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土日を除いてあと二日
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六時まであと一時間ある。
集は幾度目かの生あくびをしながら、椅子の背もたれに体重を預けた。あー、やっぱり引き受けなきゃよかった、と当番三日目にして何度思ったことだろう。本を読む習慣のない集にとって、図書委員の仕事は退屈以外の何物でもなかった。
「一週間学食のうどん(二九〇円)を毎日おごるから」といわれ友人の川島から一週間図書委員の代わりを引き受けた。昼飯に毎日うどんが無料で付くようになるのは魅力だったが、代わって欲しい理由と言うのも「もうすぐ彼女の誕生日だからバイトを根詰めたい」と言うもので、今になってよくよく思うとちょっと腹が立ってくる。やっぱり断ってやればよかった、と思う反面、断ったとしてもやっぱり放課後にやることが無いのは変わりないのだから、結局同じことだったのかもしれなかった。
偏差値低めの私立のこの高校で、放課後に図書室に来る生徒なんてほとんどいない。にしても今日は、放課後に集が図書室にやってきてからたったの一人も図書室に来ていないのだった。集はスマホゲームをするのにも飽きはじめてきた。開け放った窓から秋口の心地よい風が入り、集は一つ深呼吸する。運動部の掛け声と、吹奏楽部の音出しが聞こえてきていた。
どこか遠い世界のもののようにそれら聞きながら、机に突っ伏しているとすぐに眠気がやってきて、集は抵抗する気もなく瞼を閉じた。
「……せん。すみません」
とん、と肩を優しい強さで叩かれる。起こすのではなくまるで寝かしつけるようなその手つきに、夢うつつで集は目を開いた。
「ん……?」
「すみません。貸出お願いします」
その声を聞き、はっと顔を上げる。うとうとするつもりが、いつの間にか本格的に眠ってしまっていたようだった。先ほどまで青かった外は赤く変わっていて、図書室の中も暖色に染まっていた。四十分ほど眠っていたようだった。
「うわ、すんません、えっと……」
「いえ。一年Aクラスの浅黄です」
「はいはい、一のA……」
一年Aクラスの束の中から、浅黄の図書カードは果たしてすぐに見つかった。一番手前に入っていたのだ。そして、『浅黄閏』という名前には見覚えがあった。ちらと視線を上げて彼を見てみるとその顔にも見覚えがあった。
へえ、本名なんだ。心の中で呟く。
「……浅黄、うるうって言います」
「え? ……あ。ははっ、知ってるよ」
「あ、そっか。すいません」
下の名前が読めずにしかめ面をしていると思われてたのだろうか。思わず笑うと、彼も柔らかくはにかんだ。それを見ると、なるほど、確かにきれいな顔だ。
浅黄閏は一つ下の学年の一年の生徒だ。劇団だか事務所だかに所属していて、少し前の木曜のドラマに出演してからちょっと話題になっている俳優らしい。集はテレビをほとんど見ないので、クラスメイトの噂で聞く程度しか彼の情報を知らなかった。校内でも遠巻きに見かけることはあっても、こんなに間近で話したのは初めてのことだった。けれど彼は狭い校内で彼はいつだって噂の的で、それでは疲れてしまいそうだと思ったことがあり、実際、あれこれうわさする友人をとがめたことも何度かある。貸出カードに今日の日付のハンコを押し、貸し出す文庫本を彼に差し出す。
「どうぞ。貸し出し期限は二週間です」
「はい、ありがとうございます」
彼はぺこ、と小さく会釈をしてから、カウンターを離れて窓に近い席に腰かけ、貸りたばかりの本を開き始めた。その様子を、少し物珍しく見つめてしまう。なにせ本の貸し出しも、図書室で読書をしている人もどちらもかなり珍しいのだ。
閏は姿勢正しく、文庫本を読んでいた。一定のペースでページを送る。その横顔はとても賢そうに見えたが、「賢そうに見えた」と言う感想自体があまり賢くない感想かもしれない。読んでいる本は古いもののようで、作者名をどこかで見たことがある気がする。こんな風に観察しては良くないか、と集が思い至るのと、閏がこちらを振り向くのはほとんど同時であった。
「なんですか?」
「あ、ごめん。ここに人がいるのが珍しくて」
「ああ……」
言うと、閏は一度本に視線を戻してから、もう一度集に視線を戻した。
「あの、図書委員の人って、貴方になったんですか?」
少し離れた場所からでも良く通る声だった。さすがと言うべきか、と思いつつ「いや、今週だけ代打」と答えると、彼は見るからに残念そうに肩を落とした。
「そうですか……」
それからまた本に視線を落とし、読書を再開させた。邪魔だろうなとは思いつつ「なんで?」と尋ねてみる。彼は本から顔を上げ「なんでって……?」と首を傾げた。
「いや、なんか残念そうにしてたから」
「あ、いや、うーん……」
閏は問いかけにやや気まずそうに笑い、視線をうろうろとさせた。それから「いつもの方たちは、お友達が……」と呟くように言った。
