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3 楓の懐刀

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 タクシーの車窓に流れる景色は、町中の賑やかな景色を離れていき、段々と建物の数も減り、かわりに田畑や林が増える田舎の街道の景色に変わっていった。
 灯京都といえど、郊外にはまだまだ自然が残っている。街道の両側には桜の木が飢えられていたが、それが緑から黄色、赤、深紅へと見事なグラデーションになっており、サラームはどうやらその桜紅葉に魅せられているようだった。

「春になれば、桜の花を見に来る人で賑わうのよ。ここは有名な桜の名所なの。桜って、花だけじゃなく、葉も綺麗なのよね」
 萌子は気を遣ってサラームに話しかけた。
「ああ」
 サラームは、窓から隣に座っている萌子の方に振り返った。
「ねえ、サラーム。奴隷は、自分から主人に話しかけちゃだめって言う話だけど、私との間では気にしないでね」
「……」
「確かに、常識とか契約とか色々あるけれど、私そういうのあまり好きじゃないし、前にいた女中ともそんなルールはなかったわ」

 女中の正子は、乳母だった。乳幼児三人を育てるのに、主人から話しかけてくれなきゃ話せない、では別の意味で話にならない。そのため、幸世は正子にかなり自由な発言を許していたし、だからこそ、子育ての同志としての信頼関係が築けたのだと言える。三人の姉妹が大した事故もなく無事育ったのもそのおかげだ。

 萌子はサラームにざっとそのことを話した。サラームは、理解出来たようだった。
「礼儀は大事だけど、何でも自由に話してね。例えば、さっきみたいな大立ち回りの時も主と奴隷とか変なルールありきじゃ、色々困るじゃないの」
「わかった」
「色々説明したいところだけど」
 萌子はため息をついた。
「まず、私に聞きたい事はない? 何でも答えるわよ」
 本当は萌子は、サラームの事で知りたい事がありすぎたが、サラームの方が、不安な立場じゃないかと思った。
 どうやら奴隷商人達に相当嫌な目にあわされたばかりで疲れているようだが、それでも、いきなり通りすがりの女子高生に奴隷の身分でお買い上げされたのだ。聞きたい事が山ほどあるんじゃないかと、こっちの方が気になった。

「いいのか?」
「いいわよ。もちろん、スリーサイズ教えろとか、そういうのは、なしよ」
 空気をほぐそうとして、萌子は軽い冗談を言った。
 サラームはまたきょとんとしたが、冗談だとやがて気がついて、そこには反応せずに、萌子の方に向かった。

「あなたの名前を教えて欲しい」
「は?」
「……あなたの、名前だ。なんと、呼べばいい。ご主人様か?」


「……………………」

 なんだろう。これは。よくあることなのだろうか?
 萌子の名前などは、奴隷商人達に、本名を教えているのだが。肝心のサラームに、名前からして何にも教えず、いきなり萌子の方に突き出したという事らしい。
 どんなんだろう。スゴイ扱いだ。

 軽い頭痛を感じながら、萌子は、サラームに向き直った。
「私の名前は福田萌子よ。フクダ・モエコ。呼ぶときは萌子でいいわ」
 萌子は、まっすぐにサラームの方を見てそう言った。

 サラームも萌子の顔をじっと見つめていた。
 サラームの瞳の中に、萌子がいる。肩までの茶色の髪に大きな栗色の瞳。ぷっくりした丸い頬。微笑んでいる唇。
 着ているものは、豊葦原の若い娘なら誰でも着るような、動きやすい二部式着物を着ていた。下のスカートはオーソドックスな紺で、袴のような広がりを見せている。上は撫子色と白の市松模様。帯は思い切った濃紅で、浴衣のように文庫結びにしていた。
 西洋と交流を持たず、鎖国の状態を続けている豊葦原では、洋服はなかなか流行らない。かわりに、カジュアルで脱ぎ着しやすい二部式着物や、そのほかのアイテムが独特の発展を遂げたのだ。
 
