5 / 20
沢村静佳
過去から現在 2
しおりを挟む
意識のない間、母と弟が見舞いに来ていた。
母はこの状況を見ても、離婚には反対した。
体裁が悪いからと。
夫婦の喧嘩くらい、どこにでもあるし、自分もそれに耐えたのだと。
自分は結局、離婚したくせにとは言えなかった。
それでも、警察が介入してくると、さすがに状況が悪いと思ったのか、離婚に同意し、社会人になっていた弟と住むことにした。
それは弟からの提案でもあったし、私も弟となら気が楽だと思ったからだ。
弟はまだ結婚しておらず、私と同じく、外資系の会社に勤め、役職をもらうほどには出世しているが、結婚すれば嫁に来た人が可哀想だと、未だに独身でいる。
まだ若いので、そう急ぐ必要もないだろうが。
弟は就職も急がなくて良いし、居たいだけ居て良いと言ってくれた。
弟だけはいつも私の味方だった。
そしてそれが何よりも私の支えだった。だからといって、弟にいつまでも甘えるわけには行かない。
夫からそれなりの慰謝料はもらっていたし、当面の生活は何とかなりそうという事もあり、私は怪我が完治したら、ここを出ようと決めていた。
仕事や家を探しながら、弟の家の家事を申し訳程度に手伝う日々を送っていたある日、母から連絡が来た。
朝、玄関で転げて頭を打ったという内容だった。取りあえず、病院に行く様に言っておいたが、2日後、母からまた連絡があり、調子が悪く、気分が悪いという。
仕方なく、準備してそちらに行くので、病院へ行こうと言って電話を切り、支度して実家へと向かった。
電話がかかってから2時間ほどは経過していたと思う。
私が実家に帰ったとき、母はベッドに仰向けに寝ていた。いくら呼んでも返事をしないことに異変を感じ、側によって確認した。
息をしていなかった。
慌てて救急車を呼び、弟に連絡を取った。
なれない人工呼吸をしても、一向に息を吹き返す様子はなく、パニックになりながら、救急隊員の到着を待つ。その時間は何時間にも感じられた。
救急車で病院に運ばれてから、1時間後には死亡宣告がなされた。くも膜下出血だった。
その後は、警察の現場検証や、葬儀の準備に追われ、母が亡くなった実感のないまま、数日を過ごした。
しかし、時が経つほどに、後悔が胸を締め付ける。
早く行っていれば、頭を打ったときに、病院に連れて行っていれば、私が一緒に住んでいれば・・・・
そんな思いと、もう一つの思いが心の中に澱の様に溜っていく。
それから2年、私は立ち直れず、弟の世話になりながら、派遣社員として働いた。やる気も起きなかったが、何かしていないと気が狂いそうだった。
何度も自殺を図り、失敗しては後悔する。
病院では、鬱病と診断され、派遣にも行けなくなり、無職の状態で何ヶ月も過ごした。入院と退院を繰り返しながら。
それを支えてくれたのは弟だった。
仕事をしながら、私の薬や食事の管理まで。
どれだけ負担だっただろう。
それを思えば申し訳なく、死にたくなる。
弟は密かにモニターを付け、仕事をしている間にも、私が自殺したりしないか、様子を見てくれていたのである。
そんな弟に助けられて、ゆっくりではあるが、快方へ向かっていった。
そんなある日、彼に再会した。
本当に結婚したかった彼だ。
気分の良い日に散歩する道に、今まで気にはなっていたが、入ったことのない本屋があった。今風のカフェにも似た小さな本屋。
場違いな気がすると思い、足が向かなかったが、その日は思い切って入ってみることにした。
本の数は多くはないが、落ち着いた雰囲気の本屋で、店主が厳選した本が置かれており、表からでは見えなかったが、奥にはドリンクスペースがある。
綺麗に並べられた本をおもむろに見ていた。
そこへ声をかけてきたのが、彼だった。
何も変わらない優しい顔で・・・・
「久しぶりだね。」
と。恨まれても仕方のない別れ方をした彼が、何も変わらずに声をかけてくれたのだ。
驚くと同時に、戸惑った。返事が出来ず、固まってしまった。
