気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年8月 病理学基本コース

128 気分はアイスブレイキング

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 10時を少し過ぎる頃には実験道具の準備も終わり、僕はヤミ子先輩に追従して学生研究員の待機室に入った。

 解剖学教室のそれと同様に病理学教室の学生研究員待機室の机には何台もの光学顕微鏡が並べられており、自由にプレパラートを観察できるようになっていた。

「白神君は今月、動物実験やデータ出しをする以外では基本的に私とここでお勉強をすることになります。といっても教える内容は紀伊先生から事前に指定されてるし慣れてくると私からレクチャーすることもなくなるから、あまり気負わずに頑張ってね」
「分かりました。お手数おかけしますがよろしくお願いします」

 そこまで話すとヤミ子先輩はキャスター付きの丸椅子に座ったので僕も隣の椅子に腰かけた。

 早速何かのプレパラートを持ってくるのかと思いきや、ヤミ子先輩は丸椅子に座ったまま僕の顔を正面から凝視し始めた。


「……じーっ」
「……え?」

 なぜか擬音が口に出ているヤミ子先輩に、僕は虚を突かれて硬直した。


「えーと、どうかされました……?」
「あのね、白神君。私は今月君とこの部屋で2人っきりでお勉強をすることになるんだけど、一つ問題だと思ってることがあるの」
「そ、それは一体……?」

 ヤミ子先輩が僕に対して警戒してしまうような悪い噂を耳にしているのではないかと思い、僕は焦りを感じた。

 僕自身はそこまで悪行を重ねてきた覚えはないが悪い風に伝われば誤解されかねない事件には何度か関わってしまっている。

 医学部は1学年が100人ちょっとしかいない関係上発生した噂は真偽に関わらず拡散されやすい。僕がカナやんを罵倒して泣かせた、壬生川さんに貢がせた、ヤッ君先輩とそういう仲云々といったデマをささやかれていることは僕自身も知っていた。

 といっても高校までと異なり大学生は半分社会人なのでこの大学でも悪い噂があるというだけで周囲からけ者にされることは皆無に近い。

 実際、僕もこれまで自分に関する噂の存在で具体的な被害を被ったことはほとんどなかった。


 たじろぐ僕に対し、ヤミ子先輩は何事もなく続けた。

「私は3月に白神君と知り合ったけど白神君はそれから5か月間ずっと他の教室を回ってたし、部活の付き合いもなかったから2人でゆっくり話すのって多分今日が初めてだよね。だから私自身どう接したらいいか分からなくて……」
「ああ、そういうことですか」

 意外と普通の心配事だったと分かり僕はほっと安堵した。

「今更な感じはするけど、とりあえずアイスブレイキングってことで今から自己紹介ついでにゆるく話さない? 病理像の勉強は午後からで十分だしお昼ご飯中もテキトーに話せるよ」
「全然いいですよ。とりあえず僕から自己紹介しましょうか?」
「うん、お願い」

 ヤミ子先輩の言葉を受けて僕はひとまず出身地と出身高校、大学に入ってからこれまでのことを簡単に話した。


「ふーん、白神君って愛媛県の松山出身だったんだ。しっかりした標準語だから関東の人かと思ってた」
「父が広島出身だったので元々実家では標準語で、高校までは学校でだけ伊予弁だったんです。浪人してる間は他の受験生と交流が少なかったので伊予弁を話す機会がほとんどなくなって、今ではもう上手く話せないですね」

 伊予弁の記憶が薄れると伊予弁で話していた相手の記憶も曖昧になるもので、中学生時代に同級生として話していたはずの壬生川にゅうがわさんの記憶が皆無だったのはそのせいもあるのかも知れない。

 僕の母は愛媛県今治いまばり市出身の薬剤師である一方、今は亡き父は広島県の公立高校から伊予大学医学部医学科に入学して医師になった人物だったが大学に入ってからも伊予弁には馴染めなかったらしく、結局は晩年まで標準語で通していた。


「お金のことで剣道部を辞めないといけなかったのは本当に気の毒だけど、文化部オンリーとか帰宅部でも楽しく生活してる学生は普通にいるから白神君もそのことはあんまり気にしなくて大丈夫だよ。今は文芸研究会でマレー君と一緒なんだっけ?」
「ええ。文芸研究会は定期部費がかからないですし、活動日数は少ないですが研究医生としてはむしろありがたいです。ヤミ子先輩も文化部にしか入ってないんですか?」
「そうだよ。メインで活動してるのが写真部で演劇部も結構エンジョイしてるかな。演劇部は文芸研究会と結構交流があって舞台の台本を書いて貰うことも多いの。白神君もやろうと思えばできるはずだから、良かったらまたマレー君に聞いてみてね」
「それは面白いですね。ぜひお聞きしてみます」

 単科医大のクラブ活動というのは数が少なく規模が小さい割に部活間の交流もほとんどないのが一般的なので、文芸研究会と演劇部が連携しているという話は純粋に興味深いと思った。
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