忘れられない君の香

秋月真鳥

文字の大きさ
6 / 32
アレクシス(受け)視点

6.思い出の香り

しおりを挟む
 ヴォルフラムにかけてもらったひざ掛けは、畳んで部屋のソファに置いておいたはずだった。
 眠っている間にアレクシスは初恋の少女の夢を見ていた。
 きらきらと輝く真っすぐな金髪を長く伸ばした少女が、白い頬を薔薇色に染めてアレクシスに向かって微笑みかける。少女はオメガなのか、アレクシスにとって好ましい爽やかな香りを放っていた。

「ヴィー、また来年もここに来る?」
「それは分からない。来年のお父様の休暇はどこで過ごすか分からないの」
「そうか……。わたしも来年は学園に入学するからここに来られるか分からないな」

 もう二度と会うことはできないかもしれない。
 そう考えるだけでアレクシスは少女と離れがたく感じてしまう。

「わたしたち、運命なんじゃないかな?」
「運命?」
「アレクシス様とわたしは、運命の番なの。アレクシス様からはいい香りがしてくるし、わたし、アレクシス様と一緒にいると幸せな気分になる」

 運命の番ならば、アレクシスが少女の香りを好ましく思うのも納得ができる。
 体の大きなアレクシスはアルファではないかと周囲から言われていた。オメガほど強いものではないがアルファからもフェロモンが出ていて、お互いのフェロモンを心地よく感じるのならば、運命の番というのも間違いではないだろう。

「運命の番でも、わたしはヴィーと結婚することはできない」
「そんなことない! わたし、アレクシス様を探す! アレクシス様に結婚してもらえるように頑張る!」

 健気な少女に自分も同じ気持ちだと伝えたくても、アレクシスの胸には両親のことが重く圧し掛かる。家のため、領地のために政略結婚をした両親。愛などなくて義務として子作りをして、後は別々に暮らしている。
 アレクシスはバルテル侯爵家のたった一人の後継者だから、政略結婚から逃げることができない。
 少女と共に駆け落ちを考えるには十一歳のアレクシスはあまりにも幼すぎた。

「ヴィー、わたしのことは忘れて」
「忘れない。アレクシス様もわたしを覚えていて」

 最後に渡された四つ葉のクローバーの刺繍の入ったハンカチからは、少女の爽やかな好ましい香りがしていた。

 目を覚ますと、アレクシスはヴォルフラムにかけてもらったひざ掛けを抱き締めていた。ひざ掛けからはあの日少女から感じたような爽やかで好ましい香りがしている。
 少女のことは運命の番だと思い込んでいたが、初めてのヒートが起きて、自分がオメガだと分かったときにそれが間違いだと理解した。
 オメガのアレクシスには普通の男性としての機能は期待できなかったからだ。

 筋骨隆々としたアレクシスがオメガだと判明したときに、周囲はとても信じられないという目でアレクシスを見てきた。影でこそこそと「あんなオメガいないだろう」とか、「あんなオメガを抱けるアルファはいないだろう」と陰口をたたく者もいたが、アレクシスは完全に無視していた。
 目の前で言われたときには、腕力で叩き潰してきた。
 オメガと分かってから学園の中でアレクシスは孤立し、縁談も無理だと諦めていた。

 アレクシスをオメガとして求めるものはいない。成人男性の平均身長よりも頭一つ大きくて、体も筋骨隆々としていて、盛り上がった胸筋、割れた腹筋、筋肉の付いた丸い大殿筋、太い腕、太い太もも……全てが儚く可憐と言われるオメガらしくない姿だった。
 だからこそ、母が亡くなり、父が出奔して、バルテル侯爵領の借金をアレクシスが背負うことになったときに、一番に考えたのは娼館への身売りだった。
 借金を返せるようなよい縁談が舞い込むはずはなかったし、オメガとして求められることはないが、暴力を振るう相手として娼館で売れるようになって借金を返せればいい。そう思って後ろも拡張して万全の状態で娼館に身売りに行ったのに、アレクシスは娼館の店主から断られた。

 抱き締めているひざ掛けからは、もう四つ葉のクローバーの刺繍の入ったハンカチからは消えてしまった爽やかで好ましい香りに似た香りがしている。
 混乱しつつ、いつの間に自分がひざ掛けをベッドに引き入れてしまったのかとアレクシスはひざ掛けを畳んで着替えて朝の仕度をした。
 バルテル侯爵家は父の代から資金難で人手が足りなかったのと、アレクシスが他人に触れられるのを好まないために、身支度は自分でできるようになっていた。ほとんどの貴族が学園に入学するときには、体育やダンスの授業で着替えをするために、自分で身支度ができるようになるのだが、アレクシスは五歳で乳母の手を離れてからほとんどのことは自分でしていた。

 シャツを着てジャケットを羽織ると、ボタンを一つずつ留めていく。鏡に映る自分の首筋に光るエメラルドのチョーカーを見て、アレクシスは冷たいエメラルドの表面をそっと撫でる。
 チョーカーの鍵はアレクシスが持っているので、伴侶であるヴォルフラムもこのチョーカーを無理やりに外すことはできない。

