げすいの短編集

げすい

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揺れる

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 揺れる車窓から見える景色は、閑静な住宅街から長閑な田園風景に変わっていた。
 速度は緩い。
 流れる景色も、見渡す限りの緑の影響で変わっているようには思えず、規則的に聞こえる線路へ車輪が回る音が、人気のない車内を反射する。
「……」
 手に持ったのは必要最低限の生活必需品と、愛用の一眼レフ。リュックに詰められるだけ詰めたせいで、パンパンに膨れた鞄は、背負うだけで腰をやられそうだ。
 車窓から視線を切ると、下車の準備のために足元の荷物を手に持った。
 いつ以来だろう。
 一人の旅行なんて、長らくしていなかった。結婚してからは時間と体を家庭に割き、仕事に邁進していた。営業成績は悪い方ではなく、自慢ではないが社内の評価も高い方であった。結婚生活も順風とは言わなくとも、特に不満らしい不満はなかったーー
「ーーのは、俺だけか」
 しかし、そんな日々はもう遠い。
 独り身になるとよくわかる。自分の至らなさ、傲慢さ、馬鹿さ加減に。呆れてモノが言えなくなるとはこのことだろう。
 ほんの数ヶ月前まではなんてことない平和な時間が流れていた。平穏で慎ましい、言ってしまえば薄味の幸せだった。刺激的なものは特になく、幸せの形とは本来こういうものなのだろうと思っていた。
 しかし、それは自分だけだった。
 全てのゴタゴタが片付き、こうして傷心の意味を込めた旅行。そんなことができるのは学生の時以来か。だったら二十年近く前のことになる。
 田園風景は、まるで幼少期の自分が見てきた光景の焼き増しのようだった。あの時に見ていた風景を、あの時よりも50センチほど高い視点から見る。
 あぁ、そうか。
 ゆったりとブレーキが掛かる。
 慣性で体が揺られ、下車しようとしていた駅に金属音を奏でながら止まった。
 開く扉に合わせて席を立ち、秋の風が迎えてくれるホームへ歩き出した。
 これはきっと、幸せの代償なんだろう。
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