「萌子、……様?」
「呼び捨てでもいいわよ」
「そういうわけにもいかない」
 サラームは顔をしかめた。
「それじゃあ、呼びやすいように呼んで。あんまり変だったら、やめてって言うから」
 サラームは一つ頷いた。

「萌子様、これから向かう家はどういうところなんだ。それと、俺の仕事は何になるのか、教えて欲しい」
「そうね。福田の家は、怪しい稼業はしていないから、安心して」
 まず萌子はそれを言った。
「福田の家は、代々、奉行所勤めよ。幕府の役人なの。幕府、ていうのは、わかる?」
「わかる」
 外国人舐めてるのか、というような顔つきのサラームを見て、萌子は、ふざけるのをやめた。ふざけていたわけでもないのだが。

「奉行所で、市民を守る仕事をしているのよ。簡単に言うと。今時だけど、かなり昔ながらの侍で、頭固くて忙しいの。不正な事は大嫌いなのが、私の父親よ。だから、サラームにも、奴隷法を違反するような扱いはしないし、給金はちゃんと渡すはずよ。お父さんが、何か変な事言ったりしたりしたら、私に言ってね」
「法律を、守ってくれるのか?」
「普通そうじゃない?」
 萌子が首を傾げると、サラームはなんとも言えない複雑な顔になって、黙ってしまった。

「後は、サラームにして欲しいのは、私の学校への送り迎えと、外出する時の護衛ね。現代の豊葦原は、治安はそんなによくないから、女の子の一人歩きは危険なの。そういうときに、付き添って欲しいわ」
「それだけでいいのか?」

「今のところは。あと、たまに家で男手が必要な時とか、力仕事とか頼むかもしれないわ。そういうときは手伝ってね」
「……それぐらいなら」
「ごめんね。うちの父、かなり忙しい人なのよ。うちは、後は母と姉と妹しかいなくって、男手足りないから」

「……そういうことか」
 サラームはどうやら、自分がいきなり護衛として買われた理由に気がついたようだった。男が一人しかいなくて、女ばかり四人いる家。それで、「若くて元気で強そうな」自分を見て、これなら自分と味方を守ってもらえると思ったのだろう。……と思っているのが萌子にもわかった。

「他に気になる事はない?」
「今はいい。あったら、そのとき聞く」
 本当は疑問符だらけなのだろうが、一番大事な事は聞けたし、安心できたらしい。それを聞いて、萌子は今度は自分の番だと思った。

「サラーム。なんで、私の名前を知らなかったの? 私が、契約書類を整えている間、結構時間があったはずだけど。サラームも、説明を受けていたんじゃないの?」
「いいや」
 サラームはいきなり口が重くなったようだった。
 憮然として、何も言わない。

「変な意味じゃないのよ。なんで、私の名前も教えなかったの? あの商人達は」
 実際、一時間たっぷりはあったと思う。

「……風呂に入れられて、この服に着替えさせられていた。それだけだ」
「はあっ!?」

 全く思ってもみなかった言葉に、萌子は、素っ頓狂な声を立ててしまった。バックミラーの中で、タクシーの運転手が、自分たちの方を見直した。それに気がついて、萌子は慌てて、サラームに聞き直した。

「お風呂に入っていたの? 何で?」
「……俺は知らん」
 そう言って、今度は窓の外の方を向いてしまう。

 萌子はしばらく考え込んだ。馬鹿にしているのかと思ったが、嘘や冗談を言っている様子でもない。しばらく考えこんで、先ほどのカタログの事を急に思い出した。かなりアダルト思考の……アクセサリ。

 萌子は、自分に姉妹しかいないことや、母親が最近、正子を亡くしている事などを奴隷商人に話してしまった事について、かなり嫌な気分になってきた。もしかして、そういうことだろうか?
 そして、昼日中から無理矢理、風呂に突っ込まれたことで、サラームも薄々それを察知し、自分の仕事をやたら気にしているのかもしれない。

