からして、ラトシェにはわからないのだが。

 自分の中にある魔力の塊、の時点でもうだめだ。何のことかさっぱりわからない。自分の体の中のことなんて、わかるわけないじゃないか。どこかが痛めば中のこの辺、などと思うこともあるが、それだって痛みという明確な印があるからわかるだけだ。魔力なんていうふわふわした話ではない。
 もっと何か、感覚としてわかりやすい何かがあればいいのに。

 ため息を漏らして座り込んだラトシェの頭を、誰かがまたぽんと撫でた。フェネリが戻ってきたのかと顔を上げてみたラトシェの目に、ダークブロンドが映る。

「イスカ」
「イスカさん、だ」

 鼻を摘ままれて一瞬息が詰まる。ラトシェのような農家の子供が丁寧な言葉遣いなんて知るわけないのに、イスカには度々注意される。先生には敬語を使え。年上には敬語を使え。先輩にも敬語を使え。ラトシェは自分の歳をよく知らなかったものの、イスカが先輩であることは明白だったから、きちんと敬えとよく言われる。敬っていないわけではないのだが。

「先生も言ってたけど、あんまり根を詰めるなよ。素質はあるんだから、いつかできるようになるさ」

 素質がなければ彫金士にはなれないから、その見極めは慎重に行われる。村に訪れた旅人たちも、ラトシェや村の子供たちの素質について、念入りに調べていたのだ。ラトシェが間違って連れてこられた、ということはないはずである。
 ないはずなのだが、いつまで経っても何の糸口も見出せず、ラトシェには焦りばかり募っていた。フェネリの言っている感覚もわからないし、イスカの教えてくれる魔力の流れも感じられない。他の生徒のやり方を見ていて、全体としての手順はわかっているはずなのに、自分でやろうとすると成功する兆しがまるでないのだ。

「まあ、焦る気持ちもわからないでもないけど」

 ぽん、とイスカの手がまたラトシェの頭を撫でた。昔、迷子になったラトシェを見つけてくれたのもそうだが、基本的にイスカは面倒見がいい。今も、ラトシェが一人残って練習しているのを気にかけて、わざわざジャック・ラビットの囲いまで戻ってきてくれたのだろう、とラトシェは思った。

「どの辺で困ってる?」

 答えづらい質問に、ラトシェはぐっと言葉に詰まった。初めの一歩の時点ですでに行き詰まっているのだが、素直に話してしまってもいいものか。しかし、ここで取り繕っても仕方ない。

「……自分の中の魔力、って言われても、よくわからなくて」

 一度口に出してしまえば、あとは言葉が勝手にこぼれていく。
 フェネリの言っていることも、イスカの噛み砕いてくれる内容も、何一つおろそかにしているつもりはない。けれど、自分の中にある魔力を感じ取れたためしはないし、そこからつまずいてしまって全く彫金ができる気がしない。

 そんなようなことをラトシェがぽろぽろと訴えると、イスカはふむ、と考え込む様子を見せた。それから、内緒だぞ、と唇の前に指を立ててみせて、ラトシェの手を取る。

「たまに、自分の魔力をうまく流せない、って人はいるんだ」

 そういう人のために、魔力の流れを調節する治療師というものが存在するそうだ。ラトシェのいた村にはそもそも魔力を持っている人などというものがいなかったから、知らなくても無理はないらしい。
 イスカは元々その治療師を務めている家柄の生まれで、魔力の流れを診る、正す、といった練習も重ねていた。しかし彫金士の素質を見出されて彫金士学校に来ることになり、親族から心ないことを言われたこともあったそうだ。
 だから、絶対に立派な彫金士として身を立てて、それらを跳ね除けたい。ラトシェに聞かせるようでいて、改めての決意表明のようなイスカの話を、ラトシェは大人しく聞いていた。

「じっとしてろよ」

 イスカが何をどうするのかよくわからなかったが、ラトシェは頷いてされるに任せた。元々自分では解決できそうにない問題だし、治療というのもどういったことをするのか、今知ったばかりで想像がつくはずもない。まさかイスカがひどいことをするとも思っていないから、内緒と言われたなら内緒のまま、受け入れるだけだ。

 初めは何か、冷たい水を飲んだときのような感覚だった。すっとラトシェの手に入り込んできた冷たいものが、腕を伝って徐々に体の方に向かってくる。じっとしていろと言われたから心の準備ができていたけれど、何も言われていなかったら、ラトシェはきっとイスカの手を振り払っていただろう。
 その冷たいものがゆっくりと体の芯の方に流れ込んできて、少し広がった途端、今度はラトシェの中から熱いものが噴き出した。

「ッ!」

 イスカが息を呑んだのはわかったものの、それどころではない。突然湧き出した熱いものが全身を駆け巡って、暴れるようにラトシェの体から溢れ出そうとしている。押さえつけるのに集中していないと、どうにかなりそうだ。ラトシェの体がバラバラになりそうというか、イスカも巻き込んでひどいことになるかもしれない。
 それは、だめだ。

「ラトシェ……ラトシェ! 落ちつけ、流れを追いかけて手綱を握れ!」

 イスカの声は聞こえる。奔流に押し流されて溺れそうな気持ちが、ぎゅっと手を握ってくれる力強さに勇気づけられた。ラトシェの方もイスカの手を握って、飲み込まれそうな感覚の支えにする。確かなのは、イスカの手だ。
 散々に振り回してくる暴れ馬からどうにか落とされないようにしながら、少しずつ、手綱を引き絞って手懐けていく。左に外れようとするときには右の手綱を引いて、右に走り出そうとするときは左の手綱を強く握りしめて、真っ逆さまに崖から落とそうとしてくるのを、どうにか両足で踏ん張って堪える。

 そうして徐々に落ちついてきた勢いがどうにか体の輪郭に沿って収まると、ラトシェはぱちぱちと瞬きした。
 先ほどまでと何の変わりもないのだが、先ほどまでとは何もかも違う。

「……ラトシェ、大丈夫か?」

 ぼんやりと目の前を眺めていて声をかけられ、ラトシェはイスカに顔を向けた。ダークブロンドの髪と、空色の目は何も変わりないのだが、今はわかる。

「……これ、が、魔力」

 マグマのように身の内に沸き立っているラトシェの魔力とは違って、イスカのそれは澄んだ清流のように感じられた。さっき手から流れ込んできた冷たいものは、イスカの魔力だったのだろう。それが呼び水になって、どこかに凝っていたラトシェの魔力を、溢れ出させた、のだと思う。あくまで感覚でしか語れないが、今なら、自分の中にある魔力の塊、という話がわからないでもない。

「……もうわかっただろ、離せよ」
「っあ、ご、ごめん……なさい」

 ぱっと手を離したラトシェから勢いよく手を引いて、イスカは難しい顔をしていた。眉根を寄せて、口元を歪めて、きついと言ってもいい眼差しで自分の手を見つめている。

「……イスカ……?」

 ラトシェの呼びかけに答えることもなくくるりと踵を返すと、イスカは無言のまま歩いていってしまった。
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