「うん?」
「お友達と一緒で……」
「……あ、うるさいってこと?」
集の言葉に、閏はちらっとこちらを見て苦笑いを見せた。
「いや、お友達が多いらしくてってことです」
「それだと俺が友達少ないってことになるよ」
「あ……」
閏が慌てたようにぱっと口元を抑える。思わず「あはは」と集が笑うと、閏も目を細めて「ふふふ」と笑った。その様子がお上品で、普段の交友関係の外の気配がしてなんだかそわっとする。
「よく来るの? 図書室」
「いえ、普段は騒がしいので」
もう隠さないことにしたのか、彼は微笑んでそう言った。その物言いに思わずくすくすと笑ってしまう。柔らかな見た目と裏腹に、歯に衣着せぬ物言いだ。
「でも利用したいとは思っていたんです、撮影までの時間をつぶすのにちょうどいいし。そう思ってたら、一昨日仕事前に覗いた時静かだったので」
「友達が少ない奴に変わってた?」
「いえ。騒がしい人から、寝ている人に変わっていて。そのほうが良いな、とも、思っていたんです」
いたずらっぽく微笑み閏はそう言った。確かに集は一昨日も昨日も委員の当番中に居眠りをしている瞬間はあった。まさか誰かにそんな風に観察されていたとは思わなかったけれど。言われている一昨日も、何人か返却に来ただけでほとんど今日と同じように暇だったので、気を緩めまくっていた。改めて言われると普段感じない恥ずかしさを感じるような気がした。
「でも先輩は、一人でいいんですか?」
集の内心を知らぬまま閏が首を傾げ尋ねる。
「だって図書室は静かにするものだろ。禁止されてる場所でわざわざ誰かを呼んで騒ぐのも」
「……へーぇ」
集の返答に、閏は目を細め、何か言いたげに唇の端を上げた。にやにやっ、と言った様相だったが、なんだよ、と集が聞く前に、ふいっと顔を背け「でも今週限定なんですね」とつまらなそうな表情に変わってしまった。
「うん、でも来週からはまた別のクラスのやつらに変わるから、もしかしたらそいつらは騒がしくないかも」
当番は通常一クラス二週間で交代になっている。ちなみに言うと、本当は川島以外に同じクラスにもう一人委員がいるはずなのだが、そいつは一度も当番に顔を出したことがないらしい。
「うーん。今まで静かだったことが稀だったからなあ」
「言うなぁ」
「事実ですからね。でも今週は少なくとも静かってことですよね。嬉しいなあ」
閏はそう言うとにっこりと微笑んだ。意外と、表情がころころと変わるやつである。遠くから見ていた時はなんというか、平熱が低そうに、平坦そうに見えていたけれど、実際話してみるのとではやはり印象が違う。
夕暮れの日も陰り、室内の陰影が濃くなってきていて、そういえば電気をつけなければならない。そう思ってから、実際に動き出すまで、閏を見ていると何となく時間がかってしまった。綺麗なものから目を離しがたいというのを実感する。
「そうだね。今週いっぱいは代わってるから」
ようやく立ち上がって電気をつけに行く。ぱ、ぱ、と時間差をつけながら電気が点灯されていき、蛍光灯の明かりが眩しくて一瞬目を細めた。
「先輩、名前なんて言うんですか?」
「俺? 種島集」
「集先輩」
「下の名前呼びなんだ」
「はい、親しみを込めてみました」
「それはどうも……?」
閏はなんだか機嫌がよさそうに見えた。もっとも、不機嫌な時もご機嫌な時も知らないため比較対象があるわけではないけれど。開いていた文庫本はいつの間にか閉じられている。先ほど時間をつぶすと言っていたし、彼も空き時間で暇なのかもしれない。暇な時間、本を読んでいても誰かとしゃべっていても変わらないのだろう。暇なのは集も同じだ。
「読書が趣味?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……。これは、今度出る映画の原作者の小説なんです。……あ、えっと、僕、役者をしていて」
「なんだよ、知ってるよそれは。その小説の映画に出るってこと?」
「いえ、この作者の、別の作品の映画に出るんです。チョイ役なんですけどね」
閏は少し照れ臭そうにしながら言った。小説の表紙をてのひらで一度撫でる。
「へー、作者の他の作品も読まなくちゃなんだ」
「読まなくちゃってわけじゃないですよ。これは話自体は全然関係ないです」
「えっ⁉︎ 関係ないの?」
「はい。俺が勝手に読んでるだけです。でも同じ作者なので、まったく無関係とも言い難いじゃないですか。特に、これはその原作小説と同年代に書かれたものなので」
あ、分からないかもですけど、タイトルは内緒ですよ。と、言いながら小説の表紙に落とした視線が柔らかく愛おし気で、その表情につい心臓がどきっとした。まるで自分に向けられたような気分になってしまう。なんだかこれはいけない気がする。ばれないように息を吸って、吐く。
「と言っても、僕がやるのは本当にちょこっとしか出ない役なんですけど……。じつは元からこの作者の小説を何作か読んだことがあって、ちょっと気合入れちゃってるんです。できることはしたいなぁって」
