好青年の皮を被った関西人が隣に住んでます

みとの

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 招かれた部屋の玄関先。
 立ち尽くす俺の頭の中では、さっき聞いた蓮見さんの言葉が跳ね回っている。あの言葉を聞いていなかったら、これほどまでに肩を震わす緊張感に襲われることはなかったかもしれないのに。蓮見さんを恨まずにはいられなかった。

 先に部屋へ上がっていた野田さんは、不意に後ろを振り返ると、俺の背後にあった扉のノブへ手を伸ばす。おそらく習慣なんだろう。トスン、と鍵が施錠される。何回も聞いたことのある、俺の部屋のものと同じ音。耳に馴染んでいる鍵を閉める時の音だ。

 俺だって帰って真っ先に、部屋の鍵を閉める癖がついてる。だから野田さんが、俺を招き入れて施錠したことに何も不審な点はないのだけれど。

 怖いお兄さんの秘密を知ってしまった今の俺にとっては、恐怖でしかない。
 退路を断たれたのだ。もしかすると、秘密の口止めとして命を奪われるのかもしれない。極道物の映画さながら、企み嗤いを浮かべる野田さんの顔を想像してしまい、俺は思わずその場で体を竦め「ひい!」と声を上げた。


 鍵を閉めて手を引っ込めるところだった野田さんの顔が、まだ近くにあった時だ。俺の悲鳴を目の前で聞いた彼は、一瞬動きを止めて俺を見下ろしていたが、しばらくして「ふ、」と小さく吹き出して笑う。


「別に取って食ったりせんわ。女の子みたいな反応せんといてくれる?」


 処女じゃあるまいし、と言って奥の部屋へ入っていく野田さんを見送りながら、内心「え?」と首を傾げる。
 だが瞬時に頭を回転させ彼の言葉の意味を考えると、自分のとった行動が、野田さんにとんでもない誤解を与えたのだと悟った。途端恥ずかしさで顔面が真っ赤になる。慌てて靴を脱いで部屋へ上がり、「違うんです!」と否定しようとした。

 でもだからと言って「殺されると思って怯えていました」とも言いづらい。言ったら最後、本当に殺されそうで迂闊に口にできない。鋭い目つきで俺を射殺そうとする野田さんの顔が安易に想像できる。真っ先に浮かんだ訂正の言葉は、口をついて出ることはなかった。

 恥ずかしい勘違いをされたまま捨て置くのは少々心苦しいが、命には変えられまい。諦めキッチンに立つ野田さんの隣へ向かった。

 野田さんはキッチンの作業台の上でケーキの箱を開けていた。隣に並んで一緒に中身を覗く。

 中身は倒れてぐちゃぐちゃになることなく無事だった。真っ白い粉砂糖をかぶったフォンダンショコラや、艶々のチョコレートで表面をコーティングされたザッハトルテ。数種類のベリーと生チョコクリームがのったケーキなどなど。

 どれを見ても、店から持ってきたままの状態で残っていて、とりあえずホッと安堵の息を吐いた。

「よかった、俺不器用なんで、中身転がしたりしてたらどうしようかと、」

 思ってたんです、と続けようと思い、不意に野田さんの顔を見上げた。だが紡ごうとしていた言葉は、外へ出ずに喉の奥へ引っ込む。目に入った野田さんの表情に、つい言葉を忘れて息を呑んだ。


 見開かれた目が、心なしかキラキラと輝いているように見える。一心に箱の中身を見つめて、逸らされることはない。爛々と瞳を光らせる子供っぽい表情が、普段落ち着いた野田さんらしくなくて、俺はジッと隣から見つめていた。

 ……この人、ちゃんと人間なんだ


 そんな感想が、胸の中で湧き上がる。
 鋭い目つきと怖い言葉遣いが印象的すぎて霞んでしまうが、実はチョコレートが好きな普通の成人男性なのだ。

 それを思うと、今まで彼に抱いていた恐怖の感情が、幾分か和らいでいく。箱の中で並ぶケーキをみつめがら「うわぁ」と感動の声を漏らしているのを聞くと、じわじわと口元が緩んでいった。


「ごっつええとこのケーキやん。高いんちゃうん」
「そんなことないですよ、一個500円くらいだったかな?」


 思い出しながらポツッと言えば、ケーキから俺に視線を瞬時に動かし、「ご!」と驚愕の声を上げる。徐々に眉間に皺が寄っていき、また再度ケーキへ視線を戻していた。


「究極の嗜好品やな……」
「そんなこと言ったらこの前もらったスニーカーの方がずっと高級ですよ」
「あんなん安いわ。履き潰したらまた買ってきたるよ」


 コーヒー淹れるから皿出して、と、言って野田さんは食器棚の方を指差して見せた。俺は「はーい」と返事をしながら食器棚へ向かって、勝手にそこを開ける。ケーキが乗りそうな小皿とフォークを我が物顔で取り出して、


