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第三章 雨に導かれて①
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運命なんてものを黒羽はまるで信じていなかった。
だが、人生とは不思議なもので、そんな人に限って信じてみたくなる出来事に出くわす時もあるのだ。
この話は、黒羽が大学四年生の頃にまでさかのぼる。
当時、彼は高校生の頃から洋食店でバイトをし続けて貯めたお金と、幼い頃に亡くなった両親、そして祖父が遺してくれた遺産を使って喫茶店の建物を購入するために日々、不動産屋を訪ね回っていた。
十月二十三日、この日も朝からあらゆる物件を見て回ったが、成果は芳しくなかった。
「最悪だ。こだわりすぎてんのかな俺。いいや、店舗にこだわらない経営者なんていないだろう」
不動産屋の自動ドアからゾンビのような足取りで外に出た黒羽は、ため息をつきながら家へ帰る途中だった。十月の沖縄は日中はまだ暑さを残していることが多く、まとわりつく熱気は彼の苛立ちを加速させた。
茜色が辺りを美しく彩る夕暮れのなか、一週間前の出来事を思い出す。
祖父が喫茶店として利用していた建物は、今もなお貸し出しており、大家の厚意で「格安で貸してあげるよ」と言われていたのだ。だが、黒羽は首を縦ではなく、横に振った。せっかく喫茶店を経営するのだから、自分で探した物件でスタートを切りたかったのだ。
祖父が生きていれば、「世の中は自分一人の力で生きていけるほど甘くない。人が助けてくれる時は素直に助けてもらえ」と言っただろう。
下らぬ意地だったかもしれないが、祖父が使っていた建物で喫茶店を経営するのは、いつまでも祖父に頼ってばかりのような気がして嫌だった。
しかし、その意地が裏目に出ていた。
本日何度目になるのか自分でも分からないため息をつく。そんな様子を天は知ってか知らずか、雨がポツリと落ちてきた。
さっきまでの美しい夕暮れが嘘のように、空には分厚い黒雲が覆いかぶさり、黒羽を見下ろしている。
「待ってくれ。俺が家に着くまで持ちこたえてくれ」
藁にも縋る気持ちで祈ったが、天はその願いをあっさりと突っぱねた。ポツリ、ポツリと一つ、二つと水滴が落ち、やがて辺り一面は水浸しになった。
雨のにおいが立ち込める琉花町。黒羽は、雨に打たれながらも懸命に走る。右、左、正面。視線を動かして、雨宿りができそうな場所を探すが、なかなか見つからなない。
(もういっそのこと、家にそのまま帰ろうかな)と考えた時に、オーニングがせり出している建物を発見した。
吸い込まれるように走り、やっとの思いで到着する。
濡れた体を拭こうと、背中に背負っていたリュックサックからタオルを取り出そうとするが、こんな日に限って入れ忘れてしまった。
「……悲しいな」
一人呟いた声は、雨がアスファルトを叩く音に遮られた。風が吹き、肌寒く感じた黒羽は、逃げるように後ろに下がった。その時、ドンっと何かにぶつかってしまう。
(そういえば、俺はどんな建物の前にいるんだ?)と思い後ろを振り向くと、そこは売りに出されている建物だった。
窓に張り出されている用紙には”店舗用物件一千万円で販売中”と書かれていた。
「安すぎだろ!」
黒羽は大きな声で叫んだ。
琉花町は、都市化が進んでいる町で地元民だけでなく、移住者の人気も集めている。特に海沿いのこの辺りは、美しい景色を一望でき、需要が高いエリアだ。そんな所に建っているにも関わらず、この価格は一体どういうことなのだろうか?
