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序章 転生

2 女神

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 思いもよらぬ事件で命を失った行長の意識は、まどろみの中で再び目覚めた。

 周囲には深海を連想させる暗黒の空間が広がっており、行長はここはいわゆる死後の世界なのだろうかと考えた。

 あの時予備校生同士のいさかいを止めに入ったことは後悔していないし、若い予備校生も自分に対して殺意があった訳ではないだろう。

 前途ある若者である彼に重罪が課されないことを祈りつつも、行長は44年間の生涯に未練を感じていた。


 少なくとも60歳になるまでは教育の第一線で働きたかったし、ちょうど今年度の受験を指導していた生徒たちはどうなるのだろうか。

 私塾であるアイアンゲート・ゼミナールの後継者も育てている最中だったし、著作は改訂版を出版できなくなり歴史の中で忘れ去られていくのだろう。

 もし来世があるのならば、自分は次なる人生でも教育者として生きたい。

 今ここにある意識さえも完全に生命活動を停止するまでの残滓ざんしに過ぎないとは思いつつも、行長は教育者としての使命を強く胸に抱いていた。


 闇の中で消え失せるかと思われた意識は実際にはさらに清明となり、気づけば行長は知覚できる身体を取り戻していた。

 周囲の風景もいつの間にか暗黒の統べる空間から光の差す神聖な神殿のような場所に移っており、行長はクリーム色の広大な床にスーツ姿で立っていた。


(ここはどこだ? 天国か?)

 神話やファンタジーには詳しくないが周囲に見えるのは北欧の歴史的建造物をイメージさせる神殿で、自分はその中にいる。

 死後の世界が天国と地獄のどちらかしかないと決まっている訳ではないが、少なくとも後者ではないように思えた。


「すみません遅れました!」

 上方から突然若い女性の声が聞こえ、行長ははっとして振り向いた。

 その先には薄い緑色の羽衣はごろもをまとった長身の美しい女性の姿があり、彼女は褐色の表紙の分厚い冊子を抱えて上空より降りてきて、


「ぐぎゃっ!」

 床から3メートルぐらいの高さから一気に落下し、頭から地面に全身で倒れた。

 この建物は床から天井までが10メートル以上はありそうだが天井に穴が空いてはいないので、彼女は虚空から現れたのだろうか。


「……大丈夫ですか?」
「あいたたたた……ごめんなさい、私、今日がまだ2回目の当番なんです」

 落下した女性に声をかけると女性は左手でひたいをさすり、右手で冊子を拾うと立ち上がった。

 生身の人間とはかけ離れた薄紫色の長髪は地面に叩きつけられた衝撃で乱れており、この女性は女神や天使にしては不格好だと率直に感じた。


「情けない所をお見せしてしまってすみません。私は冥府の女神の一柱、ソフィアと申します。上級神である学問の神アテナイの元で女神としての研鑽けんさんを重ね、先日より単独で審判をつかさどることになりました。この度はオオワダ・ユキナガさん、あなたの転生を担当致します」
「転生、ですか? 審判というと、私の常識では輪廻転生りんねてんせいとは相容あいいれないような……」

 キリスト教的な最後の審判とは死者が天国に行くか地獄に行くかを決めるもので、「転生」というのが仏教的な輪廻転生と同一のものとすればその2つが相容れるものとは思えない。

「あなたの前世は魔術が存在しない世界で冥府の言葉では科学界と呼ばれていますが、そこでは冥府の掟が部分的に知られているようです。ここ冥府における審判とは天寿を全うせず不慮の死を遂げた人が別の世界に生まれ変わるための手続きを指します。天寿を全うした人については天国に行くか地獄に落ちるかを決める手続きがあり、それは最後の審判と呼ばれます」
「なるほど、そういう意味なのですね」

 行長が生きた世界では「死後の世界」という概念そのものが空想上の産物とされていたが実際には冥府という形で実在しており、その情報は何らかの形で部分的にではあるが伝えられていたのだろう。

「人間でも動物でも植物でも、科学界の言葉で生物と呼ばれる存在には必ず天寿があります。老衰や不治の病により亡くなった人は天寿を全うしたとみなされますし、凶悪犯罪を犯して死刑になった場合も同様です。しかし事故や犯罪、戦争に巻き込まれて死亡した人は天寿を全うしていませんから、最後の審判を受けて天国に行くことも地獄に落ちることもできないのです。その場合は審判を通じて死者を異なる世界に転生させ、そこで天寿を全うして頂くのです」

 女神が話した天寿という概念は興味深く、行長は不慮の事故に近い事件で死亡したため最後の審判を受ける資格はなかったということだろう。
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