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第3話 琢朗
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しおりを挟む堕胎の同意書だった。母の名前のところには、滲んだ文字で夕希の名が認められている。
「……」
どんな思いで、この名前を書いたのか。夕希の心情を思いやるだけで、琢朗まで胸にぽかりと穴が空いたような気持ちになる。
「じゃあ、俺も書くよ」
ペンを取って、夕希の手にした紙を受け取ろうとすると、夕希はその用紙をひしと胸に抱え込む。
自分に書かせるために出したんじゃないのか。意外な思いに打たれたまま、琢朗の手は宙に留まる。
「…いいっ。上條くんには迷惑掛けない。こ、これだって私文書偽造だからね。大丈夫、パートナーのサインが無くたって、手術は受けられる」
「…それは、知ってるけど」
母体保護法という法律だ。無論、原則は両親共にサインをしてから、中絶の手術は受けるのが望ましい。けれど、人にはそれぞれ事情がある。望まない妊娠、死別、…既婚者との間の子ども。同意書を貰えない事情は山程ある。
その場合は、母親ひとりのサインでも、手術は受けられることになっているのだ。
「ちゃんと、病院にも確かめたから」
「……」
『上條くんに迷惑は掛けない』
…掛けて欲しいんだと、言ったら、きっとまた夕希は困った顔をするのだろう。
懐に入ったと思ったら、またいつ飛び立とうかと空を見上げてる。いつになっても、夕希は琢朗を正面から見ようとしない。
「…そう」
握りしめたボールペンを琢朗はテーブルの上に置く。ぽたりと茶色のテーブルに無色の雫が落ちて、何事かと首をもたげると、夕希は瞳からぽろぽろ涙を流していた。
「らい、しゅう…手術、受けて…くる…から…っ」
見ると、書類と一緒に、夕希はエコー写真も握りしめていた。雑誌などで見たことはあるが、本物を目にするのは、琢朗も初めてだ。
夕希の手のひらの隙間から、10w2dの文字が見えた。
「私の罪。せめて、ひとりくらい…知ってて欲しかったから…」
「…糸井さんのせいじゃないよ」
少しでも夕希の心を軽くしたくて、琢朗は言う。けれど、夕希はぶんぶん首を左右に振った。
「抱いて欲しい、って言ったの…私だもん…」
「……」
望んだのが夕希だったとしても。男の方が罪も責任も大きいと、琢朗は思う。法の名の下に、彼を追い詰めて追い詰めて、家庭にも会社にも居場所がなくなるくらい、すべてを明らかにしてやりたい。
けれど、当の夕希はそれを望んでない。親告罪って厄介だ。
「糸井さん」
名を呼んで、彼女の身体を柔らかく優しく抱きしめると、夕希は身体を硬直させた。けれど。すぐに琢朗の胸に顔を埋めて泣きじゃくり始める。
「ごめんねごめんね…」
啜り泣きの合間合間に挟まれる謝罪の言葉が、琢朗の耳に残った。
泣いて泣いて、少し落ち着いたのか、夕希は顔を上げて、泣きはらした瞳で琢朗を見つめた。
「これ、上條くん、持っててくれない…」
夕希が琢朗に渡したのは、夕希の胎内の様子を写した写真だった。
自分で持っているのは辛い。でも捨てることも出来ない。自分で葬ろうと決めた命が存在した証を。
「…うん…」
琢朗は大事にその写真を受け取る。
10週目に入ったところらしいその生命は、朧気ではあるけれど、手も脚も胴も頭もあった。こんな頃から、人の形をしているのだ。
「手術終わったら、ここ…来ても、いい…?」
「…うん…」
住環境が変われば、夕希も新しい気持になれるかもしれない。過去は忘れられなくても、人は前を、未来を見て生きることが出来る。
けれど、夕希の気持を過去に揺り戻すような事件が起きた。
峰淳弥が刺されたのだ。夕希を庇って。
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