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最終話 それぞれの選択
④
しおりを挟む一度、何食わぬ顔をして、淳弥のアパートを訪れたことがある。相変わらず、生活能力の低い淳弥の家の冷蔵庫は、レトルトと冷凍食品ばかりだし、部屋も足の踏み場もないくらいだ。
「淳くん、こんなんで良くひとりでやってこうとか思ったね」
笑いながら、麻衣香は淳弥の脱ぎっぱなしのパジャマを洗濯機に放り込み、台所の食器を片付け、シンクも調理台も綺麗に洗う。
探偵会社の調査のことは、麻衣香からは触れないが、もし、ここにやって来る女がいるのなら、気づかせたかった。彼には、完璧な妻がいるのだから、あんたなんか必要じゃない――と。
「あーうん、今いろいろ便利なものあるからさ、なんとかなるんだよ」
淳弥はまるで小さな子どもみたいに、麻衣香の後を追っかけてくる。まるで、見られたくないものでもあるかのようだ。いや、きっとそうなのだろう、麻衣香に見られたくないものをいち早く隠すため、万一見つかってしまった時には、素早くフォローするため、淳弥は彼女の傍を離れないのだ。
不貞の弥縫策に忙しい夫の心理は読めてしまうのに、どうしたら彼の心をこちらに向かせればいいのかは、見当がつかない。
仕事のトラブルの方が、麻衣香にはよっぽど片付けやすい。
「淳くん」
「ん?」
背の高い淳弥の首に腕を回してくちづけると、淳弥の方から舌を絡めてきた。
とんぼ帰りの予定だったが、実家に連絡を入れ、結衣を預かってもらうことにし、麻衣香はその夜、淳弥のアパートに泊まった。
久しぶりにふたりだけの朝を迎える。麻衣香の作った朝食を、淳弥は美味しそうに食べ、「行って来ます」「行ってらっしゃい」のキスを交わしあって、夫を送り出した。
部屋をもう一度綺麗に片付けて、麻衣香は淳弥のアパートを出る。近距離にある実家も、情熱を傾けられる仕事も、何もかも捨てて、結衣とふたり、こちらで暮らす選択をすれば、淳弥の心はもう一度麻衣香の元に戻ってくるのだろうか。
(淳くんは寂しいだけだよね…)
着ていたシャツの胸元をつまんで、中を覗くと、昨夜淳弥に愛された痕が残ってる。車に乗り込む前に、ふと思いついたことがあって、麻衣香は徒歩で慣れない街を歩き始めた。
調査書に載っていた糸井夕希の住所は、驚く程近かった。土地勘のない麻衣香が、スマホの地図を見ながらでも、10分足らずでついてしまう。
(こんな近くに…)
何気なく、ポストを覗いてみる。何も入っていなかった。ちょっとしたイタズラ心が生まれる…手紙でも書いて、入れていってやろうか。あなたの付き合ってる人には、妻子がいます――って。
建物から少し離れ、カバンの中から筆記用具を探ろうとすると、別の男がやはり先程の麻衣香と同じように、夕希のポストを覗き込んでいた。
配達の者ではない。糸井夕希に同居者や家族はいなかったはずだ。麻衣香の導き出した結論は、彼が糸井夕希のストーカーなんじゃないかということだった。
「こんにちは~」と声を掛けると、大柄の身体は、大げさにビクンと震えた。後ろめたい気持の証だろう。
保険の調査員のフリをして、糸井夕希という女性に面会したいのだが、なかなか会えないでいる…。家にいる時間などを知らないか、と尋ねると、牟田と名乗った男は嬉々としていろんなことを話してくれた。
法科大学院に通いながら、アルバイトをいくつか掛け持ちしてるから、朝は早く帰りも遅いらしい。最近は、外泊もたまにしてるみたいだ、と牟田は腹ただしげに言う。
そして、自分は夕希ちゃんのストーカーじゃない。ただ、見守ってるだけなんだ、とも言う。
少し、頭の程度の軽い男のようだった。話す時の身振り手振りが大げさなのは、自分でも言葉では不十分だと感じてるからのようだ。確かに語彙力が小学生レベルだった。
(使えるかもしれない…)
そう思い、麻衣香は彼の連絡先を聞き出す。
淳弥が仕事から帰ってくるのを待たずに、麻衣香は呉に戻った。
どうやって淳弥の浮気をやめさせよう。麻衣香が全部知ってることを伝えてもいいし、牟田を煽って、夕希を襲わせてもいい。
しかし、麻衣香が動くより前に、夕希の方が動いたのだ。ある朝突然、自宅に夕希は同じような学生風の男の子と現れた。
夫はやはり、自分が既婚者だということをひた隠しにしていたらしい。
会社の事務の女の子だと言われ、糸井夕希は明らかにショックを受けていた。
夫はやはり、浮気相手よりも、自分を選んだのだ。夕希とのことは遊びだったのだ――麻衣香の心に余裕と優越感が生まれる。
どうやら淳弥は夕希と別れたらしかった。調査会社の追跡調査でも、牟田からの報告メールでも、ふたりが会ってる様子がないことに、麻衣香は安心していた。
これで、単身赴任が終わって、呉に戻ってきたら、淳弥は自分のところに戻ってきてくれる。そう、信じていたのに――麻衣香は恐ろしいことを知ってしまう。
糸井夕希が妊娠してると言うのだ。
夫の子どもを、他の女が身籠っている――妻として、こんなに屈辱的なことはない。悔しさと怒りで、何夜も眠れない夜が続く。
(…やっぱりダメだ、糸井夕希だけはこのままにしておけない)
――シンジャエバイイノニ。
そんなことばかり考えてしまう。心が、壊れていく。
麻衣香はもう一度、淳弥と夕希の住んでいる街に向かった。今度は、淳弥にも知らせずに。
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