「瑕疵物件なのかな? 中はどんな感じだ」
室内を覗き込むと、トクン、ドクンと胸が自然と高鳴っていくのを黒羽は、はっきりと自覚した。薄暗いので、細部までは確認できないが、広さも間取りも理想通りの物件そのものだった。
興奮気味にリュックサックを開けてスマホを取り出すと、用紙に小さく記された電話番号にかけようとした。しかし、その時、椅子をテーブルにぶつけたような音が室内から聞こえたので、黒羽はスマホを操作する指を止めた。再び室内を覗き見ると、一人の老人がポツンと立っていた。ホウキを手に持っているので、掃除をしていたのだろうが、先ほどはいなかったような気がする。少し季節外れの怪談のようで、背筋がゾワリとしたが首を振って気のせいだと思い直す。
(奥にいたのかな? 見えなかったや。大家か、それとも不動産会社の人か? よし)
「すいません!」
大きな声で呼びかけてみる。
老人は黒羽を見ると、入り口のドアをすぐに開けてくれた。
「突然申し訳ございません。実は……」
続きの言葉は途中で途切れてしまう。
理由は、その老人があまりにも怪しかったからだ。
目がくぼみ、顔には沢山の皺が刻まれている。少し開いた口からは、わずかに残っている歯が見え、髪は手入れをされておらず、白髪が様々な方向に飛び跳ねていた。おまけに服はボロボロで擦り切れている。
不法侵入したホームレスだと思い、黒羽は身構えた。そんな彼の様子を気にした素振りはなく、老人は見た目とまるで合っていない穏やかな声で話しかけてきた。
「どうしました? 天気にでも嫌われましたかな」
人は見た目にはよらないとはよく言ったものだ。風貌はともかく、老人の品のある声はスッと心を落ち着かせてくれた。
「ええ、雨が降ってきたものですから、ここで雨宿りをしていたのです。失礼ですが、あなたはこの物件の大家さんでしょうか?」
「はい、そうです。名は神無月と申します。さあさ、外にいては風邪を引いてしまう。どうぞ中へお入りください」
ありがたい申し出に心の底からお礼を言い、室内に足を踏み入れた。
「おお……」
テーブルと椅子があるだけの空間だが、黒羽には宝の山に匹敵するほど素晴らしいものに見えた。
入り口から左手の窓からは海を一望でき、木製の壁はオシャレでがっしりとしている。床は手入れが行き届いており、ワックスが鏡のように光っていた。
「あ、あの。突然すみません。僕の名前は黒羽秋仁と申します。あ……タオル。ありがとうございます……えーと。喫茶店を経営したいと考えておりまして、ちょうど物件を探している最中だったんですが……」
「それはそれは。雨に降られたのは不幸中の幸いと言えるかもしれませんね。良かったら、ご案内しますが、いかが?」
断る理由はない。案内を頼むと、神無月は快く引き受けてくれた。
「ここは昔、吾輩が趣味でレストランを経営していた時に使っていた建物でしてね」
「え? レストラン」
「はい。そんなに驚いてどうしましたかな?」
「い、いいえ。なるほど。それで、業務用の椅子とテーブルがあるんですね」
「はい。まあ、冷蔵庫やコンロなどは、あんまりにもボロボロだったんで撤去しましたが、使えそうな物はそのままにしておきました。厨房はこちらですよ」
カウンターの中に入って奥まで進むと、右側に厨房の入り口がある。神無月の後に続いて厨房に入ると、油汚れ一つない新築のような場所が広がっていた。
「随分と綺麗ですね」
「はい。業者さんにお願いして、隅々まで清掃してもらったんですよ。いやはや、彼らには随分と苦労をかけてしまいましたが、その甲斐あって新品同様です」
「確かに。そういえば、この物件の築年数は何年でしょうか?」
「ああ、この建物は……」
老人は問いに的確かつ丁寧に答えてくれる。黒羽は疑問がなくなるまで、沢山のことを質問した。
気付けば、リモコンで早送りを押したかのように夜が訪れ、建物の中は完全な暗闇に満たされた。
「あ、吾輩としたことが、夢中になるあまり暗くなっても電気をつけないとは」