話している内容にピンときているわけでもないし、上手い相槌が打てるわけでもないのに、なんだか大切そうに話をしてくれる横顔が、やけにきれいに見えてしまう。話半分に肘をついてぼんやり横顔を眺めていると、ぱっと閏がこちらを振り返ってきて思わずどきりとする。とがめられることもないのに、じろじろ見ているのが何故か気が引けるような。
「こっち来たらどうですか?」
「えっ? なんで?」
「なんでって……。話してるのに遠くに座ってる方が変じゃないですか?」
確かに……と呟いて、集は言われるままにカウンターから腰を上げた。それから少し迷って、閏の座っている席の二つ隣に腰かける。机に肘をついて、改めて向き合って間近で彼を見てみると、本当に美しかった。集のことも同様に照らしているなんてことのない蛍光灯でさえ、舞台セットの照明のように感じられるようだった。
「きみ、肌綺麗だな……」
「あはは! ええー⁉︎」
思わず出た集の言葉に、閏は眉を下げ、心底可笑しそうに声を出して笑った。それから、丁寧に「ありがとうございます」とお礼も忘れず口にする。思いがけず口に出てしまった言葉だったが、気持ちに嘘はなく、また間違いもなく、閏の頬もおでこも肌荒れ一つ見つからないつるりと綺麗な白だった。
「集先輩もそんなこと言うほど肌荒れしてないじゃないですか」
「いや、比べるものじゃないよ、俺ときみの肌は」
「そうかなぁ?」
閏も集の仕草の真似をするように、机に肘をついて集の顔を見つめた。こげ茶の瞳にじぃっと映されると、なんだか所在ないような気分になってそわそわしてくる。わぁー! と叫びだしたくなるような。この目に寝ているところとかを見られてたんだと思うと、恥ずかしさが蘇ってきた。ぷいと顔を背けると、「えっ、なんでそっぽ向くんですか?」と非難するような声音で問われる。間近で対峙すると、じわじわと、芸能人と二人きりなのだということを実感させられてられてきた。
「集先輩……もしかして照れ始めてますか?」
閏が尋ねる。図星を突かれてつい押し黙ると、閏はおかし気にあはっと短く笑った。
「俺の仕事への情熱にハッとしました?」
「いや……」
「えー。じゃ、俺がテレビに出てる人だから?」
いや……とまた小さく答えながら、ちらりと閏に視線を向ける。閏はじっとこちらを見つめたまま軽くうなずいて集の返答を待っていた。
「……めっちゃ綺麗な子だなと思って……」
静かな図書室に、かすれ気味の集の声が響く。閏は一瞬大きな目を見開いてから、弾かれたようにアハハ! と笑い声をあげた。よく通る声のおかげで、それなりに広い図書室の中にもその笑い声がよく響く。改めて口に出すとさらに気恥ずかしくて、集はじんわりと頬に熱が溜まるのを感じた。
「ははは……、そっか、そっかー」
「なんだよぉ。近う寄れって言われて緊張し始めたんだよ」
「ははは! そんなこと言ってないし……! 集先輩面白い。素直なひとですね」
閏は眦に涙すら浮かべてそう言った。「先輩、面白い」と、もう一度、どこか自分で確かめるように呟く。
不意にチャイムが鳴り響く。その音にはっと二人で顔を上げ、壁掛けの時計に目を向けた。いつの間にか下校の時刻になっていた。
「あーあ」
閏が残念そうに伸びをする。
「もう帰る時間ですねぇ」
「はぁー……。そうだな」
残念なような、ほっとしたような心地でついため息を吐くと、閏は拗ねたように眉を寄せて「あ、ため息」とやや責めるような声音で言った。
「ごめん、緊張で」
「ふふふ。良いですよ」
閏はころっと表情を変えて、やはり機嫌よさそうに、本を鞄に仕舞いながら笑った。それからなにか、ぼそりと呟く。その声がよく聞き取れず、え? と集が思わず聞くと、閏はリュックを背負いながら「今日はラッキー、って言ったんです」と繰り返した。
「ラッキー?」
貸出カウンターに戻り、自身の荷物をまとめながら聞き返す。
「はい。先輩の名前を聞けたし」
「えー……? 俺の?」
「先輩が、俺のこと綺麗って言ってくれたし」
閏はにっこり笑ってそう言った。
言葉の真意がつかめず、思わず動きを止めて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「特別に教えてあげますね。俺が先輩のことを最初に見つけたのは、一昨日のことじゃないんですよ」
「……えっと。寝てるときじゃないってこと?」
「ふふふ、そう。一昨日じゃなくて。起きてて、喋ってる時の先輩ですよ」
心臓の鼓動が、どきどきと早まってくるのを感じた。なんだか今、すごいことを言われているような気がする。目前の綺麗な後輩を、なにかを確かめるようにじっと見つめると、彼はすっと目を細めて微笑んだ。今日何度目かに見る表情だが、この目に見られていると、どこか試されているような、観察されているような気分になって、集は思わず視線を彷徨わせてしまう。本当ならそんなふうに見られると嫌なだけのはずなのに、彼相手だと少しでもよく見られたいと思ってしまうのは、いったいどう言う欲求なのだろう。
