気分は基礎医学

輪島ライ

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プロローグ

2 気分は緊急避難

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 受付の若い女性に事情を話すと、彼女は重大な案件だと判断してか事務室の奥の方にいた別の職員さんを呼びに行った。

 ベテランらしい大柄な女性は速足で受付まで来ると僕を事務室の隅にある相談スペースに案内した。

 僕を向かい側の席に座らせてから、職員さんは真剣な顔つきで話し始めた。

「あなたは医学部1回生の白神しらかみ塔也とうや君ね。大体の事情は聞いたけど、私にも詳しく教えてくれない?」
「ありがとうございます。実はかくかくしかじかで……」

 職員さんは静かに頷きながら今回の事態のあらましを聞いてくれた。

「なるほど、冗談にならないぐらい大変な事態ね……」

 職員さんが事の重大さに改めて驚いていると、先ほどの若い女性が近寄ってきて数種類のパンフレットを渡した。


「この資料については今から説明していくわ。白神君は知らなかったかも知れないけど、学費が払えなくなったと相談に来る学生は珍しくないから私たちもすぐに対処法を案内できるようにしているの。せっかく医学部に入ってくれたんだから、医師になるまでの学費は奨学金で乗り切って貰えるようにね」
「ありがとうございます……」

 まだ1回生であることもあってほとんど話したことがなかった教務課の人々に助けられ、僕は心から感謝していた。

「奨学金といっても色々あって、家庭の経済状況に応じて公的な機関から貸与されるものの他に何らかの義務を果たすことを条件に特定の機関から支給されるものもあるわ。白神君の場合は前者の受給資格もあるはずよ」

 職員さんは話を切り出しながら、まず僕に公的機関からの貸与型奨学金について説明した。

「この奨学金、僕の友達にも何人か貰ってる人がいます」

 パンフレットを見ながらそう言うと、職員さんも頷きながら答えた。

「そのはずよ。奨学金としてはメジャーな部類に入るけど、あくまで貸与だから卒業後には返済する義務があるの」
「あー、確かにそうですよね……」

 借りた金を返すのは当たり前だが、卒業直後から2500万円という医師の年収を考えても相当な額の借金を背負うのは避けたいと思った。


「虫のいい話かもしれませんけど、返さなくていい奨学金ってありますか?」
「もちろんあるわよ。決して虫のいい話にはならないけど、何らかの義務を伴う奨学金は基本的に給付型で、条件を満たせば卒業後に返済しなくていいの」
「そうなんですか!?」

 喜ぶ僕に各種のパンフレットを見せつつ、職員さんは給付型奨学金の具体的な内容を説明した。

 給付型奨学金も貸与型奨学金と同様に学外の機関によるものが多く、特に目立ったのは卒業後の一定期間医師の少ない地域で勤務することを条件に学費を援助してくれるものだった。

 この畿内医科大学のキャンパスは大阪府の皆月みなづき市にあり、医学部学生の大半は卒業後に近畿圏の都市部の病院で働く。

 2019年現在の日本では都市部への医師偏在に伴う地方の医師不足が深刻化しており、地方大学の医学部では卒後に地域医療に従事することを条件に入試で優遇される「地域枠」が設けられていることは僕も知っていた。


