【R18BL】下落理(げらり)

上月琴葉

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壱 邂逅

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 ――自分がどこにいるのか、何をしていたのか。
 ――記憶はすっかり欠け落ちて。
 覚えているのは、赤い海の真ん中で、傷だらけで微笑む青年の姿。
「お、れはなにを」
 見知らぬ青年の上に馬乗りになっていて、着ていただろう服ははだけていた。
「だいじょうぶ。悪い夢を……見ていただけだよ」
 青年はそういうと体を起こしてそっと口付ける。柔らかい感触とともに、何か狂って暴れていたものが消えていく気がした。
 青年は小さく頷いて微笑むと踵を返した。
「まて……」
「これが、ぼくの仕事だから。もう下落理に堕ちちゃダメだよ。他にもたくさん仕事があるから、もう行かなきゃ」
 伸ばした手は空を切り、意識は深い闇へ落ちていく。
 ――下落理げらり 。
 その言葉だけが耳に染み付いて離れなくて。
 次に目覚めた時も、その言葉だけをはっきりと覚えていた。


「どんな悪夢だ……」
 思い切り悪態をついて、布団から出た。
 寝る前に着ていたシャツは汗でじわりと湿っている。
「はあ。欲喰師よくばみしが下落理に堕ちてどうするってんだよ……」
 手早く服を脱いで個室に備え付けの温泉に浸かる。朝の光は優しく、鳥の囀り以外に音はしない。
「ほう……」
 大地から湧き出す温泉水には鉱素が大量に含まれている。そのため温泉に鉱妖が浸かると傷の治りは早くなる。今夜も仕事だ。
 追い払った眠気が戻ってこないうちに湯から上がった。
「お」
 部屋に戻ると炊き立てのご飯と味噌汁が湯気を立てて出迎えてくれた。
 部屋の寝具も畳まれているから、おそらく宿のあやかしが準備してくれたのだろう。
「いただきます」
 手を合わせてから新鮮な卵をご飯に竹箸で穴をあけて流し込みかき混ぜる。
 ついでにちょっと甘い醤油を加えていわゆる卵かけご飯を作ってから一気にかきこんだ。美味い。味噌汁も優しい味だ。メインは焼き鮭。塩加減もちょうどいい。ほくほくした身を食べているともう一杯ご飯が欲しくなるところだ。おかわりは自由だったかどうだったか。
 鉱妖とは体に鉱石を持つあやかしのことで、いわゆる突然変異というやつらしい。
 俺の左胸にはつやつやと黒光りする黒曜石が生えている。
 黒曜石は魔除けの意味もあるから、縁起がいいとどこかで言われたような言われていないような。
「ごちそうさま」
 茶碗を置いて、畳にごろりと床になる。
「下落理に堕ちるとかホントごめんだせ……」


 いつからかこの秋津の都市部で見られるようになったと言われる「下落理」。
 彼らは人の欲が形を持った欲の怪物だ。下落理という名前はげらり、と嗤うからと言われているが定かではない。こいつらを消すにはその欲を満たしてやるしかないが、こいつらの欲は大抵道徳や倫理的に問題があるものが多く、犠牲者も出るようになった。そこで術に長けた雪妖の一族が専用の術式を開発し、「欲喰師」が生まれた。満たすのではなく、下落理の存在と欲を喰らう専用の「鉱心武器」を以って、存在を消し去る者たち。
 オレの場合はこの黒曜石の刀が得物だが、手に入れた経緯はよく覚えていない。

 目覚めたら大きな屋敷で布団に寝かされていて、枕元にこの刀があり、胸に黒曜石が煌めいていた。それ以前の記憶がないのだ。
 その時にお前は狼の鉱妖だと聞かされ、これから下落理を倒す欲喰師になるために修行してもらうのだと告げられた。
 他に道はなかったし、その頃はまだまだ子どもだったから従うほかなかった。衣食住は保証されていたけれど、早く独り立ちしたい一心で修行を重ねて、無事に欲喰師の儀式を終えたのが十九の時。
秋津の響都で下落理を倒しまわる日々を送っているうちに二十になっていた。
「ふう」
 夜まではまだ時間があるが眠る気にはなれなかった。
 またあんな悪夢を見るのはごめんだ。
 体を動かそうと宿の女将に一声かけて裏山へ向かった。

**
「うわ、なんかこの山重苦しい」
 軽い気持ちで裏山へ足を踏み入れて後悔した。重苦しい瘴気が山全体を覆っている。だが、こういうのを浄化して人々を守るのもまた努め。幸い今は昼間だから、クルイモノも下落理も活動時間外だ。
 まあ、昼間にこれだけの瘴気を放つ相手は只者ではない可能性もあるのだが。
 
 中心と思われる洞窟に辿り着いたオレは目を疑った。
「ふ……あっ……」
 白い兎の耳を生やした青年が、実体化した下落理に喰らわれている。その肌には強く吸われて咲いた花がいくつも見えた。
「な……」
「あ、ああんっ!」
 甘く掠れた声を漏らし、青年は身を捩る。ぽたぽたと白濁した雫が落ちて洞窟の床へ染み込んでいく。静かな洞窟に荒い息づかいと、淫らな水音だけが響く。
 ぱん、ぱんと激しく肉が打ちつけられ、
「あああああっ!」
絶叫を残して兎の青年の体が沈んだ。
(え?)
 しかし、もっとオレが驚いたのは――行為を終えた下落理が金色の灰になって散った、つまりは完全に浄化されたということだ。
「嘘だろ……」
 普通の人間は下落理に触られるだけで狂うのにそれを受け入れて浄化するなんて。
「……物陰から覗き見なんて趣味が悪いね?お相手してほしい?」
「お、お前身体は大丈夫なのか?だってその、やられてただろ」
 兎の青年は何事もなかったように立ち上がる。奇妙なことに身体はどこも濡れておらず、つけられていたはずの痕もない。
「平気。ちょっと特殊体質だから。あ、でも服は……破られちゃったか」
「これでも着とけ。オレの着物で悪いけど、んな生まれたままの姿で街に帰れないだろーが」
「あ、ありがとう」
 兎の青年は戸惑ったようにお礼を言って、差し出した着物を羽織った。
「オレが泊まってる宿にはいい温泉があるから連れて行ってやる。よく見るとあちこち擦りむいてんじゃねえか。傷にも効くから」
「……う、うん……」

 この時に彼の手を取ったことは、今思えばきっと運命だった。
 これは、「贖罪」と、「希望」へ続く物語。
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