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花と絵空
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幼いころの自分は、おそらくこれから送ることになるであろう、消費して、消費されるだけの人生を受け入れることが出来なかった。そのことを言葉にすることができたのは、大人になってからだったけれど。
その日は本当にたまたまだった。気だるい土曜日授業が終わって帰る途中の公園で、フリーマーケットがやっていたのだ。白木いろはは、なんとなく足を向けた。
大きくないその公園に色とりどりのレジャーシートが敷きつめられており、その隙間を縫うように客がわらわらと歩いていた。結構賑わってるけど食べ物は売っていないのかな、と給食の出ない日の授業で空っぽになったお腹をさすりながら公園を見渡したが、キッチンカーらしきものは見当たらない。残念に思いながらも、せっかく足を踏み入れたのだからと色とりどりの商品を物色しながらレジャーシートと人のカラフルな海をゆく。と、その中で白と青の色彩が目に入った。薄いビニールシートに直接置かれたそれは、小さな器だった。1つ持ちあげて見てみると、透き通ったような白に走らされた青い絵の具が太陽の光を受けて色を変えた。綺麗だな、と思ってそれを元の場所に戻して立ち去ろうとすると別の器が目に入り、思わずそちらも手にとる。周りの器とお揃いの白に、お揃いの青で描かれたそれは。
「化け猫……」
美しい文様とは似ても似つかない化け物であった。口に出してから「しまった」と口を塞ぐがもう遅い。出した言葉は戻らなかった。店の主人に謝罪をしようとして顔を上げると、サングラスの奥の険しい瞳と目が合って言葉が引っ込む。金髪で、口元が「へ」の字に曲がっていて、派手なジャンバーを着ている。フリーマーケットに出てくる人相ではないチンピラに対峙し、背中に冷や汗をかき硬直していると、チンピラが先に口を開いた。
「化け猫いうな……」
その弱弱しい声に、全身の力が抜けた。
「化け猫に用はねえだろそれ置いてさっさと去りなボクちゃん。商売の邪魔だ」
手の甲をこちらに向けてしっしっという動作をするが、先ほどの弱弱しい声の印象のせいで怖さが全くなかった。いろははチンピラのような格好の彼の顔と、手にしたままの化け猫の器を交互に見比べた。器は見れば見るほど味があるような気さえしてくる。ただ、この化け猫が夢に出てきて食われそうでもある。
一言でいえば画伯だ。
「これ、おじさんが書いたの?」
「このナリで? バカなこと言うな」
あとおじさんじゃねえ、とチンピラはポケットから煙草を取り出して咥える。おそらく公園内は禁煙だが、それを注意する勇気はまだなかった。
「でも、爪に青い絵の具が詰まってる」
代わりに、たばこに火をつけようとする指先の爪を指差してやればチンピラはバツの悪そうな顔をして手を下した。図星だったようだ。
「別に。贋作売るついでに混ぜてみただけ。ボクちゃんには関係ねぇだろ」
「こんなへた……一目見て贋作だって見てわかるようなもの、売れるんですか?」
「いや全く。手に取られたのもボクちゃんが初めて。儲けるための商売なら転売のほうがよっぽどいい」
おそらく器が売れていないのは贋作だからではなく主にチンピラが怖いからだ、という言葉をいろはは飲み込んだ。
「転売は商売じゃないですし、絶対にダメです」
「ふーん」
興味なさそうに答える彼はの顔には、はっきり「いつまでいるんだこいつ」と書いてあった。しかし、いろはは好奇心が勝っていた。チンピラと絵。似合わない。
「お兄さんはヤクザなの?」
それにしては見たことがない顔だ、とじろじろと顔を見ていると、チンピラは嫌そうな顔をした。
「んな良いもんじゃねぇよ。転売やら贋作やらで小銭稼ぎしてる半端もんさ」
「ヤクザも別に良いものじゃないとおもうけど……」
「ふは、ホンモノとなり損ないの違いはガキにはまだわかんねぇか」
だからこんなもんを手にとっちまう。
目元にシワを寄せ、自嘲気味に笑った顔が印象的だった。
「なんで? 僕この化け猫好きだな。うちにも似たような食器いくつかあるけど、こんなに味のある絵の器はないよ。買いたい」
「化け猫言うなっつてんでしょ」
そういうなり、いろはの手から器を引ったくる。
財布を探そうと鞄を探ろうとした手を、彼の声が止めた。
「まあ……良かったらもらってくれや。どうせそんなもん売れないし、お代はいらないからさ。食器棚か……箪笥か。にぎやかしにはなるだろーよ」
ぽい、と投げてよこされたそれを落とさないように慌ててキャッチする。
でも、と続けようとしたら指にタバコを挟み込んだまま手の甲を向けられ、もう一度「しっしっ」とやられた。これ以上話をしたくないという意思表示だ。
「……ありがとう。ちゃんと使いますから」
会釈して礼を言ったが、彼は返事をせずにそっぽをむいた。隠し切れない笑みが口元に滲んでいた。
家に帰ったいろはは、自室の勉強机に化け猫の器を置いた。チンピラみたいな格好をしてるのに器に絵を描くなんて。しかもその絵は化け猫だなんて。無骨な手でちまちまと白に青を乗せる作業をしていると思うとなんだか変な気持ちになった。ヤンキーが雨の中捨てられた子猫に傘を差しだしているところを見てしまった時のような、そんな気持ち。実際には見たことないけど。
いろはは化け猫の頭の部分を人差し指でなぞってふふっと笑うと、通学カバンから「No.36」と書かれた一冊のノートを取り出して机に広げた。お腹を空かせていたことなど、とうに忘れてしまっていた。