「先輩、電気消さなきゃ」
「あ、そだね……」
言われるままに鞄を肩にかけ、集は電気のスイッチへ向かった。ぱたぱたと小走りに閏がその隣へやってくる。パチ、パチン、と一つずつスイッチを消すたび、整然と並ぶ本棚たちに暗がりが落ちて行く。最後の一つをパチン、と消すと、図書室内は真っ暗になり、すぐ隣に立つ閏の顔もパッと見えなくなった。
「俺が集先輩を見つけたのは、夏だったんですよ」
閏が暗がりの中不意に言った。今は秋で、冬すら近づいていて、下校の時刻になればもう窓の外からは室内を照らす光も少なくなっている。夏といっても初夏から晩夏まで期間は長い。彼が自分を見つけたのは一体夏のいつの頃だったのだろうと集は考えた。
「その時から、仲良くなってみたいって思ってたんです。俺学校に友だちいないから、先輩の名前を知るだけでもこんなに時間がかかっちゃったんですけど……」
そう語るその声は、さっき映画と小説について話す声音に似ていた。心臓がまた、どきどきと喉元までせりあがってくるようだ。
「……なんで俺?」
一番気になっていたことを尋ねてみる。声が掠れまくっていて、暗がりに溶けてしまったんじゃないかと少し心配になったが、ちゃんと閏には届いたようだった。ううーん、と小さく唸る声が聞こえた後、返答が続く。
「その時先輩はお友だちと一緒にいて、俺の話を……」
「……きみの話を?」
不意にやめてしまった話の続きを促すと、閏は「ううん」ともう一度唸った。それから、小さく息を吐く。間近で聞いたその呼吸は少し震えているようにも聞こえた気がした。
「……やっぱまだ内緒にしときます」
「なにそれーっ⁉︎」
「なんか、そんなことかよと思われそうだから。この話はまた今度!」
それだけ言うと、閏は一歩遠ざかってがらがらと扉を開け、廊下に出てしまった。慌ててその後を追う。彼は廊下を少し行ったところで集を待っていた。図書室内よりも少し明るい廊下の真ん中で、すらりと均衡の取れたシルエットが浮かんでいる。彼の髪は少しウェーブがかかっていて、どうやら癖っ毛のようだった。今頃そのことに気づいて、自分が初めから彼のその綺麗な顔ばかりに視線が取られていたのだと実感して内心一人でなんだか気恥ずかしい。気取られないように表情を整えながら、図書室の鍵をかけ、彼の隣に歩み寄る。しばし黙ったまま、並んで歩く。
階段で立ち止まる。閏はこのまま玄関の方へ、集は職員室のある二階へと向かう。じゃあ……と言いかけると、閏はぱっと集の顔を覗き込んだ。不意に近づいた綺麗な顔に、また心臓が高く鳴る。
「二週間が期限ですけど」
「え?」
「貸出」
「あ、本ね。うん」
「今週中に返しにきますね。図書室が静かなうちに」
言うと、彼は最後にニコリ、と微笑んで、それじゃあさようなら、と玄関へ向かっていった。集はああ、ともおお、ともつかない変な声を出してその背中を少しの間見送って、それから階段を上がった。
職員室で鍵を返したのち(サボらずに当番をしただけでも教師に褒められるのだ)、集は最寄り駅まで一人歩いてやってきた。お腹が減っていたので夕飯までの間食として駅構内のコンビニで惣菜パンをひとつ買い、それをもぐもぐやりながら、スマホを取り出す。
グーグルを開く。検索窓をタップしてから、しばらく親指が止まる。
目を瞑り、パンを齧り、もぐもぐ噛んで、飲み込んで、「ううー」と唸る。頬がじんわり熱くなる。
瞼を開けて、周りをきょろりと確認したが、それは特に意味のない確認だった。それから観念したように、検索窓に浅黄閏と打ち込んだ。ああ、ミーハーかな。ミーハーだな。これが恥ずかしいっていうのは、どう言う自意識に分類されるのだろうか。
彼の来歴はウィキペディアを見ればすぐにわかった。けれどそこはさーっと流し見をして、すぐ彼の出演作のリストを開いて見た。映画のリストの新しいものから、コピーアンドペーストで、またグーグルで検索をかける。配信サイトで配信されているものを見つけ出して、迷わずマイリストに入れた。家に帰ったら見るためだ。それは見たことのないタイトルで、二年前の作品だった。彼は小学三年生の時に初めてドラマに出演してから、定期的に映像作品に出ているようだった。一年に一・二本、多い年で五本ほど作品に出ていた。それが多いのか少ないのかは集には分からなかった。スマホをポケットにしまい、パンの最後のかけらを口に放り込む。電車がホームに滑り込んできた。ライトが眩しく、目を細める。空になったパンの袋をポケットに押し込みながら電車に乗り込んだ。
帰宅時間ではあるが、上り線であるためそこまで混んではいない。集はドアに寄りかかり、窓の外の明かりの線をぼんやり眺めながら考える。文庫本一冊を読むのって、普通どのくらい時間がかかるものなんだろう。
はっと気づいて、頭を掻きむしりたくなる。ああっ、ミーハーめ!
