気分は基礎医学

輪島ライ

文字の大きさ
上 下
169 / 338
2019年9月 微生物学発展コース

169 気分は何だあれは

しおりを挟む
 若干トラブルが起きつつも楽しい朝食はそのまま終わり、それからは再びホテル2階でグループミーティングが行われて合宿の全イベントは終了となった。

 仲良くなった記念に呉さん並びに加山さんとはメッセージアプリの連絡先を交換して、また大学間で協力する企画などがあれば相互に橋渡し役になろうと約束した。

 京阪医大の塚本学長や各大学の先生方のコメントで閉会式は締め括られ、僕は来年もぜひこの合宿に参加したいと思った。


 ホテルを出てからは2回生・3回生の研究医生7名といういつもの面子でまとまって帰ることになり、7名は歩いているうちに前方から3名・2名・2名に分かれて話すようになっていた。

 一番前ではマレー先輩が壬生川さんとカナやんに囲まれ中央では僕がヤッ君先輩と雑談をして後方ではヤミ子先輩と剖良先輩が親友同士の会話を行っていた。

 その中でも普段はあまり交流がないらしいマレー先輩と後輩女子2名は実際に話してみると意外なまでに盛り上がっていた。

 マレー先輩には美波さんという美しい婚約者がいるだけに美女2名に囲まれてもあまり緊張はしないようだった。


「そういえば昨晩は呉さんとゲーセンに行かれたんですよね。ゲームは楽しめましたか?」
「うん。いつも一緒に遊んでるのをやっただけだけど、合宿中にホテルを抜け出して遊べたのは新鮮で楽しかったよ。それに……」

 無難な話題を切り出した僕に、ヤッ君先輩は笑顔で答えつつ道の先の遠くを見つめた。

「……?」

 先輩はそのまま黙ってしまい、しばらく反応に困った。


「あのさ、やっぱり恋っていいよね。失恋のショックを打ち消すのが新しい恋っていうのも変な話かも知れないけど」

 悩みを吹っ切った表情で言った先輩に僕は先輩と呉さんとの関係性を理解した。

「全然変じゃないですよ。過ぎ去ったことは早く忘れて新しい未来に向けて生きた方が絶対にポジティブですし。あの、呉さんは脈がありそうですか……?」
「アウティングになるから本当は言うべきじゃないんだけど、彼にはボクの本当のことを伝えたし彼もボクを受け入れてくれるって。まだ上手くいくかは分からないからこのことは内緒にしといてね」
「もちろんです。陰ながら応援してます」

 ヤッ君先輩の愛が天草君に届くことはなかったが、捨てる神あれば拾う神ありという言葉の通りなのかも知れない。

 僕自身ヤッ君先輩にはいつも笑顔でいて欲しいので先輩の新たな恋が成就じょうじゅすることを願うばかりだった。


 話しているうちにホテルの最寄駅である大阪メトロ中央線のコズミックキューブ駅が見えてきて、僕は脳内で切符を買う場所を思い出していた。

 前方を歩いているマレー先輩と女子2名の会話は引き続き盛り上がっていて今は予備校の話をしているらしい。

「えーっ、マレー先輩って海内塾かいだいじゅくの京都校に通われてたんですか? 私の父は京都校でも教えてるらしいんですけどお会いしたことあります? 数学科講師の壬生川恵治けいじっていうんですけど」
「ああ、何度も講義を受けた。珍しい名字だとは思ってたけど壬生川君はあの壬生川先生の娘さんだったんだな」

 壬生川さんのお父さんは海内塾の数学科講師だと聞いていたがマレー先輩も予備校生の頃にお世話になっていたらしい。

「壬生川さんって予備校は春台しゅんだいの京都校やったらしいけど、お父さんのいる予備校は通ったらあかんかったの?」
「そういう訳じゃないんだけど、身近に置いておくと余計に心配になるから別の予備校にして欲しいって言われて。でもお父さんの教え子がこんな近くにいたなんてちょっと誇らしいかも」
「壬生川先生は微積分とか数列を誰でも理解できるよう教えてくれて助かってたよ。あのセンスは壬生川君にも受け継がれてるかも知れないな」