次の土曜日もその次の土曜日も、いろははフリーマーケットがやっていた公園に足を運んだ。またチンピラのお兄さんに会えるのではないかという思いがあったが、その期待も虚しく空振りに終わっていた。公園には小さい子供が遊んでいて、その様子を見守る家族の姿が。のどかな休日の公園にチンピラのお兄さんは似合わない。いろはは公園の入口に近いベンチに腰掛け、背もたれに上体を預けて伸びをした。太陽がまぶしくて目を閉じても、世界は明るかった。その世界に、ふと影が落ちる。聞き覚えのある声が降ってくる。
「ボクちゃん、器が好きで日光浴も好きなの? おじいちゃんなの?」
「確かに、クラスメイトにおじいちゃんみたいって言われることはありますけど」
ゆっくりと目を開けば、サングラスの奥の瞳を笑みの形に歪ませて上機嫌そうなチンピラが、こちらを逆さまにのぞき込んでいた。いろはは体を起こして立ち上がり、ベンチを挟んで彼と向かい合う。
「あと、僕の名前はボクちゃんじゃないです」
「じゃあ名前教えて」
ベンチを半周していろはの横に来ると、お兄さんはドカッとベンチに座った。そのちゃらちゃらしたした見た目に反して爽やかな香りが鼻に届く。
「いろはです。お兄さんの名前は?」
「繁田。いろはって本名? こんなチンピラに名前教えちゃって良かったの?」
なおもニコニコするチンピラ改め繁田は「防犯意識低くない?」と言ってタバコを取り出して咥える。
「化け猫の絵をちまちま描いてるチンピラは怖くないです……それにしても、繁田さん機嫌よさそうですね。なんか良いことでもあったんですか?」
かちかち、とライターで火をつける音を聞きながら尋ねると、繁田は少しくぐもった声で「パチンコ大勝ち。ジュースおごってあげようか」と言った。知らない人に物を貰ってはいけませんと言われてるので結構ですと答えると、「ふは、今更」と笑われた。その通りだった。
「繁田さんは、器に絵を描くのを仕事にしないんですか?」
いろはの言葉に、繁田は煙を長く、ゆっくりと吐き出すだけで答えた。やめてほしいという意思はなんとなく察したけど、続けた。
「転売とか贋作とかやめて、職人さんに弟子入りしたり……」
「ボクちゃんさぁ」
煙草を咥えたまま、繁田は目だけをいろはに向けた。その冷ややかな声と視線に背筋がぞくりとする。
「出会いに夢、見すぎ」
中学生くらいの時期ってそういうのに憧れるのかもしれないけどさ、現実ではそう簡単に物語って始まらないもんだよ。と、痛いところを突かれ、いろはは顔に熱が集まるのを感じた。繁田はそんないろはの様子を見て雰囲気を柔らかくすると、たばこの灰を携帯灰皿に捨てる。チンピラのくせにマメだ。そのマメさにいろははなんだかイラつく。
「じゃあなんで、フリマでちょっと喋っただけの子供にわざわざ話しかけてきたんですか。出会いに夢見てるのは繁田さんだって一緒じゃないんですか」
強い口調になったいろはに、繁田は器用に片眉を上げた。いちいち腹の立つしぐさをするチンピラだ。
「普通ならああそういえばフリマで器をあげたのはあんな子だったなってスルーするところですよ。僕が繁田さんの器を持った時に物語は始まって、繁田さんが僕に話しかけた時点で話は進んでるんです。繁田さんが僕に見せた夢、僕が見続けて悪いですか」
早口で言いきってやると、繁田は目を見開き、煙草の灰を捨てるのも忘れていろはを見つめていた。重力に耐え切れなかった灰が彼の手に落ち、「あちッ」と慌てて灰を落とす。そして手の甲をごしごしと自分の服でこすり、携帯灰皿に短くなった煙草を捨てた。
「いや、いろは君は詩人だね……将来の黒歴史になるからやめたほうがいいんじゃないかな」
「黒歴史ならとっくに生み出してる。繁田さんもね」
ベンチに置いたままだったカバンから「No.36」と書かれたノートを一冊取り出して、繁田に押し付けた。そしてカバンのチャックを閉めるのもそこそこに立ち上がる。「え、なにこれ」と素っ頓狂な声を出した繁田に小さく手を振って「では、また」と言いその場を走って去った。走ってるからという理由だけじゃない動悸が耳に響いた。誰かにあのノートを見せたのは初めてのことだった。
その夜、繁田に放った言葉を反芻し、恥ずかしさに身もだえしながら眠りについたことは言うまでもない。ただ、後悔はなかった。
約束はなかった。でも会えると思った。そういう風に物語は進んでいると信じていたから。
繁田は前までのチャラチャラした服ではなく、チノパンに白シャツという格好でベンチに座っていたから一瞬誰だか分からなかったけれど。
「繁田さん。今日仕事だったんですか?」
「ん、なんで」
「ちゃんとした服装してるから」
繁田が左側にずれたから、いろはは彼の右側に座った。いろはの言葉に、繁田はああ、と興味なさそうな声を出した。「別に。明らかにチンピラですよーって格好した大人が、子供とこんなとこで話してたら通報されんだろ」という繁田に、いろはは思わず口角を上げた。
「フリマだってそういう格好してたらもっと売れたかもしれないのに。金髪だからめちゃくちゃ浮いてるけど」
「っせ」
繁田はトートバッグから一冊のノートを取り出していろはに突き出した。いろははそれを受け取って学生カバンにしまい、「どうだった?」と聞く。繁田はいろはのほうを見ずに真っ直ぐと目の前に広がる公園を見つめた。
「美化しすぎ」
「繁田さんそればっかりじゃない?」
いろはの言葉を無視して、繁田はなおも続ける。
「やたら耳障りのいい言葉を吐く子供だなあって思ってたけど、小説を書くからだったんだな。しかもページにぎっちりで読みにくかったし、あと36冊目って書きすぎじゃない?」
「耳障りのいい、ってほめてないよね」
繁田へ渡したノートに、いろはは小説を書いていた。繁田から器を受け取ったあの日に書いた小説のタイトルは『花と絵』。やくざの下っ端が中国陶磁器に魅せられ、組を抜けてまで中国の職人に弟子入りする話だ。そこに中学生であるいろはは出てこないけれど。