殺しきれないうめき声を唇の端から漏らすと、近くに立っていた会社員風の女性が少し驚いたように集を見て、けれどまたすぐスマホに視線を戻したのだった。心臓がどきどきとするのは自分ではもうどうにも出来ない。もう水曜日だ。図書委員の当番は、もう二日しか残っていない。
集は幾度目かの生あくびをしながら、椅子の背もたれに体重を預けた。あー、やっぱり引き受けなきゃよかった、と当番三日目にして何度思ったことだろう。本を読む習慣のない集にとって、図書委員の仕事は退屈以外の何物でもなかった。
「一週間学食のうどん(二九〇円)を毎日おごるから」といわれ友人の川島から一週間図書委員の代わりを引き受けた。昼飯に毎日うどんが無料で付くようになるのは魅力だったが、代わって欲しい理由と言うのも「もうすぐ彼女の誕生日だからバイトを根詰めたい」と言うもので、今になってよくよく思うとちょっと腹が立ってくる。やっぱり断ってやればよかった、と思う反面、断ったとしてもやっぱり放課後にやることが無いのは変わりないのだから、結局同じことだったのかもしれなかった。
偏差値低めの私立のこの高校で、放課後に図書室に来る生徒なんてほとんどいない。にしても今日は、放課後に集が図書室にやってきてからたったの一人も図書室に来ていないのだった。集はスマホゲームをするのにも飽きはじめてきた。開け放った窓から秋口の心地よい風が入り、集は一つ深呼吸する。運動部の掛け声と、吹奏楽部の音出しが聞こえてきていた。
どこか遠い世界のもののようにそれら聞きながら、机に突っ伏しているとすぐに眠気がやってきて、集は抵抗する気もなく瞼を閉じた。
「……せん。すみません」
とん、と肩を優しい強さで叩かれる。起こすのではなくまるで寝かしつけるようなその手つきに、夢うつつで集は目を開いた。
「ん……?」
「すみません。貸出お願いします」
その声を聞き、はっと顔を上げる。うとうとするつもりが、いつの間にか本格的に眠ってしまっていたようだった。先ほどまで青かった外は赤く変わっていて、図書室の中も暖色に染まっていた。四十分ほど眠っていたようだった。
「うわ、すんません、えっと……」
「いえ。一年Aクラスの浅黄です」
「はいはい、一のA……」
一年Aクラスの束の中から、浅黄の図書カードは果たしてすぐに見つかった。一番手前に入っていたのだ。そして、『浅黄閏』という名前には見覚えがあった。ちらと視線を上げて彼を見てみるとその顔にも見覚えがあった。
へえ、本名なんだ。心の中で呟く。
「……浅黄、うるうって言います」
「え? ……あ。ははっ、知ってるよ」
「あ、そっか。すいません」
下の名前が読めずにしかめ面をしていると思われてたのだろうか。思わず笑うと、彼も柔らかくはにかんだ。それを見ると、なるほど、確かにきれいな顔だ。
浅黄閏は一つ下の学年の一年の生徒だ。劇団だか事務所だかに所属していて、少し前の木曜のドラマに出演してからちょっと話題になっている俳優らしい。集はテレビをほとんど見ないので、クラスメイトの噂で聞く程度しか彼の情報を知らなかった。校内でも遠巻きに見かけることはあっても、こんなに間近で話したのは初めてのことだった。けれど彼は狭い校内で彼はいつだって噂の的で、それでは疲れてしまいそうだと思ったことがあり、実際、あれこれうわさする友人をとがめたことも何度かある。貸出カードに今日の日付のハンコを押し、貸し出す文庫本を彼に差し出す。
「どうぞ。貸し出し期限は二週間です」
「はい、ありがとうございます」
彼はぺこ、と小さく会釈をしてから、カウンターを離れて窓に近い席に腰かけ、貸りたばかりの本を開き始めた。その様子を、少し物珍しく見つめてしまう。なにせ本の貸し出しも、図書室で読書をしている人もどちらもかなり珍しいのだ。
閏は姿勢正しく、文庫本を読んでいた。一定のペースでページを送る。その横顔はとても賢そうに見えたが、「賢そうに見えた」と言う感想自体があまり賢くない感想かもしれない。読んでいる本は古いもののようで、作者名をどこかで見たことがある気がする。こんな風に観察しては良くないか、と集が思い至るのと、閏がこちらを振り向くのはほとんど同時であった。
「なんですか?」
「あ、ごめん。ここに人がいるのが珍しくて」
「ああ……」
言うと、閏は一度本に視線を戻してから、もう一度集に視線を戻した。
「あの、図書委員の人って、貴方になったんですか?」
少し離れた場所からでも良く通る声だった。さすがと言うべきか、と思いつつ「いや、今週だけ代打」と答えると、彼は見るからに残念そうに肩を落とした。
「そうですか……」
それからまた本に視線を落とし、読書を再開させた。邪魔だろうなとは思いつつ「なんで?」と尋ねてみる。彼は本から顔を上げ「なんでって……?」と首を傾げた。
「いや、なんか残念そうにしてたから」
「あ、いや、うーん……」
閏は問いかけにやや気まずそうに笑い、視線をうろうろとさせた。それから「いつもの方たちは、お友達が……」と呟くように言った。
「うん?」
「お友達と一緒で……」