 そこで一瞬、全ての思考が停止した。


 ……さっき耳を通って聞こえた野田さんの言葉に、違和感を覚えたのだ。



 今日持ってきたケーキは、野田さんに“おさがり”のスニーカーを譲ってもらったお礼である。

 おさがりの、お古の、今はもう使っていないからいらないというものを、たまたま運よく譲ってもらっただけだったはず。

 でも彼はさっき、確か“また買ってきたるよ”と言っていた。
 わざわざ俺のために、スニーカーを買ってきた口ぶりで、そしてまた次も躊躇なく買ってきて俺に与えるような口ぶりだった。

 ふつふつと胸の奥底から湧く違和感。
 俺は皿とフォークを手にして、野田さんの隣に戻った。

「あの、野田さん」


 コーヒーポットへ挽いた豆も入れていた野田さんが「なに?」と俺を向かずにいう。


「さっき、またって、言いましたよね」
「また?」
「あのスニーカー、使わないからって言って譲ってくれたやつですよね?」


 おそるおそる、彼の出方をうかがいながら訊ねてみる。
 するとコーヒーを準備する手を止めた野田さんが、一度俺の方を向いた。それから一瞬、考え込むように視線が横へ逸らされる。ほんの刹那の思考ののち、彼は何も言わずにまたコーヒーを準備する手を動かし始めた。


 この態度は、おそらく黒だった。

 俺はその反応にゾッとする。顔から血の気がひいていく心地がして、俺はあわてて野田さんの腕にしがみついた。

「わざわざ買ってきてくれたってことですか?! まさか!!」
「買ってへん」
「目を見て言ってくださいよ!!」



 そういって彼の腕を軽く揺するが、全くこちらを見向きもしない。慣れた手つきでコーヒーの準備を進めている。


 俺には、野田さんの考えが理解できなかった。おさがりを譲ってもらっただけでもそうだったのに、彼にここまで親切にしてもらえる理由がわからない。

 コンビニで売っているチョコレート菓子のこともそうだ。いつもありがとう、と言って差し出された、赤いパッケージのそれは、まだ食べることなく冷凍庫の奥で眠っている。

 蓮見さんに言われたことを思い出した。野田さんは学生時代、お金のことで大変な思いをしていた、と。
 その時の姿を今の俺に重ねて、苦労がわかるからと同情して親切にしてくれているのだろうか。

 でもそれだけだろうか。
 それだけで人っていうのは、赤の他人の、ましてやつい最近出会ったような相手に、高価なものを贈ったりできるようなものなんだろうか。


 頭がふらふらと回る。とりあえずもらったものは返した方がいいのか、でも使い始めてるし、などなど、考えれば考えるほど眩暈がした。


「要らなんだら捨ててええから」


 辺りにコーヒーの匂いが漂い始めた時。
 ふと野田さんが、俺の顔も見ずに言った。


「俺が好きでやってん」
「……え?」


 ヒュッと鳩尾の下あたりが締めつけれれた心地がする。体が途端に固まり、ジッと野田さんの横顔を見た。

 一切俺を振り向きもせず、彼は出来上がったコーヒーを二人分のカップへ注いでいく。

「君が苦労しとるの見ててわかるし、俺の話も蓮見から聞いてるんやろ?」
「あ……ちょっとだけ……」

 吃りながら、目線を逸らして呟く。人から聞いた他人の身の上話を、はっきり本人の前で「聞きました」とは言いづらい。野田さんは俺の落ち着かない目の動きを見て「ふ、」と小さく笑っていた。


「衣食住はある程度提供されてたけど、それでも学費やら教材の金は高校時分から一人で稼いでたからな。しんどいのは他の誰よりもわかってやれるわ」
「あ、ありがとうございます……」
「無理せん程度に頑張って大学卒業すればええんよ。もし食いっぱぐれたら、隣に住んでるオッサンに集ればええねん」

 食べよか、と言って二つ分コーヒーをローテーブルまで運ぶ野田さんの後に、俺もケーキを持って続く。皿にうつしたチョコレートケーキを見て、野田さんはゆっくりと唇を綻ばせた。

「……野田さんって、優しいんですね」

 コーヒーを啜った彼を向いて、俺は率直に述べた。ぶっ、と含んでいたコーヒーを噴きそうになった野田さんだが、辺りに飛沫が散ることはなかった。怪訝に眉を顰めると、戸惑った声色で「何突然……」と口を開く。


「俺、野田さんって怖いだけの人だと思ってました」
「だけは余計ちゃうか?」
「でも話してると凄く人のこと見てくれてるし、気を遣ってくれるし……。俺、見た目とか話し方で勝手に決めつけてたんだって思うと、自分が情けなくなりました」