「うん褒めてない。そんなの書いてないでちゃんとお勉強しないとろくな大人にならないよ」
「ふーん。繁田さんみたいな?」
「そーよ」
繁田はポケットからごそごそと煙草の箱を取り出し、口に煙草を咥えた。
「公園、たぶん禁煙ですよ」
「まじで」
いろはの注意に、繁田はちょっと目を見開いて煙草を箱に戻した。そして尻ポケットにねじ込む。そのまま行き場の失った手をベンチの裏に回して空を見上げた。
「いろは君が書いた小説の主人公みたいに真っ直ぐな人間じゃねえけど……俺が化け猫を描くきっかけになったところは似てる」
「お店で見た陶磁器がきれいで一目惚れだったってやつ? 見ているだけでは満足出来ないで描き始めたってとこ」
いろはが小説を書き始めたのも似たような理由だった。小学生の時に、好きな小説を何度も読み返しているうちに、自分でもこんな物語を生み出してみたいと思うようになったのだ。それに、物語を浴びているときは、自分の置かれた現実を飛び出すことができるから。繁田は頷いて同意する。
「陶磁器に出会ったのは、兄貴に連れられていった飲み屋でのことだった。その店は、男と女が適当にぎゃーぎゃー騒いでるような店で、やかましくて、酒と香水の匂いが入り混じって臭くて仕方なかった。ただその中で、棚に飾ってあったそれが、その器だけが静寂を纏ってるように見えた。本物か偽物かの区別は俺には付かなった。今だってわかんねえけどな。ただ……その時、美しい、と思ったよ」
「……」
なにも言わないいろはに、繁田は恥ずかしそうに笑って頬を掻いた。
「ふん、青臭いこと語っちまった。いろは君のせいだぜ」
「厨二病って伝染するよね。それで絵を描き始めたの?」
34歳のお兄ちゃんが厨二病はイタイし自分でいうな、と繁田は眉を顰めたが、いろはの質問にはちゃんと答えてくれた。
「まあそう。そのあと贋作職人を兄貴に紹介してもらって、贋作売って小遣い稼ぎしながら自分でも描いてみてたってワケよ。職人に無理言ってアトリエ貸してもらってな」
「好きなものの贋作売るって、良心は痛まなかったの?」
「はは」
いろはの素朴な疑問に、繁田は軽く笑った。出会ってから時々見せる自嘲気味な笑みだった。
「向き合い方が分からなかった」
努めて平坦な声をだそうとする繁田の心の内は、いろはには完全に理解することは出来なかった。が、言いたいことはわかる。
「本気で向き合って失敗するのが怖いってこと?」
「ぐゥ、物言いに容赦がねえ。ボクちゃん、大人ってのは案外繊細なんだよ。覚えといてね。俺は傷ついた……」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、繁田はひらひらと手を振った。気にしていない、ということだろう。
「それさあ、なんでボクちゃんは出てこないの? 俺の話を参考にしてるなら、小説を書いてる中学生と出会って夢を思いだし~~みたいな内容にするもんじゃないの? その小説の主人公、全然もだもだしないで真っ直ぐ夢に向かってるたださわやかなおっさんだったじゃん」
もしくはこの内容で俺がモデルじゃないとか……? そうだとしたらかなり恥ずかしい奴だけど。と、繁田が言う。いろはは鞄を抱き締め直して腕に力を込めた。
「小説は自己投影じゃないよ。せっかく綺麗な世界を書いているのに、その中にぼくが混ざったら邪魔でしょう?」
「えぇ……? 良く分かんないけど、チンピラやってる俺なんかよりいろはくんの方がよほどお綺麗だと思うけど」
「お綺麗」
「そ、お綺麗」
「……そう見えているなら良かったけど」
「ますますわかんねぇな。実はめちゃくちゃ不良なの?」
「繁田さんと関わってることが知られたら生徒指導かも」
「親呼び出されて進路にも影響でる? もう会うのやめとこか?」
「冗談ですって」
「ま、非日常に憧れる気持ちも分かるけどね。ほどほどにしときなよ?」
「繁田さんに言われたくない。どうせ約束なんかしてなくても来週の土曜日もここでぼくのこと待ってるんでしょ」
「ウン、そーね。多分待ってる」
素直に言われて面食らった。繁田はそんないろはの顔を見て軽く笑うと、「照れるくらいなら最初から試すようなこと言うな。ガキだなー」と言う。カッ、と顔が熱くなると同時に、繁田のその腹の立つ顔面に学生カバンをフルスイングでお見舞いし、ベンチから勢い良く立ち上がる。
「繁田さんのバーカ!!!!!」
スイングした勢いのまま鞄を抱き直し、捨て台詞を吐くと、繁田の反応も確認せずに全力でその場から走り去った。
相手はチンピラなので最悪激昂されてナイフで刺されたりするかもしれないという恐怖がよぎったが、おそらくいろはにそんなことが出来る人間は、少なくともチンピラの中にはいないという慢心もあり、すごく嫌な気持ちになった。殴ったことは次に会ったら謝ろうと思った。その、次の土曜日が来ることは、二度となかったのだけれど。
初めて出会った時よりも、爪に住み着く青色が濃くなっていたことに気がついてるということを、伝えたかったと思った。
口約束も交わしていない大人と子供の邂逅が、いつまでも続くなんて甘い夢は物語の中にもなかったのに。
その邂逅が途絶えた原因は、主にいろはの側にある。繁田にフルスイングをかました後、家に帰ったいろはを待ち構えていたのはたくさんの警察官であった。おおよそ普通の家ではない、一切の侵入者を許さない塀に囲まれた屋敷がいろはの家であった。点滅するパトランプに「とうとうこの時がきたのか」と、ぼんやりと思ったことを覚えている。いろはの実父はやくざの頭であった。
当然だが、警察から事情を聴かれた。中学生であるいろはがなんらかの罪に問われることはないだろうが、実の息子という立場で父親がしでかしたことから完全に逃れられるとは、いろはも思ってはいなかった。取り調べ室などではなく、応接間のようなところでいろはの話を記録する警察官に「父親は何をしたんですか」と尋ねた。彼は、まだ子供であるいろはに伝えるべきことなのだろうかと少し逡巡したのち、「違法薬物の所持の疑いだよ」と答えた。