「……あ、うるさいってこと?」
集の言葉に、閏はちらっとこちらを見て苦笑いを見せた。
「いや、お友達が多いらしくてってことです」
「それだと俺が友達少ないってことになるよ」
「あ……」
閏が慌てたようにぱっと口元を抑える。思わず「あはは」と集が笑うと、閏も目を細めて「ふふふ」と笑った。その様子がお上品で、普段の交友関係の外の気配がしてなんだかそわっとする。
「よく来るの? 図書室」
「いえ、普段は騒がしいので」
もう隠さないことにしたのか、彼は微笑んでそう言った。その物言いに思わずくすくすと笑ってしまう。柔らかな見た目と裏腹に、歯に衣着せぬ物言いだ。
「でも利用したいとは思っていたんです、撮影までの時間をつぶすのにちょうどいいし。そう思ってたら、一昨日仕事前に覗いた時静かだったので」
「友達が少ない奴に変わってた?」
「いえ。騒がしい人から、寝ている人に変わっていて。そのほうが良いな、とも、思っていたんです」
いたずらっぽく微笑み閏はそう言った。確かに集は一昨日も昨日も委員の当番中に居眠りをしている瞬間はあった。まさか誰かにそんな風に観察されていたとは思わなかったけれど。言われている一昨日も、何人か返却に来ただけでほとんど今日と同じように暇だったので、気を緩めまくっていた。改めて言われると普段感じない恥ずかしさを感じるような気がした。
「でも先輩は、一人でいいんですか?」
集の内心を知らぬまま閏が首を傾げ尋ねる。
「だって図書室は静かにするものだろ。禁止されてる場所でわざわざ誰かを呼んで騒ぐのも」
「……へーぇ」
集の返答に、閏は目を細め、何か言いたげに唇の端を上げた。にやにやっ、と言った様相だったが、なんだよ、と集が聞く前に、ふいっと顔を背け「でも今週限定なんですね」とつまらなそうな表情に変わってしまった。
「うん、でも来週からはまた別のクラスのやつらに変わるから、もしかしたらそいつらは騒がしくないかも」
当番は通常一クラス二週間で交代になっている。ちなみに言うと、本当は川島以外に同じクラスにもう一人委員がいるはずなのだが、そいつは一度も当番に顔を出したことがないらしい。
「うーん。今まで静かだったことが稀だったからなあ」
「言うなぁ」
「事実ですからね。でも今週は少なくとも静かってことですよね。嬉しいなあ」
閏はそう言うとにっこりと微笑んだ。意外と、表情がころころと変わるやつである。遠くから見ていた時はなんというか、平熱が低そうに、平坦そうに見えていたけれど、実際話してみるのとではやはり印象が違う。
夕暮れの日も陰り、室内の陰影が濃くなってきていて、そういえば電気をつけなければならない。そう思ってから、実際に動き出すまで、閏を見ていると何となく時間がかってしまった。綺麗なものから目を離しがたいというのを実感する。
「そうだね。今週いっぱいは代わってるから」
ようやく立ち上がって電気をつけに行く。ぱ、ぱ、と時間差をつけながら電気が点灯されていき、蛍光灯の明かりが眩しくて一瞬目を細めた。
「先輩、名前なんて言うんですか?」
「俺? 種島集」
「集先輩」
「下の名前呼びなんだ」
「はい、親しみを込めてみました」
「それはどうも……?」
閏はなんだか機嫌がよさそうに見えた。もっとも、不機嫌な時もご機嫌な時も知らないため比較対象があるわけではないけれど。開いていた文庫本はいつの間にか閉じられている。先ほど時間をつぶすと言っていたし、彼も空き時間で暇なのかもしれない。暇な時間、本を読んでいても誰かとしゃべっていても変わらないのだろう。暇なのは集も同じだ。
「読書が趣味?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……。これは、今度出る映画の原作者の小説なんです。……あ、えっと、僕、役者をしていて」
「なんだよ、知ってるよそれは。その小説の映画に出るってこと?」
「いえ、この作者の、別の作品の映画に出るんです。チョイ役なんですけどね」
閏は少し照れ臭そうにしながら言った。小説の表紙をてのひらで一度撫でる。
「へー、作者の他の作品も読まなくちゃなんだ」
「読まなくちゃってわけじゃないですよ。これは話自体は全然関係ないです」
「えっ⁉︎ 関係ないの?」
「はい。俺が勝手に読んでるだけです。でも同じ作者なので、まったく無関係とも言い難いじゃないですか。特に、これはその原作小説と同年代に書かれたものなので」
あ、分からないかもですけど、タイトルは内緒ですよ。と、言いながら小説の表紙に落とした視線が柔らかく愛おし気で、その表情につい心臓がどきっとした。まるで自分に向けられたような気分になってしまう。なんだかこれはいけない気がする。ばれないように息を吸って、吐く。
「と言っても、僕がやるのは本当にちょこっとしか出ない役なんですけど……。じつは元からこの作者の小説を何作か読んだことがあって、ちょっと気合入れちゃってるんです。できることはしたいなぁって」
