喫茶店のマスター黒羽の企業秘密3

天音たかし

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第26話 第7章 激情②

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 酒瓶が床に散らばる薄暗い部屋には、酒と汗の臭いがムッと漂っている。
「う……ん」
 隣で眠る女を不満げに見やったペドロは、でっぷりと太った上半身をベッドから起こした。
「ああ、やっぱり女王を抱きたいのう」
 ペドロは、鼻を大きく膨らませ、酒瓶を手に取ると黄金色の液体を水でも飲むように喉へ流しこむ。
「入るぞ」
 ノックの音が鳴り、ウルドが部屋に入ってきた。彼は部屋に立ち込める臭いに、顔を歪めた。
「ウルド、ちょうど良いところにきた。なあ、女王を抱いても良いじゃろう。もう限界なんじゃ。こんな女を何度抱こうが、満足はできんよ」
 欲望の色に光るペドロの目を、ウルドは冷ややかな光を宿した目で睨み、首を振った。
「駄目だ。幾度も話しただろう。この国の人間共を手間なく降伏させるためには、女王がオール帝国に与したと宣言することが肝要だ。
 女王には演説の時まで生きてもらう必要がある。お前の玩具にされて、自殺されでもしたらどうする?」
「だ、大丈夫じゃ。そうしないようにする。女王だって初めは抵抗するかもしれんが、慣れてくれば逆にワシを求めてくるようになるじゃろうて、問題ないわい」
 ウルドの瞳は冷ややかさを増した。
「貴様の弁には、いかほどの説得力もありはしない。黙って俺の指示に従え」
 ペドロは悔しげに唇を噛む。
 ワシは国を売ってまで女王を欲したのじゃ。なぜ我慢せねばならぬ。地位や名誉を得ても届かぬからこそ、一大決心をしたはずなのに。
 ペドロは、音をたてぬように枕に忍ばせたナイフを手に持った。
「仕方ないのう。酒とつまらん女で我慢するかのう。……すまんがウルドよ、ベッドの下に転がってる酒瓶を取ってくれんか。体を動かすのが億劫でのう」
 ウルドは目を細めると、無言でベッドへと近づき、身をかがめた。
 ――お主が、お主が悪いのじゃ。ワシの好きにさせんから。……死ね。
 ペドロは、ナイフを無防備な首に刺した。……はずだった。
「ごふ、……なんじゃ? 口から液体みたいのが零れたぞ。血? 血が出とる。……あ、ああ、ああああ。どうなっとるんじゃ」
 ペドロは、俯いた際に目に飛び込んできた光景を否定した。真っ白い毛に覆われた手が、己の腹を貫通している。
 身体が痛みを発している。消失した部位が嘆いている。
 ペドロは首を何度も振った。そんなはずはない。ワシはこれからも快楽を、むさぼり続けるんじゃ。
「その目。死を認めぬつもりだろう。それが、貴様の限界だ。己の都合の良い部分しか見れぬから、お前は命を落とすのだ」
「な、なんでじゃ。ワシが殺すつもりだとなぜ?」
「なぜだと? 貴様は隊長だろう、殺気を読めないのか。いや、ナイフ捌きを見るに実力はあるはず。
 ……そうか、快楽に流された末に、錆びついた。そうだろう、そうに違いない」
 ウルドはあざけりを笑みに乗せ、するりと貫いた腕を引いた。
 鮮血が、部屋を赤く染め上げていく。ペドロの隣で寝ていた女は、ようやく事態に気付き、金切り声を上げた。
「あ、ああ。貴様、許さぬぞ。女王を渡せ。ワシの、ワシのもんじゃあ」
 ペドロは、四方八方に両手をばたつかせる。ここにいない誰かを求めるように。……けれども両手が抱くは空気のみ。
 やがて、動きは弱々しくなり、ついには動かなくなった。
 
「お前は用済みだ。……一人では寂しいだろう。連れを送ってやる」
 ウルドは爪を薙ぎ払い、背を向けた。部屋に響いていた金切り声は消え、静寂と死だけが残った。
「……フン」
 ウルドは興味を失くしたように、部屋を出ていく。細く長い廊下は部屋の様子を引きずるように静かであり、彼の足音だけが響く。が、いつの間にか足音は、二人分の音が混じり合って反響した。
「ウルド様」
「ネメリアか」
 黒いマントで全身を覆った彼女は、ウルドの傍に近づくと小さな声で話し出した。
「ご指示通り、潜入に成功しました」
 ネメリアの報告に、ウルドは満足げに笑う。
「よくやった。それで、連中の出方はどうだ?」
「ハ。奴らは宿屋連盟の支部に逃げこみ、協力して城に攻め込むつもりです」
 ウルドは眉を顰める。
「宿屋連盟? ああ、各国と協定を結び、独自の権力を有した連中のことか。なるほど、考えたな。あの支部なら、ウトバルクの連中では門前払いだろうし、我らが手持ちの兵力では、強力な魔法使いに苦戦を強いられるだろう」
「その通りかと。ほとんど乗っ取りは成功したとはいえ、この城には女王派も多数います。奴らが攻め込み、女王派と協力したとなれば、厳しいかと」
 ウルドは、立ち止まるとネメリアを見下ろした。
「貴様は支部に戻り、逐一動きを報告しろ。動きさえ読めれば、やりようはいくらでもある」
「ハ。……ウルド様、黒羽秋仁の一行も殺すのですか?」
「……貴様」
 ウルドは目を見開くと、ネメリアを壁へ叩きつけた。
「ッウ! ハア、ゲホ」
「貴様、情でも移ったか?」
 ウルドは倒れ伏すネメリアの胸元を掴み上げると、真上に上げた。
「お許しください。お許しください」
「……良いかネメリア。お前が生き残っているのは奇跡なんだ。爆弾で死んだ仲間を思い出せ。あの場で気絶していたのがお前であるならば、俺はためらいもなく殺しただろう。
 たった一人、潜り込めれば良かった。お前は、たまたま生き残ったのだ」
 顔を引き寄せると、ウルドはネメリアの瞳を殺意で射抜いた。
「まだ生きていたいなら、冷血になれ。人を辞めて、人を殺すだけの存在になれば、生かしておいてやる」
 冷たい死の臭いが漂う言葉に、ネメリアは震えて頷くことしかできない。ウルドは手を放すと、彼女を置いて立ち去った。
 ※
 ネメリアは、寒くもないのに震えが止まらない体を両手で抱きしめた。
 ――私はまだ生きていたい。
 親もなく、生まれた場所も分からないネメリアにとって、その感情はただ一つの願いだ。
 生きるのは苦しい。働き口もなく、盗みや物乞いをしてやっと命を繋いでいく日々は、辛いと感じる感覚すら麻痺するほどの地獄に感じた。
 だが、それでも生きたいと思う気持ちが消えることはなかった。それどころか、辛い目に遭うほど、生への執着は深まっていくばかり。
 ウルドはネメリアにとって死神そのものだ。恐ろしくて、抗えなくて、目を見るたびに命が断ち切れていくような感覚に怯えた。
「そうさ、私は生きたい。だから、何でもするんだ」
 そう呟いた彼女の脳裏に、黒羽達の姿が思い浮かぶ。
 抱きしめてくれた。
 手を差し伸べてくれた。
 厚意と呼ばれるものを向けてくれた。
 
 どれも経験がないものばかりで、眩しかった。でも、生きるためには目を背けなければならない。
 ――生きたい、でも……。
 ネメリアは、声を押し殺して、静かに涙した。
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