「テレビで見るやくざは、薬は嫌いだったと思うんですけどね。やくざの風上にも置けない」
ぽつりと呟いた音は誰にも拾われることはなかった。応接間の窓からのぞく青空に、ひどくイラついた。
「え、いろはさんってやくざの息子だったんですか?」
ガタガタと、およそ精密機械が出していい音とは思えない激しさでキーボードを叩くいろはに、のほほんとした声が降ってくる。
「今その話って必要? 1時間後に締め切りが迫る原稿を放棄してまでする価値のある話?」
鏡を見なくてもわかるほど酷い顔で、キーボードを打つ手を止めずにギロリと彼女を睨みつけた。彼女は手に持った雑誌を床に落とし、「ひいッ、本物のやくざだ! 指詰めはご勘弁を~!」と叫んで自分のデスクに走って戻っていった。優秀だが空気が絶望的に読めない彼女にやくざとやくざの息子はイコールではない、と突っ込む余裕もなく、いろはは目の前の文字列に集中した。
父親が違法薬物の所持で捕まった後、母親は失踪して居場所が分からなくなった。頼れる親戚もおらず、いろはのことを知る者のいない遠方の施設に引き取られたため、繁田とはあれから会っていない。最後に殴ってしまったこと、してもいない約束を破ってしまったことを謝りたかったが、繁田に再び出会うための手がかりはなかった。もとより苗字しか知らない男だったわけだし。
いろはは雑誌編集者になった。繁田に見せた『花と空』を最後にまともに小説は書いていない。施設に引き取られるタイミングで、書き溜めていた小説ノートは全部ゴミ袋に突っ込んで捨ててしまった。それからも何度か小説を再開しようとしたが子供のころのような情熱は湧き起らず、執筆自体全く続かなかった。小説投稿WEBサイトに中途半端なものを投げては、ぽつりぽつりといいねが付けば上出来なレベル。いろははもう、虚構の世界に救いを求めることはない。雑誌の中に広がるのは、どうしようもなく、現実だ。
「いよっし」
締め切り3分前、どうにか原稿を書き上げで送信する。計画的に仕事をしているはずなのにどうしてこう、いつもギリギリなのだろうか。脳からとんでもない勢いで快楽物質が出ている気がするから構わないといえば構わないのだが。
ぴろん、と原稿拝受のメールが来たのを確認していろははデスクから立ち上がる。「取材行ってきます」とフロアに声をかければ、先ほどの彼女が「いろはさん! そのボロボロの格好で取材に行く気ですか!?」と悲鳴に近い声を上げたので、ちゃんと着替えて行きますって、と答えた。続けて誰にも聞こえないような小さな声で、
「まあ、そんな気を使う必要はないかもしれないけど」
と、付け加える。
約束の時間まであと5分。その店の前に立ったいろはは、どくどくと鳴る心臓を必死になだめようとする。が、うまくいかない。次の担当は懐古特集の一角。レコード、カセットテープ、ブラウン管テレビ、古書……それらとは少し毛色の異なる、骨董品。
開ける時にガラガラとなりそうなその扉を3回ノックし手をかける。と、力を入れていないのにその扉が開いた。中から誰かが開けたのだろう。その人物を見上げると、予想通り、懐かしい顔がそこにあった。記憶にあるよりも幾分か低い声が降ってくる。
「ボクちゃん」
「繁田さん」
金髪ではなくなり、しわがいくらか増えた彼には、チンピラの影は全く無くなっていた。結局どんな顔をしたらいいか分からなかったいろはがへにゃりと笑うと、繁田は軽く、いろはの頭にげんこつを落とした。
「あん時のお返し。これでチャラな」
「……」
くるりと踵を返して店内に戻る繁田の後ろ姿を、ただ見つめた。何か言わなければ、今は仕事で来ているのだから、お元気でしたか、今もあなたは描き続けていますか――。
うまく話せず、はくはくと口を開いたり閉じたりするいろはの後ろから、壮年の男性の声が聞こえた。
「アキちゃん、店番ありがとうねぇ。あ、こちらが取材の方かな? お待たせして申し訳ないです」
「え、ぁッ、……初めまして。白木いろはと申します。本日はお時間いただきありがとうございます」
繁田とはそれ以上話すことなく、その店の店主へ、取材を行った。
「ボクちゃん、お茶」
「あ、ありがとうございます。……アキちゃんって呼ばれているんですか?」
取材の後、再び店をあけるという店主を見送り、二人きりになった店内で繁田からお茶を受け取った。
「ん。彰成の、アキちゃん」
「繁田さんの下の名前、彰成っていうんだ」
「ボクちゃんも苗字、白木っていうんだ。そのまま使ってんのね」
どかっ、といろはの横に座った繁田へ向かって、気まずさを抱えて口を開く。
「隠してたわけじゃ……なくないけど」
「待ってたよ」
「ごめんなさい」
「……大変だったろ」
「僕は、大丈夫だった。いつかそういうこともあるだろうと思っていたし、世襲制じゃないにしても僕がやの付く仕事をするはめになる可能性も完全につぶれた。そこそこ、自由に生きているよ」
茶器に揺らめく自分の顔を見つめ返して独り言のように呟き、ぱっと顔を上げて繁田の目を見た。
「繁田さんは?」
繁田はちょっと目を細める。
「あれからしばらくして、中国に渡って修行したよ」
いろははぱっと顔を明るくして「じゃあ今は職人さんなの?」と声を弾ませた。繁田は緩く首を振る。
「いや。真面目に向き合って、やっぱり向いていないことが分かった。もう描いてない」
「えっ……」
「んな顔すんな。後ろ向きの決断じゃねえよ。いろは君だってそうだろ? 関わり方はひとつじゃない」
そう言われてハッとした。繁田は、作る者としてではなく、繋ぐ者としてその身を捧げることにしたのだ。