話している内容にピンときているわけでもないし、上手い相槌が打てるわけでもないのに、なんだか大切そうに話をしてくれる横顔が、やけにきれいに見えてしまう。話半分に肘をついてぼんやり横顔を眺めていると、ぱっと閏がこちらを振り返ってきて思わずどきりとする。とがめられることもないのに、じろじろ見ているのが何故か気が引けるような。
「こっち来たらどうですか?」
「えっ? なんで?」
「なんでって……。話してるのに遠くに座ってる方が変じゃないですか?」
確かに……と呟いて、集は言われるままにカウンターから腰を上げた。それから少し迷って、閏の座っている席の二つ隣に腰かける。机に肘をついて、改めて向き合って間近で彼を見てみると、本当に美しかった。集のことも同様に照らしているなんてことのない蛍光灯でさえ、舞台セットの照明のように感じられるようだった。
「きみ、肌綺麗だな……」
「あはは! ええー⁉︎」
思わず出た集の言葉に、閏は眉を下げ、心底可笑しそうに声を出して笑った。それから、丁寧に「ありがとうございます」とお礼も忘れず口にする。思いがけず口に出てしまった言葉だったが、気持ちに嘘はなく、また間違いもなく、閏の頬もおでこも肌荒れ一つ見つからないつるりと綺麗な白だった。
「集先輩もそんなこと言うほど肌荒れしてないじゃないですか」
「いや、比べるものじゃないよ、俺ときみの肌は」
「そうかなぁ?」
閏も集の仕草の真似をするように、机に肘をついて集の顔を見つめた。こげ茶の瞳にじぃっと映されると、なんだか所在ないような気分になってそわそわしてくる。わぁー! と叫びだしたくなるような。この目に寝ているところとかを見られてたんだと思うと、恥ずかしさが蘇ってきた。ぷいと顔を背けると、「えっ、なんでそっぽ向くんですか?」と非難するような声音で問われる。間近で対峙すると、じわじわと、芸能人と二人きりなのだということを実感させられてられてきた。
「集先輩……もしかして照れ始めてますか?」
閏が尋ねる。図星を突かれてつい押し黙ると、閏はおかし気にあはっと短く笑った。
「俺の仕事への情熱にハッとしました?」
「いや……」
「えー。じゃ、俺がテレビに出てる人だから?」
いや……とまた小さく答えながら、ちらりと閏に視線を向ける。閏はじっとこちらを見つめたまま軽くうなずいて集の返答を待っていた。
「……めっちゃ綺麗な子だなと思って……」
静かな図書室に、かすれ気味の集の声が響く。閏は一瞬大きな目を見開いてから、弾かれたようにアハハ! と笑い声をあげた。よく通る声のおかげで、それなりに広い図書室の中にもその笑い声がよく響く。改めて口に出すとさらに気恥ずかしくて、集はじんわりと頬に熱が溜まるのを感じた。
「ははは……、そっか、そっかー」
「なんだよぉ。近う寄れって言われて緊張し始めたんだよ」
「ははは! そんなこと言ってないし……! 集先輩面白い。素直なひとですね」
閏は眦に涙すら浮かべてそう言った。「先輩、面白い」と、もう一度、どこか自分で確かめるように呟く。
不意にチャイムが鳴り響く。その音にはっと二人で顔を上げ、壁掛けの時計に目を向けた。いつの間にか下校の時刻になっていた。
「あーあ」
閏が残念そうに伸びをする。
「もう帰る時間ですねぇ」
「はぁー……。そうだな」
残念なような、ほっとしたような心地でついため息を吐くと、閏は拗ねたように眉を寄せて「あ、ため息」とやや責めるような声音で言った。
「ごめん、緊張で」
「ふふふ。良いですよ」
閏はころっと表情を変えて、やはり機嫌よさそうに、本を鞄に仕舞いながら笑った。それからなにか、ぼそりと呟く。その声がよく聞き取れず、え? と集が思わず聞くと、閏はリュックを背負いながら「今日はラッキー、って言ったんです」と繰り返した。
「ラッキー?」
貸出カウンターに戻り、自身の荷物をまとめながら聞き返す。
「はい。先輩の名前を聞けたし」
「えー……? 俺の?」
「先輩が、俺のこと綺麗って言ってくれたし」
閏はにっこり笑ってそう言った。
言葉の真意がつかめず、思わず動きを止めて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「特別に教えてあげますね。俺が先輩のことを最初に見つけたのは、一昨日のことじゃないんですよ」
「……えっと。寝てるときじゃないってこと?」
「ふふふ、そう。一昨日じゃなくて。起きてて、喋ってる時の先輩ですよ」
心臓の鼓動が、どきどきと早まってくるのを感じた。なんだか今、すごいことを言われているような気がする。目前の綺麗な後輩を、なにかを確かめるようにじっと見つめると、彼はすっと目を細めて微笑んだ。今日何度目かに見る表情だが、この目に見られていると、どこか試されているような、観察されているような気分になって、集は思わず視線を彷徨わせてしまう。本当ならそんなふうに見られると嫌なだけのはずなのに、彼相手だと少しでもよく見られたいと思ってしまうのは、いったいどう言う欲求なのだろう。
「先輩、電気消さなきゃ」
「あ、そだね……」