「…………」
「…………」

 サラームも黙ったし、萌子も黙った。
 萌子は口をきくのが非常に辛くなってきた。

 だが、自分自身、サラームの事で知らない事はたくさんあるし、身元は確かだと言うが、赤の他人の男を家の寝室に住ませるんだから、気になる事は気になる。

 「サラームって、名字はなんて言うの?」
 やっとのことで、萌子はそれを聞く事が出来た。
「アル=アウス」
「アルアウス?」
「アル=アウス、だ」
「わかったわ。アル=アウスね。どこの国の出身なの?」
「アサド」

 アサド。萌子の知っている限りでは、赤道大陸の北東を統治する超大陸だ。アサドの風物については、テレビや書籍でいくらか知っている。高校の授業でも出た事がある。

「砂漠とかオアシスのある国だよね。あってる?」
「……まあ、ないわけでは、ないが」
「オアシスに行った事ある?」

 萌子は単純な興味でそう言った。するとサラームは、また、黙ってしまった。待っていても返事が来ない。

「どうしたの?」
「主人に嘘をつきたくない。だが、聞かせられる話がない」
「何、それ……」

 だが言葉の意味を考えてみる。相手に言いたくない話はあるのだろう。言いたくないが、嘘をついてごまかしたくもない。それじゃ、黙るしかない。

(なるほど、わかりやすい)
 それなら、こちらも、強いて尋ねる事はしない方がいいだろう。
 その後、タクシーが自宅に着くまで、萌子は様々な事を話したり、サラームに質問をしたりしたが、結局、半分ぐらいはサラームは黙っていた。

 萌子は、奴隷虐待があったのではないかと勘ぐっており、それで色々とサラームの事情を聞いたり、何故奴隷などになっているのか聞いてみたのだが、サラームは沈黙してしまって答えない。

(どっちなのよ……私の予想は当たってるの? 当たってないの? 外国人奴隷を虐待したなんて聞いたら、お父さんは飛び上がって怒ってフル出動するだろうけど、本人が話さないんじゃ仕方ないよ)
 だが、自分のような見た目の若い娘に、そういう話をしたくないだけかもしれないと、気を取り直した。

 やがてタクシーは、織田原市の中心地にある、福田家の前に着いた。
 萌子は「騒がしかったでしょう」と、運転手に運賃を払い、それから普通はしないことなのだが、少し多めのチップを渡した。
 母が大金を渡してくれていてよかった。運転手は空気を察しているらしく、萌子の方に、「話したりしませんから」という意味の目礼を送ってきた。

 振り返ると長屋門の門番が、驚いた顔で萌子を……というよりも、萌子の連れているサラームを見ていた。

 そういうわけで、萌子は、福田家に、サラームを連れて帰ってきたのだった。

 当然のことながら、母親は驚いたし、嘆きもした。自分は、家事を任せられるような若い健康な娘を買ってこいと言ったのに、これでは約束が違うではないか。
 萌子は説明もしたし抗弁もしたが、母親はしばらくはヒステリックな叱責を行った。だが、最終的には許すしかなかった。奴隷を買ってしまったのは仕方がなかったし、そもそも父親の兼久が、若い男の護衛の方がいいんじゃないかと言っていたのである。萌子もそれを知っている。
「まあ、何事も。萌子に怪我がなくて、よかったわよ」
 結局、幸世はそう言って、萌子の事を許してしまった。

「萌子、サラーム……? だっけ? サラームを、部屋に案内しなさい。あと、部屋の使い方を教えてやって。明日からは、仕事させるのよ」
「わかったわ、お母さん」
 萌子は、かなりびっくりしている様子のサラームを連れて、元の正子の住んでいた一階の北の奥の部屋に連れて行った。遺品整理はとっくに終わっているので、すっきりしているというよりも、だだっ広いだけの六畳間である。それでも、ベッドもクローゼットもしつらえられていた。