くすんでしまったわけでも、消えてしまったわけではない。少し色を変えただけ。
その色の原点は、あの公園。
思い出せば小恥ずかしい、二人の青が描いた絵空事の先にある、いまの話。
その日は本当にたまたまだった。気だるい土曜日授業が終わって帰る途中の公園で、フリーマーケットがやっていたのだ。白木いろはは、なんとなく足を向けた。
大きくないその公園に色とりどりのレジャーシートが敷きつめられており、その隙間を縫うように客がわらわらと歩いていた。結構賑わってるけど食べ物は売っていないのかな、と給食の出ない日の授業で空っぽになったお腹をさすりながら公園を見渡したが、キッチンカーらしきものは見当たらない。残念に思いながらも、せっかく足を踏み入れたのだからと色とりどりの商品を物色しながらレジャーシートと人のカラフルな海をゆく。と、その中で白と青の色彩が目に入った。薄いビニールシートに直接置かれたそれは、小さな器だった。1つ持ちあげて見てみると、透き通ったような白に走らされた青い絵の具が太陽の光を受けて色を変えた。綺麗だな、と思ってそれを元の場所に戻して立ち去ろうとすると別の器が目に入り、思わずそちらも手にとる。周りの器とお揃いの白に、お揃いの青で描かれたそれは。
「化け猫……」
美しい文様とは似ても似つかない化け物であった。口に出してから「しまった」と口を塞ぐがもう遅い。出した言葉は戻らなかった。店の主人に謝罪をしようとして顔を上げると、サングラスの奥の険しい瞳と目が合って言葉が引っ込む。金髪で、口元が「へ」の字に曲がっていて、派手なジャンバーを着ている。フリーマーケットに出てくる人相ではないチンピラに対峙し、背中に冷や汗をかき硬直していると、チンピラが先に口を開いた。
「化け猫いうな……」
その弱弱しい声に、全身の力が抜けた。
「化け猫に用はねえだろそれ置いてさっさと去りなボクちゃん。商売の邪魔だ」
手の甲をこちらに向けてしっしっという動作をするが、先ほどの弱弱しい声の印象のせいで怖さが全くなかった。いろははチンピラのような格好の彼の顔と、手にしたままの化け猫の器を交互に見比べた。器は見れば見るほど味があるような気さえしてくる。ただ、この化け猫が夢に出てきて食われそうでもある。
一言でいえば画伯だ。
「これ、おじさんが書いたの?」
「このナリで? バカなこと言うな」
あとおじさんじゃねえ、とチンピラはポケットから煙草を取り出して咥える。おそらく公園内は禁煙だが、それを注意する勇気はまだなかった。
「でも、爪に青い絵の具が詰まってる」
代わりに、たばこに火をつけようとする指先の爪を指差してやればチンピラはバツの悪そうな顔をして手を下した。図星だったようだ。
「別に。贋作売るついでに混ぜてみただけ。ボクちゃんには関係ねぇだろ」
「こんなへた……一目見て贋作だって見てわかるようなもの、売れるんですか?」
「いや全く。手に取られたのもボクちゃんが初めて。儲けるための商売なら転売のほうがよっぽどいい」
おそらく器が売れていないのは贋作だからではなく主にチンピラが怖いからだ、という言葉をいろはは飲み込んだ。
「転売は商売じゃないですし、絶対にダメです」
「ふーん」
興味なさそうに答える彼はの顔には、はっきり「いつまでいるんだこいつ」と書いてあった。しかし、いろはは好奇心が勝っていた。チンピラと絵。似合わない。
「お兄さんはヤクザなの?」
それにしては見たことがない顔だ、とじろじろと顔を見ていると、チンピラは嫌そうな顔をした。
「んな良いもんじゃねぇよ。転売やら贋作やらで小銭稼ぎしてる半端もんさ」
「ヤクザも別に良いものじゃないとおもうけど……」
「ふは、ホンモノとなり損ないの違いはガキにはまだわかんねぇか」
だからこんなもんを手にとっちまう。
目元にシワを寄せ、自嘲気味に笑った顔が印象的だった。
「なんで? 僕この化け猫好きだな。うちにも似たような食器いくつかあるけど、こんなに味のある絵の器はないよ。買いたい」
「化け猫言うなっつてんでしょ」
そういうなり、いろはの手から器を引ったくる。
財布を探そうと鞄を探ろうとした手を、彼の声が止めた。
「まあ……良かったらもらってくれや。どうせそんなもん売れないし、お代はいらないからさ。食器棚か……箪笥か。にぎやかしにはなるだろーよ」
ぽい、と投げてよこされたそれを落とさないように慌ててキャッチする。
でも、と続けようとしたら指にタバコを挟み込んだまま手の甲を向けられ、もう一度「しっしっ」とやられた。これ以上話をしたくないという意思表示だ。
「……ありがとう。ちゃんと使いますから」
会釈して礼を言ったが、彼は返事をせずにそっぽをむいた。隠し切れない笑みが口元に滲んでいた。
家に帰ったいろはは、自室の勉強机に化け猫の器を置いた。チンピラみたいな格好をしてるのに器に絵を描くなんて。しかもその絵は化け猫だなんて。無骨な手でちまちまと白に青を乗せる作業をしていると思うとなんだか変な気持ちになった。ヤンキーが雨の中捨てられた子猫に傘を差しだしているところを見てしまった時のような、そんな気持ち。実際には見たことないけど。
いろはは化け猫の頭の部分を人差し指でなぞってふふっと笑うと、通学カバンから「No.36」と書かれた一冊のノートを取り出して机に広げた。お腹を空かせていたことなど、とうに忘れてしまっていた。
次の土曜日もその次の土曜日も、いろははフリーマーケットがやっていた公園に足を運んだ。またチンピラのお兄さんに会えるのではないかという思いがあったが、その期待も虚しく空振りに終わっていた。公園には小さい子供が遊んでいて、その様子を見守る家族の姿が。のどかな休日の公園にチンピラのお兄さんは似合わない。いろはは公園の入口に近いベンチに腰掛け、背もたれに上体を預けて伸びをした。太陽がまぶしくて目を閉じても、世界は明るかった。その世界に、ふと影が落ちる。聞き覚えのある声が降ってくる。