「いいえ、神無月さんのせいでは。質問をしまくった僕のせいですよ」
神無月は電気のスイッチをつけた。パッと灯った照明の白い光が眩しくて、黒羽は目を瞑る。
「眩しい……ウッ!」
閉じた瞼を開けた瞬間、思わず叫びそうになった。神無月が体を前に向けたまま顔だけを後ろに向け、黒羽を見ていたからだ。
「黒羽さん。この建物について基本的なことはほとんどお話しました。けれど、まだお伝えしなければならないことがあるのです」
ゾワリと毛が逆立つ。神無月の口調はあくまで優しげなままだ。だが、これまでとは何かが決定的に違う。得体のしれない、例えるなら、暗闇の中に何かが蠢いているかのように、見えない怖さと迫力が神無月の体から発せられていると黒羽は感じた。
だが、人生とは不思議なもので、そんな人に限って信じてみたくなる出来事に出くわす時もあるのだ。
この話は、黒羽が大学四年生の頃にまでさかのぼる。
当時、彼は高校生の頃から洋食店でバイトをし続けて貯めたお金と、幼い頃に亡くなった両親、そして祖父が遺してくれた遺産を使って喫茶店の建物を購入するために日々、不動産屋を訪ね回っていた。
十月二十三日、この日も朝からあらゆる物件を見て回ったが、成果は芳しくなかった。
「最悪だ。こだわりすぎてんのかな俺。いいや、店舗にこだわらない経営者なんていないだろう」
不動産屋の自動ドアからゾンビのような足取りで外に出た黒羽は、ため息をつきながら家へ帰る途中だった。十月の沖縄は日中はまだ暑さを残していることが多く、まとわりつく熱気は彼の苛立ちを加速させた。
茜色が辺りを美しく彩る夕暮れのなか、一週間前の出来事を思い出す。
祖父が喫茶店として利用していた建物は、今もなお貸し出しており、大家の厚意で「格安で貸してあげるよ」と言われていたのだ。だが、黒羽は首を縦ではなく、横に振った。せっかく喫茶店を経営するのだから、自分で探した物件でスタートを切りたかったのだ。
祖父が生きていれば、「世の中は自分一人の力で生きていけるほど甘くない。人が助けてくれる時は素直に助けてもらえ」と言っただろう。
下らぬ意地だったかもしれないが、祖父が使っていた建物で喫茶店を経営するのは、いつまでも祖父に頼ってばかりのような気がして嫌だった。
しかし、その意地が裏目に出ていた。
本日何度目になるのか自分でも分からないため息をつく。そんな様子を天は知ってか知らずか、雨がポツリと落ちてきた。
さっきまでの美しい夕暮れが嘘のように、空には分厚い黒雲が覆いかぶさり、黒羽を見下ろしている。
「待ってくれ。俺が家に着くまで持ちこたえてくれ」
藁にも縋る気持ちで祈ったが、天はその願いをあっさりと突っぱねた。ポツリ、ポツリと一つ、二つと水滴が落ち、やがて辺り一面は水浸しになった。
雨のにおいが立ち込める琉花町。黒羽は、雨に打たれながらも懸命に走る。右、左、正面。視線を動かして、雨宿りができそうな場所を探すが、なかなか見つからなない。
(もういっそのこと、家にそのまま帰ろうかな)と考えた時に、オーニングがせり出している建物を発見した。
吸い込まれるように走り、やっとの思いで到着する。
濡れた体を拭こうと、背中に背負っていたリュックサックからタオルを取り出そうとするが、こんな日に限って入れ忘れてしまった。
「……悲しいな」
一人呟いた声は、雨がアスファルトを叩く音に遮られた。風が吹き、肌寒く感じた黒羽は、逃げるように後ろに下がった。その時、ドンっと何かにぶつかってしまう。
(そういえば、俺はどんな建物の前にいるんだ?)と思い後ろを振り向くと、そこは売りに出されている建物だった。
窓に張り出されている用紙には”店舗用物件一千万円で販売中”と書かれていた。
「安すぎだろ!」
黒羽は大きな声で叫んだ。
琉花町は、都市化が進んでいる町で地元民だけでなく、移住者の人気も集めている。特に海沿いのこの辺りは、美しい景色を一望でき、需要が高いエリアだ。そんな所に建っているにも関わらず、この価格は一体どういうことなのだろうか?