 右側に壬生川さんを、左側にカナやんを並べてマレー先輩は嬉しそうに会話を続けていた。


 その時。


「…………!!」

 何かあったのかマレー先輩はコズミックキューブ駅の正面玄関に足を踏み入れる直前で立ち止まった。

 それに伴って他の6名も足を止める。


「み、みな……」

 辛うじて言葉を発したマレー先輩の声にまさかと思って先輩の視線の先を見ると、


 そこには、満面の笑みを浮かべた美波さんの姿があった。

 今日の美波さんは若干厚めの生地のお洒落なワンピースに身を包んでおり、そのまま後輩女子2名に挟まれたマレー先輩のもとへと歩み寄った。

 これはやばいと直感しつつ、もはや何をする余裕もないと気づいた瞬間、


「お帰りなさい、まれ君。寂しくなったから迎えに来ちゃった」

 美波さんはマレー先輩の目の前で立ち止まると穏やかな声音でそう言った。


「先輩、お知り合いですか?」

 不思議そうに尋ねた壬生川さんに、

「はじめまして。私、まれ君の婚約者の宇都宮美波っていいます。研究医生のお友達同士で話してる時にお邪魔してごめんなさい」

 美波さんはにっこり微笑んでそう言うとぺこりと頭を下げた。

 これまでの経験からすると絶対にあり得ない美波さんの態度に僕とマレー先輩、そして他の先輩方3名は絶句していた。


「いえ、全然大丈夫です。それよりマレー先輩ってこんなに綺麗な彼女さんがいたんですか!?」
「あ、ああ。美波は俺の大事な許嫁いいなずけだ」
「綺麗だなんて、そんな、照れちゃいます。でも嬉しいです」

 驚きで声が大きくなっている壬生川さんに美波さんは恥ずかしがりながら感謝の言葉を伝えた。

「先輩、こないにべっぴんさんの彼女を自慢せえへんなんてばちが当たりますよ。あ、うちは研究医生仲間で医学部2回生の生島です。美波さんも大学生なんですか?」
「はい、私は畿内歯科大学の歯学部歯学科3回生です。今は立派な歯医者さんを目指して勉強中です」

 何事もなくプロフィールを説明した美波さんに対して壬生川さんも続けて自己紹介をした。


(ねえっ白神君、マレー君の彼女さんってあんなに優しい女の子だったっけ!?)
(いや絶対おかしいですよ! 何かあったんじゃないですか!?)

 小声で耳打ちしてきたヤミ子先輩に僕もひそひそと答えた。


(この前破局しかけたっていうしそのせいじゃない? でも急すぎる気はするけど)
(私なんて2回生の頃あの子にオープンキャンパスで怒鳴られた。絶対おかしいと思う)

 ヤッ君先輩と剖良先輩も疑問は尽きないらしく同様に小声で会議を開いている。

 何気に美波さんは昨年のオープンキャンパスでも剖良先輩とひと悶着もんちゃくあったらしい。


「それでは申し訳ないですけどまれ君をお借りしてもいいですか? ここ数日話してないからもう寂しくって」
「全然いいですよ! 先輩、かわいい彼女さんは大事にしてあげてくださいね!」
「お疲れ様ですっ!」

 美波さんの申し出に壬生川さんとカナやんは上機嫌でマレー先輩の背中を押した。

「分かった、俺は美波と帰るから皆も気をつけてな。じゃあ行こうか……」
「はい!」

 そのまま美波さんに腕を組まれ、マレー先輩はとぼとぼと駅の中へと歩いていった。


「あれ、絶対何かあったんだよ……」

 ぽつりと言ったヤミ子先輩に壬生川さんとカナやんは頭にはてなを浮かべていた。


 先ほどの光景は嵐の前の静けさでなければいいと思うしかなかった。
しおりを挟む

処理中です...