 俺は野田さんの目を真っ直ぐ見る。見慣れない裸眼の姿。鋭くて涼やかな彼の目を、まともに見たような気がした。

 野田さんは一瞬、体を強ばらせたようだけど、すぐに口元を緩く綻ばせる。薄く柔和に細められた目や、小さく首を傾がせる仕草も、俺が話し出すのを待ってくれているように思えた。与えられた話し出しやすい空間に、俺はスッと息を吸い込み、口を開く。


「もらったスニーカー、一生大事にします」
「……ぷ、」


 真剣に俺が述べた言葉に、野田さんは顔を背けて吹き出す。そして軽く笑い声を上げると、「あー可笑し」と溢した。

「消耗品やから適度に買い替えや。じゃないと底穴空くで」
「いや、でも絶対大事にします」
「物贈りがいあるわ」


 野田さんはそう言うと、俺の頭に手を伸ばす。細くて長い指で、俺の髪を梳くように撫でてくれる。ほんのり伝わる人肌が、彼に対する気持ちを一気に軟化させた。

 一人っ子な上母子家庭で育ったからか、大人に甘やかされた経験がほとんどない。母親は子供と二人で生活するため稼ぎに出ていて、ほとんど家に寄りつかなかった。帰ったとしても家事やらをしなくてはいけないし、俺に割く時間なんて残っていなかった。

 父親か、もしくは兄がいればこうして頭を撫でられて甘やかされていたのだろうか。彼が大きな手で頭を撫でてくれる間、その心地よい体温につい瞼が落ちていく。野田さんに触れられると、いつも睡魔に襲われて寝落ちしそうになる。

 思い返せば母親にすら、頭を撫でられた記憶はない。人に触れられると、こんなにも心が穏やかになるものなのだと初めて知った。撫でられれば撫でられるほど物足りないと思ってしまって、つい頭を少しだけ彼の方へ寄せてしまう。

 すると野田さんは一度動きを止めたけど、また優しく撫でてくれる。頭を撫でてくれていた手は頬を撫で、クマの有無を確かめるように目元を撫でていく。カサついた指先で、小動物を撫でるように優しく触れられれば、擽ったさのあまりつい肩が震えてしまった。

 ちら、と野田さんの目を見上げた。
 黒い目が、俺の方を見ている。一切瞳孔が揺れていない様が、俺の背筋に寒い感覚を走らせた。
 俺を見ているようで、見ていないような、どこか遠くへ意識をやっているような気がした。


 声をかけようとした時、彼の手が俺の首筋を撫でる。皮膚の薄い箇所。擽ったさのあまり、閉じていた口端から「ひゃっ」と声が漏れた。腹の奥底から湧き上がる甘い痺れに、体が硬直する。

 すると俺の首を触っていた野田さんの手が、一瞬で離れた。パッと退かされた手を目で追う。野田さんは自分が勢いよく手を離したにも関わらず、なぜか驚いたように見張った目を瞬いていた。

「の、野田さん?」


 どうしたんですか、と、彼に撫でられた首筋をさすりながら訊ねると、野田さんは「いや、なんでもない」と、小さく答え、離していた手をローテーブルへ下ろす。


「君どれ食べたい?」
「あ、え?」


 と、何もなかったかのように突然話され、俺は言葉を詰まらせた。野田さんの顔を見ると、驚いた表情は一切ない。普段通りの、穏やかな表情が浮かんでいる。

 まるでスッポリとそこの時間だけが何者かに繰り抜かれ、なかったことになったような雰囲気だった。とくに深く追求もせず、心臓がドドドと早鐘を打っていることを表に出さないよう、努めることにした。


「じゃあ……野田さんに選んでもらおうかな……」
「これ美味そうやから、これにしとき」


 言って野田さんが一つ選んで皿に乗せてくれたケーキが何だったのか、正直覚えていない。
 撫でられた首筋が、時間が経ってもジクジクと熱を持ったように疼いていて、気にしないでおこうと思っても気になってしまった。

 食べながら「おいしい」だとか「また買いに行こう」だとか、他愛ない話をしていたけれど、曖昧にしか記憶が残っていない。

 自分の部屋に戻ってベッドに寝転がっていてもまだ、首筋を這った野田さんの指先の感覚が残っている気がした。自分の指で同じ箇所を辿ろうと指を伸ばす。
 野田さんに撫でられた時ほど擽ったくない。ただ自分の肌を撫でているだけの感覚に、焦れた腹の奥が痺れるような心地がした。

「物足りないなぁ……」


 ぽそっと一人天井を見ながら呟けば、余計に寂しくなった。

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