「ボクちゃん、器が好きで日光浴も好きなの? おじいちゃんなの?」
「確かに、クラスメイトにおじいちゃんみたいって言われることはありますけど」
ゆっくりと目を開けば、サングラスの奥の瞳を笑みの形に歪ませて上機嫌そうなチンピラが、こちらを逆さまにのぞき込んでいた。いろはは体を起こして立ち上がり、ベンチを挟んで彼と向かい合う。
「あと、僕の名前はボクちゃんじゃないです」
「じゃあ名前教えて」
ベンチを半周していろはの横に来ると、お兄さんはドカッとベンチに座った。そのちゃらちゃらしたした見た目に反して爽やかな香りが鼻に届く。
「いろはです。お兄さんの名前は?」
「繁田。いろはって本名? こんなチンピラに名前教えちゃって良かったの?」
なおもニコニコするチンピラ改め繁田は「防犯意識低くない?」と言ってタバコを取り出して咥える。
「化け猫の絵をちまちま描いてるチンピラは怖くないです……それにしても、繁田さん機嫌よさそうですね。なんか良いことでもあったんですか?」
かちかち、とライターで火をつける音を聞きながら尋ねると、繁田は少しくぐもった声で「パチンコ大勝ち。ジュースおごってあげようか」と言った。知らない人に物を貰ってはいけませんと言われてるので結構ですと答えると、「ふは、今更」と笑われた。その通りだった。
「繁田さんは、器に絵を描くのを仕事にしないんですか?」
いろはの言葉に、繁田は煙を長く、ゆっくりと吐き出すだけで答えた。やめてほしいという意思はなんとなく察したけど、続けた。
「転売とか贋作とかやめて、職人さんに弟子入りしたり……」
「ボクちゃんさぁ」
煙草を咥えたまま、繁田は目だけをいろはに向けた。その冷ややかな声と視線に背筋がぞくりとする。
「出会いに夢、見すぎ」
中学生くらいの時期ってそういうのに憧れるのかもしれないけどさ、現実ではそう簡単に物語って始まらないもんだよ。と、痛いところを突かれ、いろはは顔に熱が集まるのを感じた。繁田はそんないろはの様子を見て雰囲気を柔らかくすると、たばこの灰を携帯灰皿に捨てる。チンピラのくせにマメだ。そのマメさにいろははなんだかイラつく。
「じゃあなんで、フリマでちょっと喋っただけの子供にわざわざ話しかけてきたんですか。出会いに夢見てるのは繁田さんだって一緒じゃないんですか」
強い口調になったいろはに、繁田は器用に片眉を上げた。いちいち腹の立つしぐさをするチンピラだ。
「普通ならああそういえばフリマで器をあげたのはあんな子だったなってスルーするところですよ。僕が繁田さんの器を持った時に物語は始まって、繁田さんが僕に話しかけた時点で話は進んでるんです。繁田さんが僕に見せた夢、僕が見続けて悪いですか」
早口で言いきってやると、繁田は目を見開き、煙草の灰を捨てるのも忘れていろはを見つめていた。重力に耐え切れなかった灰が彼の手に落ち、「あちッ」と慌てて灰を落とす。そして手の甲をごしごしと自分の服でこすり、携帯灰皿に短くなった煙草を捨てた。
「いや、いろは君は詩人だね……将来の黒歴史になるからやめたほうがいいんじゃないかな」
「黒歴史ならとっくに生み出してる。繁田さんもね」
ベンチに置いたままだったカバンから「No.36」と書かれたノートを一冊取り出して、繁田に押し付けた。そしてカバンのチャックを閉めるのもそこそこに立ち上がる。「え、なにこれ」と素っ頓狂な声を出した繁田に小さく手を振って「では、また」と言いその場を走って去った。走ってるからという理由だけじゃない動悸が耳に響いた。誰かにあのノートを見せたのは初めてのことだった。
その夜、繁田に放った言葉を反芻し、恥ずかしさに身もだえしながら眠りについたことは言うまでもない。ただ、後悔はなかった。
約束はなかった。でも会えると思った。そういう風に物語は進んでいると信じていたから。
繁田は前までのチャラチャラした服ではなく、チノパンに白シャツという格好でベンチに座っていたから一瞬誰だか分からなかったけれど。
「繁田さん。今日仕事だったんですか?」
「ん、なんで」
「ちゃんとした服装してるから」
繁田が左側にずれたから、いろはは彼の右側に座った。いろはの言葉に、繁田はああ、と興味なさそうな声を出した。「別に。明らかにチンピラですよーって格好した大人が、子供とこんなとこで話してたら通報されんだろ」という繁田に、いろはは思わず口角を上げた。
「フリマだってそういう格好してたらもっと売れたかもしれないのに。金髪だからめちゃくちゃ浮いてるけど」
「っせ」
繁田はトートバッグから一冊のノートを取り出していろはに突き出した。いろははそれを受け取って学生カバンにしまい、「どうだった?」と聞く。繁田はいろはのほうを見ずに真っ直ぐと目の前に広がる公園を見つめた。
「美化しすぎ」
「繁田さんそればっかりじゃない?」
いろはの言葉を無視して、繁田はなおも続ける。
「やたら耳障りのいい言葉を吐く子供だなあって思ってたけど、小説を書くからだったんだな。しかもページにぎっちりで読みにくかったし、あと36冊目って書きすぎじゃない?」
「耳障りのいい、ってほめてないよね」
繁田へ渡したノートに、いろはは小説を書いていた。繁田から器を受け取ったあの日に書いた小説のタイトルは『花と絵』。やくざの下っ端が中国陶磁器に魅せられ、組を抜けてまで中国の職人に弟子入りする話だ。そこに中学生であるいろはは出てこないけれど。
「うん褒めてない。そんなの書いてないでちゃんとお勉強しないとろくな大人にならないよ」
「ふーん。繁田さんみたいな?」
「そーよ」
繁田はポケットからごそごそと煙草の箱を取り出し、口に煙草を咥えた。
「公園、たぶん禁煙ですよ」
「まじで」
