気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年3月 解剖学基本コース

17 気分は一安心

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 3月上旬に突如として研究医養成コースへの転入が決まってからは毎日忙しく、平日と土曜日はいつも解川先輩や解剖学教室の先生方に学生研究の指導を受けていた。

 松山の実家に帰省する暇もなかったが春休みに帰っても母は仕事があるし、帰省にかかる費用も安くないし、何より今実家に帰ったら父の位牌いはいを不燃ごみに出してしまいかねない。もう母が捨てているかもしれないが。


 生前の父は優しい性格で、開業医としてそれなりに儲かっていても豪勢ごうせいな生活をしたりはしなかったので地元の患者さんには慕われていた。

 残念なのは誰に対しても優しすぎたことで、金の無心にやって来た高校の同級生に数百万円を貸してしまったり怪しげなコンサルタントに騙されて田舎の診療所にたった1日二流芸人を呼ぶために数十万円を支払ったりしていた。


 愛人の事業の連帯保証人になっていた件については母に詳しく聞けていないが、父の人柄を考えるともし借金を背負わされても自分が働いて返せばいいと考えていたのだろう。

 もっともその自分が心筋梗塞で急死して、借金をすべて妻と息子に背負わせる結果になるとまでは予想していなかったようだが。


 父は息子の僕に対しては誠実で、二年間も浪人しても納得するまで受験を続ければいいと言ってくれたし僕が畿内医大に入学すると決まった時は親戚中に大喜びで電話をかけていた。


 こんな田舎の町医者は継がなくていいから、お前は都会の医大を無事に卒業して後は自由に生きてくれ。

 その父の言葉には親心を感じたが、だからこそ僕は真面目に臨床医として研鑽を積んで卒業後の研修が終わったら松山に帰ろうと思っていた。


 だからこそ父の生前の過ちが原因で苦労を背負うことになり、ちょっとした食事代も気軽に払えず、友達と遊びに行く余裕もなく、大好きだった剣道部も辞めるしかなくなった現実には今でも思考が付いていかなかった。



 僕は給付型奨学金を貰いたくて研究医養成コースに飛びついたけど、今月の上旬までは臨床医になることしか考えていなかった訳でこんな僕にはそもそも研究医を目指す資格などないのではないかと思う。

 ただ、ヤミ子先輩や解川先輩の研究に対する熱意は素晴らしいと思うし解剖学教室で基本コースの研修を受けただけでも学生研究は面白いと率直に思えた。


 来月からは生化学、生理学とまた別の基礎医学について学んでいく訳で、視野がどんどん広がっていけば僕の将来にも光が差してくるかもしれない。

 僕の研究生活は始まったばかりだから父への恨みや生活の苦労は深く考えず、気を楽に保ちつつ目の前の課題に向き合っていこうと思った。




 2019年3月29日、金曜日。

 シラバス上では明日の土曜日までが解剖学教室への基本コース配属期間となっているが、解川先輩と先生方が熱心に指導してくれたこともあって教わるべき内容は今日までにすべて教わっていた。


 4月1日の月曜にはいきなり新2回生への全体オリエンテーションがあるので、その前に2日ぐらいは休みたいだろうという解剖学教室のたわら教授の配慮もあって基本コースは今日で終了となった。

 解川先輩は部活の用事で欠席していたので挨拶には行けなかったが、聞く所によると今年の10月には発展コースとして再度解剖学教室に配属されるらしいしまた学内で会うことも多いだろうから特に問題はないだろう。


 19時には夕食を済ませ、オリエンテーションに向けて特にやることもないなと判断した僕は下宿の机に向かって答案添削をコツコツ進めていた。

 北辰精鋭予備校の皆月市駅前校で受けた能力検査の結果、僕は地方国公立大学医学部の答案を添削させて貰えることになった。


 医学部といっても国公立大学では他の学部とあまり問題が変わらない場合が多いのだが、「医学部の答案添削は現役医学生が担当」というのが北辰の売りなので僕にこの役目が回ってきたらしい。

 1枚で700円以上貰えることもある旧帝国大学や首都圏の名門私立医大の答案添削と異なりこのレベルではせいぜい1枚400円程度だが、片手間の在宅アルバイトで稼ぐには十分な額だし生活のためのアルバイトで医学部を目指す受験生を助けられるのも悪くないと思った。


 鳥取県にある米子大学医学部の数学の答案を添削し終えると、僕は机の横のプリンタ台に置いてある複合機でA4サイズの答案をスキャンした。

 用紙は傾かず取り込まれているか、カラースキャンになっているか、保存形式は画像ファイルになっているか等をマニュアルに従って確認した後、在宅アルバイト専用のウェブページを開いて添削した答案の画像データを北辰本社に送る。


 僕が赤ペンで添削した答案は本社で誤字脱字などのチェックを受け、同じ内容を改めて印字された上で受験生に画像データで返却されるという。

 返却時にわざわざ添削を印字に直す理由はアルバイトによっては字が汚く、手書き文字のままで受験生に返却されると判読できないとクレームが来ることがあるからだという。

 北辰本社の人にも判読できなかったり添削の内容に明らかな問題があったりした場合は再提出を求められたりひどい時は契約を解除されたりするらしいから、疲れている時でも添削には真面目に取り組んだ方がいいようだ。