「瑕疵物件なのかな? 中はどんな感じだ」
室内を覗き込むと、トクン、ドクンと胸が自然と高鳴っていくのを黒羽は、はっきりと自覚した。薄暗いので、細部までは確認できないが、広さも間取りも理想通りの物件そのものだった。
興奮気味にリュックサックを開けてスマホを取り出すと、用紙に小さく記された電話番号にかけようとした。しかし、その時、椅子をテーブルにぶつけたような音が室内から聞こえたので、黒羽はスマホを操作する指を止めた。再び室内を覗き見ると、一人の老人がポツンと立っていた。ホウキを手に持っているので、掃除をしていたのだろうが、先ほどはいなかったような気がする。少し季節外れの怪談のようで、背筋がゾワリとしたが首を振って気のせいだと思い直す。
(奥にいたのかな? 見えなかったや。大家か、それとも不動産会社の人か? よし)
「すいません!」
大きな声で呼びかけてみる。
老人は黒羽を見ると、入り口のドアをすぐに開けてくれた。
「突然申し訳ございません。実は……」
続きの言葉は途中で途切れてしまう。
理由は、その老人があまりにも怪しかったからだ。
目がくぼみ、顔には沢山の皺が刻まれている。少し開いた口からは、わずかに残っている歯が見え、髪は手入れをされておらず、白髪が様々な方向に飛び跳ねていた。おまけに服はボロボロで擦り切れている。
不法侵入したホームレスだと思い、黒羽は身構えた。そんな彼の様子を気にした素振りはなく、老人は見た目とまるで合っていない穏やかな声で話しかけてきた。
「どうしました? 天気にでも嫌われましたかな」
人は見た目にはよらないとはよく言ったものだ。風貌はともかく、老人の品のある声はスッと心を落ち着かせてくれた。
「ええ、雨が降ってきたものですから、ここで雨宿りをしていたのです。失礼ですが、あなたはこの物件の大家さんでしょうか?」
「はい、そうです。名は神無月と申します。さあさ、外にいては風邪を引いてしまう。どうぞ中へお入りください」
ありがたい申し出に心の底からお礼を言い、室内に足を踏み入れた。
「おお……」
テーブルと椅子があるだけの空間だが、黒羽には宝の山に匹敵するほど素晴らしいものに見えた。
入り口から左手の窓からは海を一望でき、木製の壁はオシャレでがっしりとしている。床は手入れが行き届いており、ワックスが鏡のように光っていた。
「あ、あの。突然すみません。僕の名前は黒羽秋仁と申します。あ……タオル。ありがとうございます……えーと。喫茶店を経営したいと考えておりまして、ちょうど物件を探している最中だったんですが……」
「それはそれは。雨に降られたのは不幸中の幸いと言えるかもしれませんね。良かったら、ご案内しますが、いかが?」
断る理由はない。案内を頼むと、神無月は快く引き受けてくれた。
「ここは昔、吾輩が趣味でレストランを経営していた時に使っていた建物でしてね」
「え? レストラン」
「はい。そんなに驚いてどうしましたかな?」
「い、いいえ。なるほど。それで、業務用の椅子とテーブルがあるんですね」
「はい。まあ、冷蔵庫やコンロなどは、あんまりにもボロボロだったんで撤去しましたが、使えそうな物はそのままにしておきました。厨房はこちらですよ」
カウンターの中に入って奥まで進むと、右側に厨房の入り口がある。神無月の後に続いて厨房に入ると、油汚れ一つない新築のような場所が広がっていた。
「随分と綺麗ですね」
「はい。業者さんにお願いして、隅々まで清掃してもらったんですよ。いやはや、彼らには随分と苦労をかけてしまいましたが、その甲斐あって新品同様です」
「確かに。そういえば、この物件の築年数は何年でしょうか?」
「ああ、この建物は……」
老人は問いに的確かつ丁寧に答えてくれる。黒羽は疑問がなくなるまで、沢山のことを質問した。
気付けば、リモコンで早送りを押したかのように夜が訪れ、建物の中は完全な暗闇に満たされた。
「あ、吾輩としたことが、夢中になるあまり暗くなっても電気をつけないとは」
「いいえ、神無月さんのせいでは。質問をしまくった僕のせいですよ」
神無月は電気のスイッチをつけた。パッと灯った照明の白い光が眩しくて、黒羽は目を瞑る。
「眩しい……ウッ!」
閉じた瞼を開けた瞬間、思わず叫びそうになった。神無月が体を前に向けたまま顔だけを後ろに向け、黒羽を見ていたからだ。
「黒羽さん。この建物について基本的なことはほとんどお話しました。けれど、まだお伝えしなければならないことがあるのです」
ゾワリと毛が逆立つ。神無月の口調はあくまで優しげなままだ。だが、これまでとは何かが決定的に違う。得体のしれない、例えるなら、暗闇の中に何かが蠢いているかのように、見えない怖さと迫力が神無月の体から発せられていると黒羽は感じた。
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