気分は基礎医学

輪島ライ

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2021年10月 大人のカンケイ

第7話 「命の選別」

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「……大体、化奈さんがどうしてここにいるんですか。化奈さんはこの塾に関係ないじゃないですか。それに化奈さんは生島先生の従姉いとこでしょう? それなのに恋人ってどういうことですか。親戚同士でしょう!」
「まさか京大医学部志望の子が知らんとは思わへんけど、日本ではいとこ同士の結婚は合法なんやで。よその国は別やけど」
「そんなこと当然知ってます。でも合法だって近親相姦に他ならないですよ。いとこ同士の間に生まれた子供は先天的な病気や障がいを合併しやすいって、それこそ医学生ならご存知のはずじゃないですか」

 女子生徒が口にした言葉は、この場で必ず出るやろうとうちが予測していた非難だった。


「もちろん知っとる。でもな、いとこ同士より縁が深いきょうだい同士の間に生まれた子供と高齢出産で生まれた子供とでは先天的な病気や障がいのリスクには大差ないっていう報告もあるんやで。関谷さんは同じ理由で35歳以上の女性に子供を産むなって命令できるん?」
「それは……」

 珠樹と恋仲になる前から、具体的には2年前に珠樹に思いを寄せるようになった時にうちはいとこ同士の間に生まれる子供の先天的な病気や障がいのリスクについて調べていた。

 近親相姦で生まれた子供と高齢出産で生まれた子供とのリスクの比較はその時に知った研究データで、日本国内で一般的に知られているデータではないので女子生徒は初めて知った事実に驚いていた。


「大体、子供が先天的な病気や障がいを合併するリスクが高いからってどうしてうちと珠樹が恋仲になったらあかんの。さっきも言ったけど日本国内ではいとこ婚は合法やし、関谷さんは先天的な病気や障がいのある子供は一切生まれてくるべきやないって思うの。そう思うんならそれもええけど、出生前診断を『命の選別』とか言って批判する人がいとこ婚を同じ口で批判するんをうちは何回も見てるねん。訳分からんやろ」

 黙り込む女子生徒の隣で、真崎塾長は目を見開いて静かに頷いていた。


「元の話に戻るけど、関谷さんは珠樹のことが好きやったんやんな。だから珠樹が恋人を捨ててくれんくて、塾長先生を通じてしつこくメッセージを送るなって言ってきたんに腹が立ったんやな?」
「……そういうことです。もっとも、全部無駄でしたけど」

 珠樹をにらみつけながら言った女子生徒に、うちは決定的な一言をぶつけることにした。


「そういうとこやで。そうやって全部人のせいにして、好きな人の気持ちも考えられへんから関谷さんは駄目なんや。面接を突破できてもでけへんくても、うちはそんな人が医学部に入るのが怖ろしい」
「私の好きな人を取って、私の夢まで馬鹿にするんですか。あなたこそ私の気持ちを考えてないじゃないですか」
「なあ、羊水検査って知ってるか?」
「えっ?」

 話の流れを断ち切って、うちは羊水検査という言葉を口にした。


「出生前診断の一つなんやけどな、産婦人科の先生が妊婦さんのお腹に針を刺して羊水を採取するねん。それで赤ちゃんの先天的な異常を調べて、妊娠を継続するかどうかを妊婦さんが判断する。0.1%から0.3%ぐらいのごくまれな確率やけど合併症が生じることがあって、ひどい時は羊水検査のせいで流産してまうこともある」
「それが……何なんですか?」

 不思議そうな表情をしている女子生徒にうちは続ける。


「うちがこれから大学を卒業して珠樹の子供を妊娠したら、うちは絶対に羊水検査をする。それで子供に先天的な病気や障がいがあったら人工妊娠中絶をする。うちと珠樹がいとこ同士で結婚するのはうちらの勝手やけど、生まれてくる子供がそのせいで苦しむのは絶対に嫌やから。出生前診断を『命の選別』とか言う人を否定する気はないけど、うちと珠樹は何を言われても絶対に出生前診断をする」
「……」

 静かに伝えた言葉に、うち以外の3人はもはや何も言えなくなっていた。


「目の前にいる好きな人の気持ちも考えられん女が、生まれてくる子供の気持ちを考えられるん。そこまでの覚悟がないんやったらこれ以上珠樹に迷惑をかけんといて。そういうことを考えられんうちは誰とも大人の関係にはなれへんで」

 言いたかったことをすべて伝えると、女子生徒は両目から涙を流し始めた。


「……ごめん、なさい。私、生島先生に甘えてただけなんです。お父さんもお母さんも現役で京大医学部に行けって言うばかりで、私が中学3年間いじめられてる時も助けてくれなかった。生島先生は、本当に優しかったから……」

 そこまで話すと女子生徒は声を上げて泣き始め、珠樹は懐からハンカチを取り出すと彼女に差し出した。

 女子生徒はひとしきり泣くとハンカチを珠樹に返し、笑顔を浮かべて口を開いた。


「化奈さん、生島先生、塾長先生。この度は本当にすみませんでした。両親には全て私が悪かったとちゃんと伝えて、これ以上塾に迷惑をかけないよう言います。生島先生にはこれから一切アプローチをしませんから、どうかチューターと生徒として今後もよろしくお願いします」
「わ、分かりました。……ということは真崎先生、俺の出勤自粛は……」
「もちろん、今この時をもって出勤自粛命令を解除します。今すぐ保護者の方に電話するので関谷さんからも話してくれるかな?」
「はい! お2人とも、今日は話し合いをしてくださってありがとうございました。私、化奈さんみたいなかっこいい女子医学生を目指します」

 女子生徒はそう言うと真崎塾長に連れられてロビーに戻り、うちは疲れがどっと出て椅子にへたり込んだ。


「カナちゃん、今日はありがとう。カナちゃんの説得がすごすぎて俺何も言えへんかったよ」
「ええねんええねん、こういう時は当事者同士が話すと余計こじれるし。でも疲れたわ……」

 その日は本当に疲れすぎて、珠樹と一緒に帰宅した後は夕食前にしばらくベッドで眠り込んでしまった。
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