言われるままに鞄を肩にかけ、集は電気のスイッチへ向かった。ぱたぱたと小走りに閏がその隣へやってくる。パチ、パチン、と一つずつスイッチを消すたび、整然と並ぶ本棚たちに暗がりが落ちて行く。最後の一つをパチン、と消すと、図書室内は真っ暗になり、すぐ隣に立つ閏の顔もパッと見えなくなった。
「俺が集先輩を見つけたのは、夏だったんですよ」
閏が暗がりの中不意に言った。今は秋で、冬すら近づいていて、下校の時刻になればもう窓の外からは室内を照らす光も少なくなっている。夏といっても初夏から晩夏まで期間は長い。彼が自分を見つけたのは一体夏のいつの頃だったのだろうと集は考えた。
「その時から、仲良くなってみたいって思ってたんです。俺学校に友だちいないから、先輩の名前を知るだけでもこんなに時間がかかっちゃったんですけど……」
そう語るその声は、さっき映画と小説について話す声音に似ていた。心臓がまた、どきどきと喉元までせりあがってくるようだ。
「……なんで俺?」
一番気になっていたことを尋ねてみる。声が掠れまくっていて、暗がりに溶けてしまったんじゃないかと少し心配になったが、ちゃんと閏には届いたようだった。ううーん、と小さく唸る声が聞こえた後、返答が続く。
「その時先輩はお友だちと一緒にいて、俺の話を……」
「……きみの話を?」
不意にやめてしまった話の続きを促すと、閏は「ううん」ともう一度唸った。それから、小さく息を吐く。間近で聞いたその呼吸は少し震えているようにも聞こえた気がした。
「……やっぱまだ内緒にしときます」
「なにそれーっ⁉︎」
「なんか、そんなことかよと思われそうだから。この話はまた今度!」
それだけ言うと、閏は一歩遠ざかってがらがらと扉を開け、廊下に出てしまった。慌ててその後を追う。彼は廊下を少し行ったところで集を待っていた。図書室内よりも少し明るい廊下の真ん中で、すらりと均衡の取れたシルエットが浮かんでいる。彼の髪は少しウェーブがかかっていて、どうやら癖っ毛のようだった。今頃そのことに気づいて、自分が初めから彼のその綺麗な顔ばかりに視線が取られていたのだと実感して内心一人でなんだか気恥ずかしい。気取られないように表情を整えながら、図書室の鍵をかけ、彼の隣に歩み寄る。しばし黙ったまま、並んで歩く。
階段で立ち止まる。閏はこのまま玄関の方へ、集は職員室のある二階へと向かう。じゃあ……と言いかけると、閏はぱっと集の顔を覗き込んだ。不意に近づいた綺麗な顔に、また心臓が高く鳴る。
「二週間が期限ですけど」
「え?」
「貸出」
「あ、本ね。うん」
「今週中に返しにきますね。図書室が静かなうちに」
言うと、彼は最後にニコリ、と微笑んで、それじゃあさようなら、と玄関へ向かっていった。集はああ、ともおお、ともつかない変な声を出してその背中を少しの間見送って、それから階段を上がった。
職員室で鍵を返したのち(サボらずに当番をしただけでも教師に褒められるのだ)、集は最寄り駅まで一人歩いてやってきた。お腹が減っていたので夕飯までの間食として駅構内のコンビニで惣菜パンをひとつ買い、それをもぐもぐやりながら、スマホを取り出す。
グーグルを開く。検索窓をタップしてから、しばらく親指が止まる。
目を瞑り、パンを齧り、もぐもぐ噛んで、飲み込んで、「ううー」と唸る。頬がじんわり熱くなる。
瞼を開けて、周りをきょろりと確認したが、それは特に意味のない確認だった。それから観念したように、検索窓に浅黄閏と打ち込んだ。ああ、ミーハーかな。ミーハーだな。これが恥ずかしいっていうのは、どう言う自意識に分類されるのだろうか。
彼の来歴はウィキペディアを見ればすぐにわかった。けれどそこはさーっと流し見をして、すぐ彼の出演作のリストを開いて見た。映画のリストの新しいものから、コピーアンドペーストで、またグーグルで検索をかける。配信サイトで配信されているものを見つけ出して、迷わずマイリストに入れた。家に帰ったら見るためだ。それは見たことのないタイトルで、二年前の作品だった。彼は小学三年生の時に初めてドラマに出演してから、定期的に映像作品に出ているようだった。一年に一・二本、多い年で五本ほど作品に出ていた。それが多いのか少ないのかは集には分からなかった。スマホをポケットにしまい、パンの最後のかけらを口に放り込む。電車がホームに滑り込んできた。ライトが眩しく、目を細める。空になったパンの袋をポケットに押し込みながら電車に乗り込んだ。
帰宅時間ではあるが、上り線であるためそこまで混んではいない。集はドアに寄りかかり、窓の外の明かりの線をぼんやり眺めながら考える。文庫本一冊を読むのって、普通どのくらい時間がかかるものなんだろう。
はっと気づいて、頭を掻きむしりたくなる。ああっ、ミーハーめ!
殺しきれないうめき声を唇の端から漏らすと、近くに立っていた会社員風の女性が少し驚いたように集を見て、けれどまたすぐスマホに視線を戻したのだった。心臓がどきどきとするのは自分ではもうどうにも出来ない。もう水曜日だ。図書委員の当番は、もう二日しか残っていない。
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