 添削のアルバイトが本格的に始まり、本社から受験生の答案データが送られてくるようになってから1週間ほどが経つ。

 春休み中であることもあり解剖学教室での研修が終わった後はすぐに添削に取りかかったので、先ほどの分で今までに与えられた答案はすべて提出できた。


 添削結果の提出期限はデータを受け取った日から3日後までで、事前の連絡なしに提出が遅れた場合は罰金としてその答案1枚分のバイト代を徴収される。

 そういう事情があるので添削には答案を受け取ってからすぐに着手した方がいいし、大学の試験などで手が付けられなくなることが事前に分かっている場合はその旨を連絡しておけば一定期間答案が送られてこなくなる。


 報告・連絡・相談が大切なのは学校でも部活でもアルバイトでも同じであり、社会を生きる上で最低限心得ておくべきマナーだと僕は思う。




 置時計を見ると時刻はそろそろ20時を回る頃だった。

 いつも通り狭い風呂に入ろうと考えて席を立つと、ちょうど机上で充電中のスマホからメッセージアプリの着信音が聞こえた。


 こんな時間に誰だろうと画面を見ると相手は解川先輩だった。

 ここ最近は結構長い時間を一緒に過ごしていたのでメッセージアプリで連絡が来ることも度々あったが、いずれも純粋な業務連絡ばかりだった。


 といっても解剖学教室での研修は今日でひとまず終わっているので今更業務連絡が来るとも考えにくい。

 何の用事か気になり少し慌てて画面を開くと、そこには以下のような文面が表示されていた。



>お疲れ様です。

>今日は弓道部の用事で教室に行けなかったけど、俵教授から白神君は明日以降は来なくなると聞きました。

>ここしばらく一緒に色々やってきたのに挨拶もせずに一旦お別れになるのは寂しいので、白神君と直接会って話したいと思っています。

>明日か明後日の夕方が空いていれば、どこか駅前のお店に晩ご飯を食べに行きませんか?

>もちろん全額おごるので、白神君の都合がいい日時と行きたいお店を教えて欲しいです。

>よろしくお願いします。



 メッセージアプリやSNSでは短文の連続で文章を作ってしまう若者が多い中、解川先輩はいつも丁寧なメッセージを送ってくれる人だった。

 世話をしてきた後輩が来る最後の日に直接話せなかったので後日ちゃんと会っておきたいという気持ちは何もおかしくないのだが……


(これ、何か気がありそうな文面じゃないか?)

 と思ってしまうのが彼女いない歴21年のサガである。


 解川先輩にそういう意図があり得ないのは(多分)学内の誰よりも分かっているので、僕はナンセンスな発想を脳内から消去しつつ「僕もぜひお会いしたいです!」と返信してお礼のスタンプを送った。


 僕は何というか色々と知ってしまっているので問題ないが、解川先輩が他の男の後輩にもこういう調子でメッセージを送っているとすれば恋愛沙汰で問題になりがちなのもよく分かる。


 医学部医学科には多浪して入学してくる学生が多く、特に男子学生にはそれが顕著だ。

 高校から数えて3年間も4年間も受験勉強だけをやってきた男子学生は美人の先輩が優しそうに接してくれると(不謹慎だが)面白いように釣られてしまう。


 解川先輩には誰かがメッセージの流儀を教えてあげた方がいいように思うが、僕自身どこをどう直せば無難になるのかは分からなかった。

 その後に都合のつく日時と行きたい飲食店を伝えて、先輩とは明日の18時30分に駅から少し離れたうどん屋に行くことになった。




 翌日の18時20分、僕は阪急皆月市駅前の広場で解川先輩を待っていた。

 少し早めに到着して時計を見ていると先輩も間もなく駅の構内から歩いてきた。


 下宿生活が長くなると忘れがちだが畿内医大は大阪府の北摂地域にあり近畿地方中心部からのアクセスが非常によいので、解川先輩のように3回生になっても実家から通い続ける学生は多い。

 あえて下宿しているのは僕のような別の地方出身の学生か近畿圏内でも田舎の方に住んでいる学生がほとんどであり、卒業して研修医になるまでは実家から通い続ける人も少なくないという。


 先輩が僕に会うためだけに実家から来てくれたのなら申し訳ないと思ったが、今後も同じ研究医養成コース生として仲良くしていくのなら今日のような機会も大切にするべきだろう。


 先輩は僕を見つけると少し速足で歩いてきて、軽く右手を上げてから口を開いた。


「お待たせ。今日は忙しいのに呼び出してごめん」

 春の足音が聞こえてきた気候に合わせてか、先輩はベージュ色のブラウスの上から薄手のカーディガンを羽織っていた。

 研究室にいる時はお互い常に白衣を着ているし一緒のタイミングで帰る機会はそれほど多くなかったので、解川先輩の私服姿をまじまじ見るのは久しぶりだと思った。


「先輩こそ実家からここまで来て頂いて申し訳ないです。また学内で会えると思ってましたけど、わざわざ会いたいと言ってくださって嬉しかったです」

 恐縮しつつ頭を下げて言うと、先輩は少しハッとした表情になって、


「あの、白神君」

 と僕に呼びかけた。


「……どうかしました?」
「今日会いたかったのはうちの教室の基本コースが終わった記念で、それ以上の意味はないからね」
「あ、はい。知ってます」

 先輩が出し抜けに念押ししたので僕は普通に答えた。


「なら良かった。予約してる訳でもないけど、今からお店に行きましょう」
「分かりました。先輩は行ったことありますか?」

 会話の流れのまま、僕らはうどん屋に向けて歩き始めた。

 解剖学教室の基本コース期間中に解川先輩の恋愛関係については過剰なまでに色々知ってしまったが、そのおかげで余計な気を遣わずに済むようになりこれはこれで結果オーライだと思った。
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