 僕も大学に入学するまでは実家のある愛媛県松山市に住んでいたので、実家に近い地域からの募集があれば選びたかった。

 そう思ったものの、職員さんと一緒にパンフレットを見た限りでは現在出ている募集にはそもそも四国4県のものがなかった。

 愛媛から大阪に出てきただけでも大変だったのに、卒後さらに中国地方や東北に引っ越す気にはなれない。


「そうねえ。いくらお医者さんとして働けるっていっても、縁もゆかりもない地域にいきなり飛び込むのは厳しいわよね……」

 感じた問題点を正直に伝えると、職員さんも気持ちは分かるようだった。

「地域医療以外の給付型奨学金はどうですか?」
「あるにはあるんだけど……」

 職員さんはそう言うと、気が引ける様子で2種類の小さなパンフレットを取り出した。

 それぞれ「刑務所勤務医募集」「矯正きょうせい医官募集」と書かれていて、職員さんのかいつまんだ説明を聞いてから僕は即座に保留した。

 どちらも大切な仕事であり必ず誰かがやらなければならないものとは理解できるが、この選択肢は最後の最後に取っておきたい。


「すぐに紹介できるのはこれだけなんだけど、気に入ったのはある?」
「そうですね……」

 少し考え込むように口にしてみたが、大量のパンフレットの中には僕の希望を完全に満たしてくれるものはなかった。

 卒後の返済義務を受け入れ、貸与型奨学金に応募するか。

 給付型奨学金を受け取るため、卒後は地元からも大学からも遠い地域で働くか。

 社会のためと割り切り、卒後は刑務所や少年院に勤務するか……


「あの、すみません。先ほど渡し忘れていたパンフレットがあって……」

 悩んでいると先ほどの若い女性が再びやって来て、申し訳なさそうな表情で職員さんに新たなパンフレットを渡した。

「そういえば、これもあったわね」

 職員さんが僕にも読めるようにパンフレットを机に置いたので、素早く表紙に目を向けた。

 そこには、

>畿内医科大学医学部医学科 研究医養成コース追加募集要綱

 というタイトルが印字されていた。


「研究医養成コースって、入試の時に選べたやつですか?」
「そうそう、内容としては全く同じものよ」

 僕はちょうど1年ほど前に畿内医科大学の医学部医学科を受験して合格した(そして第一志望の国立大学に落ちた)ことでこの大学の学生になった。

 畿内医大には大きく分けて4つの入試方式があり、現役生限定の公募推薦入試、前期および後期の一般入試、センター試験の成績に基づいて合否が決まるセンター試験利用入試、そして研究医養成コース入試がそれに該当する。

 一般入試とセンター試験利用入試だけで入学定員の90%以上を占めており、僕は前期一般入試で合格していた。

 その頃は学費に困るとは思っていなかったので気にも留めていなかったが、確かに研究医養成コース入試で入学した学生は学費が減免されることになっていた。

「学費減免になるとは聞いてましたけど、あれって入学時に選ばないといけないのでは?」
「本来はそうなんだけど、あんまり志願する人がいないせいで例年欠員が出てるの。といっても人数が足りないままでは困るから、通常の入試で入学した学生から転入者を募集してるみたい」
「なるほど……」

 さらに詳しく聞いてみることにした。


「学費なんですけど、このコースに応募したらいくらぐらい安くなりますか?」
「細かい数値は覚えてないけど、大体3000万円のうちの半額だから1500万円ぐらい減免されるはず。もちろん給付型奨学金という扱いよ」

 3000万円が半額になるというのは大きい。学費が1年間で250万円になる訳だから、生活費を削った上で家庭教師のバイトをやれば母の収入でも十分に学費をまかなえる。

「卒後に地方で働くとか特殊な業種に就くとかの義務もなくて、むしろこの大学に卒後10年間は残らないといけないの」
「それは凄い!」

 十分な金額の給付型奨学金を貰った上で、卒後も大学に残れるとは奇跡のような話だと思った。

「ぜひ応募したいです! 今すぐにでも!!」
「気に入ってくれてよかったわ。本来なら追加募集では書類審査や面接が必要なんだけど今回は学費の支払い期日も近いし、ひとまず白神君の所属を研究医養成コースに変更しておくわ」
「ありがとうございます!」

 それから職員さんが持ってきた何枚もの書類に必要事項を書き込み、携帯用印鑑で捺印してから教務課に提出した。

 最終的な登録には保護者である母の印鑑が必要になるが、それも今回は書類郵送でのやり取りで済ませてくれるらしい。


 教務課から母への電話を含むすべての手続きが終わり、僕は若干疲れて受付の椅子に座り込んでいた。

 研究医養成コースでの学費減免について聞かされた母は大喜びで、今から必要書類の準備を始めるらしい。


「今日はお疲れ様。いきなりの話だったけど、ひとまず退学の危機を乗り越えられて良かったわね」
「教務課の皆さんのおかげです。本当にありがとうございます……」

 そう言って職員さんに深々と頭を下げた。

「研究医養成コースの学生が具体的に何をやるかだけど、これは私たちから説明するよりコース責任者から説明して貰った方が早いと思うの。それで……」

 職員さんはポケットから小型のメモ用紙を取り出すと、そこに何かを書いて僕に渡した。

 そこには「研究棟3階ミーティングルーム 明日17:00集合」と書かれていた。

「研究棟って、この大学のですよね?」
「そうそう。研究医養成コースの責任者に連絡を取って、明日の17時から簡単なオリエンテーションをやって貰うわ。詳しくはその時に聞いてみて」
「分かりました!」

 明日は何も予定がないので特に問題なく参加できるだろう。

 僕は椅子から立ち上がると、教務課の皆さんに改めて頭を下げてから事務室を後にした。


 退学の危機を回避できたことに安堵しつつ、僕は晴れ晴れとした気持ちでワンルームの下宿に戻った。

 時刻は既に18時を過ぎていたので夕食は冷蔵庫にあるもので済ませ、その日は早く寝た。


 この時の僕には、明日から始まる怒涛の1年間のことなど想像できなかった。


 解剖学。

 生化学。

 生理学。

 微生物学。

 薬理学。

 病理学。

 そして、僕を取り巻く様々な人々のことも。
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