「この部屋を自由に使っていいわよ」
 萌子がサラームを案内すると、サラームは挙動不審な態度で硬直している。
「どうしたの?」
「女中が欲しかったのか?」
「そうよ。私の乳母をしていた女中が、夏に亡くなったから、お母さんの家事を手伝ってくれるひとが欲しかったの。どうしたの?」
「…………なんだ、それは……」
 サラームは明らかに安心したようだった。だが情けないぐらい緊張していた自分に気がついていたのだろう、今にも膝から崩れ落ちそうになりながら、踏みとどまっている。

「何よ……」
 萌子は真っ赤になった。今度こそ、サラームがどんな勘違いをしたか、というよりも、奴隷商人達にどんな勘違いを”させられたか”思い知り、怒りさえこみあがってきた。

「か、勘違いしないでよねっ! 私、そんなつもりであんたを買ったんじゃないんだから!」
 車中での様々なやりとりを思い出すと、さらに怒りがこみあがってくる。だが、同時にとんでもなく恥ずかしい思いをした。だから、簡単には舌が回らない。年上の異性に言っていいことと思えないからだ。

「わかってる。すまなかった、誤解したのは。萌子様に、失礼だった」
 サラームは素直にわびてきた。

「わ、わかればいいのよ!」
 萌子は虚勢のように胸を張って、サラームに背中を向け、彼の部屋を出て行く事にした。あんまり、サラームの個室に長居していいとは思えない。

「待て」
 そのとき、サラームが、今までになく低い声でそう声をかけてきたので、思わず萌子は彼の方を振り返った。
 サラームは、黒い着物の懐から、何かを取り出そうとしているようだった。

「……?」
 萌子がいぶかしんでいると、サラームは慎重に、鞘に入った懐刀を、萌子の方に両手に持って差し出した。

「護身用の懐剣……? それ、どうしたの?」
 萌子は妙な引っかかりを覚えた。奴隷商人が、奴隷に武器や刃物を簡単に渡すだろうか。昼間、サラームが暴れていた時に持っていたナイフも、結局取り上げられたようだし。恐らくそのナイフも、サラームが不意を突いて商人から奪い取ったものだろう。
 しかも、その懐刀は、一目見て、豊葦原のものだとわかった。

 懐刀の柄。それを見せるために、サラームは両手で萌子に捧げるようにして持っているらしい。

「この紋章を、萌子様は、知っているか?」
「紋章って、家紋の事?」
 サラームの質問を問い直すと、彼は顎を引いて頷いて見せた。

 萌子は家紋をよく見てみた。
 黒光りする柄には、金色に、七つに裂けた楓の葉の家紋があった。楓の葉は二枚。すれ違うように抱き合っている。よく見ると、鞘の先の方にも一カ所、同じ家紋が薄く掘られている。

「抱き楓紋? この家紋、知ってるけど」
 萌子は、首を傾げてそう言った。

「知ってる? まさか、フクダは……」
「違う違う。うちの家紋は九曜紋だもの。抱き楓紋は、このあたりじゃ、あんまり見かけないわよ」
「そうか……」
「見かけないけど、ないわけじゃないわよ。お父さんの知り合いの大名にいるもの」
 萌子はあっさりそう言ったので、サラームは思わず半分口を開けた。

「大浦っていう、外様だけど羽振りのいい大名なんだけど、仕事の関係でお父さんの知り合いなの。お父さんも、他では見た事がないって言っていたけど……」
 萌子はますます不思議そうに、首を殆ど横に傾けた。

「サラーム、なんで、アサドのあなたが、抱き楓紋の懐刀、持ってるの?」
「それは言えない」
 サラームは、楓の懐刀を懐に丁寧にしまってしまった。
「言うべき時が来たら言うから、今は許して欲しい」

「そう……?」

 話はそれで終わった。萌子は、すぐにサラームの部屋を去った。サラームは、うち続く緊張と疲労から、その日はすぐにベッドに入って眠ってしまった。
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