いろはの注意に、繁田はちょっと目を見開いて煙草を箱に戻した。そして尻ポケットにねじ込む。そのまま行き場の失った手をベンチの裏に回して空を見上げた。
「いろは君が書いた小説の主人公みたいに真っ直ぐな人間じゃねえけど……俺が化け猫を描くきっかけになったところは似てる」
「お店で見た陶磁器がきれいで一目惚れだったってやつ? 見ているだけでは満足出来ないで描き始めたってとこ」
いろはが小説を書き始めたのも似たような理由だった。小学生の時に、好きな小説を何度も読み返しているうちに、自分でもこんな物語を生み出してみたいと思うようになったのだ。それに、物語を浴びているときは、自分の置かれた現実を飛び出すことができるから。繁田は頷いて同意する。
「陶磁器に出会ったのは、兄貴に連れられていった飲み屋でのことだった。その店は、男と女が適当にぎゃーぎゃー騒いでるような店で、やかましくて、酒と香水の匂いが入り混じって臭くて仕方なかった。ただその中で、棚に飾ってあったそれが、その器だけが静寂を纏ってるように見えた。本物か偽物かの区別は俺には付かなった。今だってわかんねえけどな。ただ……その時、美しい、と思ったよ」
「……」
なにも言わないいろはに、繁田は恥ずかしそうに笑って頬を掻いた。
「ふん、青臭いこと語っちまった。いろは君のせいだぜ」
「厨二病って伝染するよね。それで絵を描き始めたの?」
34歳のお兄ちゃんが厨二病はイタイし自分でいうな、と繁田は眉を顰めたが、いろはの質問にはちゃんと答えてくれた。
「まあそう。そのあと贋作職人を兄貴に紹介してもらって、贋作売って小遣い稼ぎしながら自分でも描いてみてたってワケよ。職人に無理言ってアトリエ貸してもらってな」
「好きなものの贋作売るって、良心は痛まなかったの?」
「はは」
いろはの素朴な疑問に、繁田は軽く笑った。出会ってから時々見せる自嘲気味な笑みだった。
「向き合い方が分からなかった」
努めて平坦な声をだそうとする繁田の心の内は、いろはには完全に理解することは出来なかった。が、言いたいことはわかる。
「本気で向き合って失敗するのが怖いってこと?」
「ぐゥ、物言いに容赦がねえ。ボクちゃん、大人ってのは案外繊細なんだよ。覚えといてね。俺は傷ついた……」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、繁田はひらひらと手を振った。気にしていない、ということだろう。
「それさあ、なんでボクちゃんは出てこないの? 俺の話を参考にしてるなら、小説を書いてる中学生と出会って夢を思いだし~~みたいな内容にするもんじゃないの? その小説の主人公、全然もだもだしないで真っ直ぐ夢に向かってるたださわやかなおっさんだったじゃん」
もしくはこの内容で俺がモデルじゃないとか……? そうだとしたらかなり恥ずかしい奴だけど。と、繁田が言う。いろはは鞄を抱き締め直して腕に力を込めた。
「小説は自己投影じゃないよ。せっかく綺麗な世界を書いているのに、その中にぼくが混ざったら邪魔でしょう?」
「えぇ……? 良く分かんないけど、チンピラやってる俺なんかよりいろはくんの方がよほどお綺麗だと思うけど」
「お綺麗」
「そ、お綺麗」
「……そう見えているなら良かったけど」
「ますますわかんねぇな。実はめちゃくちゃ不良なの?」
「繁田さんと関わってることが知られたら生徒指導かも」
「親呼び出されて進路にも影響でる? もう会うのやめとこか?」
「冗談ですって」
「ま、非日常に憧れる気持ちも分かるけどね。ほどほどにしときなよ?」
「繁田さんに言われたくない。どうせ約束なんかしてなくても来週の土曜日もここでぼくのこと待ってるんでしょ」
「ウン、そーね。多分待ってる」
素直に言われて面食らった。繁田はそんないろはの顔を見て軽く笑うと、「照れるくらいなら最初から試すようなこと言うな。ガキだなー」と言う。カッ、と顔が熱くなると同時に、繁田のその腹の立つ顔面に学生カバンをフルスイングでお見舞いし、ベンチから勢い良く立ち上がる。
「繁田さんのバーカ!!!!!」
スイングした勢いのまま鞄を抱き直し、捨て台詞を吐くと、繁田の反応も確認せずに全力でその場から走り去った。
相手はチンピラなので最悪激昂されてナイフで刺されたりするかもしれないという恐怖がよぎったが、おそらくいろはにそんなことが出来る人間は、少なくともチンピラの中にはいないという慢心もあり、すごく嫌な気持ちになった。殴ったことは次に会ったら謝ろうと思った。その、次の土曜日が来ることは、二度となかったのだけれど。
初めて出会った時よりも、爪に住み着く青色が濃くなっていたことに気がついてるということを、伝えたかったと思った。
口約束も交わしていない大人と子供の邂逅が、いつまでも続くなんて甘い夢は物語の中にもなかったのに。
その邂逅が途絶えた原因は、主にいろはの側にある。繁田にフルスイングをかました後、家に帰ったいろはを待ち構えていたのはたくさんの警察官であった。おおよそ普通の家ではない、一切の侵入者を許さない塀に囲まれた屋敷がいろはの家であった。点滅するパトランプに「とうとうこの時がきたのか」と、ぼんやりと思ったことを覚えている。いろはの実父はやくざの頭であった。
当然だが、警察から事情を聴かれた。中学生であるいろはがなんらかの罪に問われることはないだろうが、実の息子という立場で父親がしでかしたことから完全に逃れられるとは、いろはも思ってはいなかった。取り調べ室などではなく、応接間のようなところでいろはの話を記録する警察官に「父親は何をしたんですか」と尋ねた。彼は、まだ子供であるいろはに伝えるべきことなのだろうかと少し逡巡したのち、「違法薬物の所持の疑いだよ」と答えた。
「テレビで見るやくざは、薬は嫌いだったと思うんですけどね。やくざの風上にも置けない」
