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驕った私の殺し方

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 ここのところ長くスランプが続いている。作品を書いても書いても、満足できないのだ。すぐにボツにしてしまう。もう十以上の作品がボツとなった。

 誰かが「どんな作品もどれだけ拙くてもいいから完成させた方がいい」と言った。

 その言葉は私の心に深く突き刺さった。そんなことくらい知っている、当たり前だ、創作活動においては質より量の方が圧倒的に自分の力になる、と反論した私の完成させた作品は短編ばかりで長編というものがない。

 言葉で何度繰り返し上記のことを唱えても、頭がそれを拒否してしまうのだ。もう少しいい言い回しはできないのか? ここの展開はこうした方がいいのではないか? そもそもこの設定は面白くないのではないか?

 少しでもその疑念が出てくるともう止められない。それまで私の頭にあった構想は霧散して、自分で自分の世界を壊した。

「私は一日に一万五千字書きます」

 このような人を見た。素直に感心した。しかし、それだけではなかった。どうせ大した中身もないのだろう、と内心に呟いてしまった。それが妬みだということは理解している。自分が書けないからそれを羨んでいるだけに過ぎない。

 私は最近、一日に三千字書くことも難しくなってきている。一年前は一日に三千字がノルマだった。今やそれを達成することはほとんどない。長期休暇の際、五時間、六時間とあってのこの体たらくだった。たった一段落、それだけの文章を書くことさえ難しい。この言葉は? この言い回しは? この接続詞はさっき使ったっけ? そんなことを考えていると気がついたら一時間が過ぎていたこともある。

 では、気分転換に設定を練り直してみようとネタ帳を開いてみると、不思議と書けるのは何故だろうか? 私は文章を書くのが下手なのでは? と考えたこともある。がしかし、それは私の小さなプライドと誇りが許さない。

 先程私は長編を完成させたことがないと言った。つまり、私は短編は完成させたことがある。その数は数えていないから具体的な数はわからないが、少なくとも二十近くは書いた記憶がある。そこで私は第三者から誉められた。文章が分かりやすいですね、心理描写が上手ですなどと誉められた。私は天にも昇るくらい嬉しかった。

 しかし、今やそれが足枷となってしまっている。短編で誉められたのだから長編でも誉められるに違いない。私は文章が上手いのだ。そんな驕った私がいる。

 私にはこの傲った私の殺し方がわからない。第三者からの評価を急ぐ傲った私が大量のボツを産み出した。とりあえずここまで書いてみて、評価で続きを書くかどうかを見極めよう。そんな心が私にはあった。私はどうしようもない人間だった。冒頭の言葉を忘れたわけではない。しっかと覚えている。それなのにも関わらず、作品を中途半端に投げ出してしまう。

 傲った私は肥大化している。

 書店に立ち寄り、とある本を手に取った。第一声は「私の方が面白く書ける」だった。それが尾を引いてここ一年近く本を買うことがめっきり減ってしまった。今までは毎日のように書店へ足繁く通い、面白そうな本があればメモを取り、自分だけのウィッシュリストを作成していたのだが、この一年間はほとんど更新されていない。
 傲った私は無知である。書店に並ぶ本と私の書いた作品の違いがわからない。この作品に惹き付けられる読者たちに向かって「私の方が面白い!」と叫ぶと、「返ってくるのは「最後まで書き上げろ」の一言。
 当たり前のことを傲った私は理解していない。

 早く傲った私を殺さなくては!

 でなければ私はいつか創作意欲すら奪われてしまう。もし奪われたのなら、私は死ぬだろう。傲った私に殺されて、もう二度と創作しようと思わなくなるだろう。それはなんとしても避けたい。
 それを避けるには手段は一つしかない。

「傲った私を殺すのだ!」
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