 オメガにとってはうなじは急所でもあるので、普段から襟の詰まったシャツを着て守っていたが、ヴォルフラムのチョーカーがあるとそれだけで守られている気分になる。
 アルファに守られて安心してしまうのは、オメガの本能として仕方がないことなのかもしれないが、ヴォルフラムの細やかな気遣いがあってこそ、アレクシスは安心できるのだと理解してきた。

 ヴォルフラムはアレクシスと無理に距離を縮めてこようとしないし、アレクシスのことを気にかけてくれている。
 政略結婚とはいえ、ヴォルフラムはアレクシスに誠実で優しくあろうとしているのは、理解できていた。

 幼いころから理不尽な両親のもとに生まれて、腹の底を渦巻いている怒りが、ヴォルフラムの前では不思議と薄れるような気がして、アレクシスはチョーカーが見えないようにシャツの一番上のボタンまで留めてしまう。
 心を許してしまうと、頑なに守っている怒りの炎で包まれた自分が壊れてしまいそうで怖かったのだ。

 朝食はヴォルフラムと一緒だった。
 ヴォルフラムはフォークとナイフの上げ下げから、パンのちぎり方まで優雅に見える。アレクシスも貴族としてのマナーは当然習っていたのだが、美しい外見も相まってヴォルフラムはとても優雅に見えた。

「うちの両親からお茶会の招待状が届いています。アレクシスが行きたくないのならば断わりますが、どうしますか?」

 屋敷のことも取り仕切ってくれているヴォルフラムは、執事長よりもこの屋敷に詳しくなっていた。
 ハインケス子爵も結婚から三か月以上経っているし、息子の結婚生活がどうなっているか心配なのだろう。借金を肩代わりしてもらっている恩もあるし、ヴォルフラムの実家でもあるので断るという選択肢はなかった。

「出席します」
「それなら、お揃いのフロックコートを仕立てませんか?」
「お揃いのフロックコートですか?」
「借金返済のめどがついたことですし、バルテル侯爵家も少し余裕が出てきています。格好いいアレクシスをみんなに見てもらいたいので」

 遠回しに、これまで持っているアレクシスの衣装が流行遅れで子爵家とはいえ勢いのあるハインケス子爵のお茶会に相応しくないと言われていることにアレクシスは気付いていた。バルテル家の経済状態は確かに立て直ってきているし、結婚したのだからヴォルフラムとお揃いの衣装くらい着て周囲にアピールすることも必要だろう。

「衣装は仕立てて構わないのだが……」
「何か問題でも?」
「その……あなたが着るのに相応しい仕立て職人を紹介してくれないだろうか」

 これまでアレクシスの衣装は値段を重視して一番安い仕立て職人にしか頼んだことはなかった。本当は古着でもよかったのだが、アレクシスの体格が規格外なのでサイズがなかったのだ。そのせいでアレクシスの持っている衣装はどれも安っぽく、流行遅れになっていた。

「もちろん、おれが仕立て職人を手配するよ。アレクシスに頼ってもらえて嬉しい」

 余程嬉しかったのか敬語が消えて、笑顔になっているヴォルフラムに、アレクシスは眩しさを感じてしまう。ただでさえ美しい顔立ちなのに、微笑むと人間味が溢れて更に美しく見える。

「よろしくお願いします」
「アレクシスのためならば喜んで」

 朝食を終えるとアレクシスは執務室にこもって仕事を始めた。
 執務室の暖炉には火が点っていて、アレクシスが座るときには部屋は心地よい温度になっていた。これもヴォルフラムが手配してくれたのだろう。
 ヴォルフラムからかけてもらったひざ掛けをかけると冷える足元も温かくなる。

「ヴォルフラム……」

 まだ本人の前では呼んだことのない敬称なしの名前を小さく呟いて、アレクシスは自然とひざ掛けを手に持って嗅いでいた。初恋の少女とよく似た爽やかで好ましい香りが、昨日よりも薄れているようでなんとなく胸がすかすかとする。
 その感情がなんなのか、アレクシスにはまだよく分からなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

カミサンオメガは番運がなさすぎる

ミミナガ
BL
 医療の進歩により番関係を解消できるようになってから番解消回数により「噛み1(カミイチ)」「噛み2(カミニ)」と言われるようになった。  「噛み3(カミサン)」の経歴を持つオメガの満(みつる)は人生に疲れていた。  ある日、ふらりと迷い込んだ古びた神社で不思議な体験をすることとなった。 ※オメガバースの基本設定の説明は特に入れていません。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

獣人王と番の寵妃

沖田弥子
BL
オメガの天は舞手として、獣人王の後宮に参内する。だがそれは妃になるためではなく、幼い頃に翡翠の欠片を授けてくれた獣人を捜すためだった。宴で粗相をした天を、エドと名乗るアルファの獣人が庇ってくれた。彼に不埒な真似をされて戸惑うが、後日川辺でふたりは再会を果たす。以来、王以外の獣人と会うことは罪と知りながらも逢瀬を重ねる。エドに灯籠流しの夜に会おうと告げられ、それを最後にしようと決めるが、逢引きが告発されてしまう。天は懲罰として刑務庭送りになり――

当たり前の幸せ

ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。 初投稿なので色々矛盾などご容赦を。 ゆっくり更新します。 すみません名前変えました。

処理中です...