ぽつりと呟いた音は誰にも拾われることはなかった。応接間の窓からのぞく青空に、ひどくイラついた。
「え、いろはさんってやくざの息子だったんですか?」
ガタガタと、およそ精密機械が出していい音とは思えない激しさでキーボードを叩くいろはに、のほほんとした声が降ってくる。
「今その話って必要? 1時間後に締め切りが迫る原稿を放棄してまでする価値のある話?」
鏡を見なくてもわかるほど酷い顔で、キーボードを打つ手を止めずにギロリと彼女を睨みつけた。彼女は手に持った雑誌を床に落とし、「ひいッ、本物のやくざだ! 指詰めはご勘弁を~!」と叫んで自分のデスクに走って戻っていった。優秀だが空気が絶望的に読めない彼女にやくざとやくざの息子はイコールではない、と突っ込む余裕もなく、いろはは目の前の文字列に集中した。
父親が違法薬物の所持で捕まった後、母親は失踪して居場所が分からなくなった。頼れる親戚もおらず、いろはのことを知る者のいない遠方の施設に引き取られたため、繁田とはあれから会っていない。最後に殴ってしまったこと、してもいない約束を破ってしまったことを謝りたかったが、繁田に再び出会うための手がかりはなかった。もとより苗字しか知らない男だったわけだし。
いろはは雑誌編集者になった。繁田に見せた『花と空』を最後にまともに小説は書いていない。施設に引き取られるタイミングで、書き溜めていた小説ノートは全部ゴミ袋に突っ込んで捨ててしまった。それからも何度か小説を再開しようとしたが子供のころのような情熱は湧き起らず、執筆自体全く続かなかった。小説投稿WEBサイトに中途半端なものを投げては、ぽつりぽつりといいねが付けば上出来なレベル。いろははもう、虚構の世界に救いを求めることはない。雑誌の中に広がるのは、どうしようもなく、現実だ。
「いよっし」
締め切り3分前、どうにか原稿を書き上げで送信する。計画的に仕事をしているはずなのにどうしてこう、いつもギリギリなのだろうか。脳からとんでもない勢いで快楽物質が出ている気がするから構わないといえば構わないのだが。
ぴろん、と原稿拝受のメールが来たのを確認していろははデスクから立ち上がる。「取材行ってきます」とフロアに声をかければ、先ほどの彼女が「いろはさん! そのボロボロの格好で取材に行く気ですか!?」と悲鳴に近い声を上げたので、ちゃんと着替えて行きますって、と答えた。続けて誰にも聞こえないような小さな声で、
「まあ、そんな気を使う必要はないかもしれないけど」
と、付け加える。
約束の時間まであと5分。その店の前に立ったいろはは、どくどくと鳴る心臓を必死になだめようとする。が、うまくいかない。次の担当は懐古特集の一角。レコード、カセットテープ、ブラウン管テレビ、古書……それらとは少し毛色の異なる、骨董品。
開ける時にガラガラとなりそうなその扉を3回ノックし手をかける。と、力を入れていないのにその扉が開いた。中から誰かが開けたのだろう。その人物を見上げると、予想通り、懐かしい顔がそこにあった。記憶にあるよりも幾分か低い声が降ってくる。
「ボクちゃん」
「繁田さん」
金髪ではなくなり、しわがいくらか増えた彼には、チンピラの影は全く無くなっていた。結局どんな顔をしたらいいか分からなかったいろはがへにゃりと笑うと、繁田は軽く、いろはの頭にげんこつを落とした。
「あん時のお返し。これでチャラな」
「……」
くるりと踵を返して店内に戻る繁田の後ろ姿を、ただ見つめた。何か言わなければ、今は仕事で来ているのだから、お元気でしたか、今もあなたは描き続けていますか――。
うまく話せず、はくはくと口を開いたり閉じたりするいろはの後ろから、壮年の男性の声が聞こえた。
「アキちゃん、店番ありがとうねぇ。あ、こちらが取材の方かな? お待たせして申し訳ないです」
「え、ぁッ、……初めまして。白木いろはと申します。本日はお時間いただきありがとうございます」
繁田とはそれ以上話すことなく、その店の店主へ、取材を行った。
「ボクちゃん、お茶」
「あ、ありがとうございます。……アキちゃんって呼ばれているんですか?」
取材の後、再び店をあけるという店主を見送り、二人きりになった店内で繁田からお茶を受け取った。
「ん。彰成の、アキちゃん」
「繁田さんの下の名前、彰成っていうんだ」
「ボクちゃんも苗字、白木っていうんだ。そのまま使ってんのね」
どかっ、といろはの横に座った繁田へ向かって、気まずさを抱えて口を開く。
「隠してたわけじゃ……なくないけど」
「待ってたよ」
「ごめんなさい」
「……大変だったろ」
「僕は、大丈夫だった。いつかそういうこともあるだろうと思っていたし、世襲制じゃないにしても僕がやの付く仕事をするはめになる可能性も完全につぶれた。そこそこ、自由に生きているよ」
茶器に揺らめく自分の顔を見つめ返して独り言のように呟き、ぱっと顔を上げて繁田の目を見た。
「繁田さんは?」
繁田はちょっと目を細める。
「あれからしばらくして、中国に渡って修行したよ」
いろははぱっと顔を明るくして「じゃあ今は職人さんなの?」と声を弾ませた。繁田は緩く首を振る。
「いや。真面目に向き合って、やっぱり向いていないことが分かった。もう描いてない」
「えっ……」
「んな顔すんな。後ろ向きの決断じゃねえよ。いろは君だってそうだろ? 関わり方はひとつじゃない」
そう言われてハッとした。繁田は、作る者としてではなく、繋ぐ者としてその身を捧げることにしたのだ。
くすんでしまったわけでも、消えてしまったわけではない。少し色を変えただけ。
その色の原点は、あの公園。
思い出せば小恥ずかしい、二人の青が描いた絵空事の先にある、いまの話。
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