「迷惑だったかな?」
「えっ・・・いや、そういう訳では・・・」
「変わらないね、その口調。」
微笑むその姿は、何も変わっていない。少し歳は取ったが、あの当時のままの瞳。
「なんでここに・・・」
私は別れてからの彼の事は全く知らない。
少しでも知れば、決心が揺らぐ気がして、様子を見に行ったことすらなかった。
そんな彼が、何故か今、私の前にいる。
「優君に。君のことは優君から聞いていたんだ。ずっと。」
優から・・・つまり、弟から私の話を聞いていたという事だろう。
「ずっとって・・・・」
「取りあえず、ここを出ないか?座って話そう。」
彼は私の手をためらわずに握って、近くのカフェまで連れて行った。
久しぶりの彼の手は温かく、その温もりだけで、涙が出そうになる。
自分がいかに彼を愛していたのか、確信させられる。
何年も経っているのに、私から手を離してしまったのに。
手を握ったまま、飛び込んできた私達に、カフェの店員も一瞬、戸惑った表情をしたが、すぐに笑顔で席まで案内された。
お互い向かい合った形で座り、私は今更、恥ずかしくなって、コーヒーを注文した後、うつむいていた。
「ごめん。僕がふがいないばかりに。」
突然、彼が私に謝る。私は頭を上げて、彼の顔を見る。
「なぜ、謝るのですか?私が謝るべきでは?」
逃げたのは私だ。彼を突然突き放し、消息を絶ったのだから。
それなのに、何故謝られているのか、分からなかった。
「優君に全部、聞いているんだ。優君を責めないで。僕が無理を言って、聞き出した事だから。」
そこまで話したところで、コーヒーが運ばれてきたので、二人とも押し黙った。
全部聞いているとは、どういうことなのだろう。
「君が突然、いなくなって、優君なら何か知ってると思って、連絡したんだ。最初は知らないって言われてたんだけど、何度も話しているうちに、教えてくれたんだ。君がなぜ、僕の元を去ったか。なんとなく予想は付いていたけど、辛かった。」
コーヒーに口を付け、一呼吸置いて、また話始める。
「君が、お見合いで結婚したことも、その後のことも、優君から聞いて知ってる。君の知らないところで、僕達は連絡を取り合っていたんだ。だけど、君に会う勇気がなくて、会ってもまた辛い思いをさせるんじゃないかって、いやこれは言い訳だな。本当は怒っていたんだ。僕を捨てた君を。」
静かな声だが、その目は真剣で、口数の少なかった彼が、一生懸命話していることは伝わってくる。
「一緒に乗り越えようと思っていたのに、君は何の相談もせずに、僕の前から消えて、見合いして結婚して。そんな話を聞く度に、自分が嫌になったよ。腹もたった。君にも、君のお母さんにも。でも、優君から君が死ぬかもしれないと言われたとき、僕は、どんなに君に会いたかったのか悟ったよ。」
少し顔が赤いのは、自分が言った言葉が、恥ずかしかったのだろう。
「一度だけ、君の病院に行ったんだ。どうしても我慢できなくて。ベッドに横たわる君の痛々しさと、また会えなくなるかもしれない気持ちで、怖かった。でも、君が回復して、優君の家に落ち着いたって聞いて、会いに行こうと思っていたら、君のお母さんが亡くなって、君が精神的に弱ってるからって優君に止められたんだ。だから、今日出会ったのは、偶然ではなく、優君に聞いていたからなんだ。この辺りを散歩してるって。」
そういうことかと納得した。別に弟に腹は立たなかった。
弟は浅はかな人間でも、私を裏切る人間でもない。
弟はきっと、よかれと思ってやったことだろう。
しかし、だからどうしたというのだろう。
私のこれまでを知って、なぜ会いに来たのだろうか。
恨み言でも言いに来たのかと思ったが、様子が違う。
「何故、会いに来たのですか?私はあなたに恨まれても仕方ないと分かっています。でも、話を聞いている限り、文句を言いに来たというわけではないようですが・・・私に何か他に言いたいことでもあるのでしょうか?」
「君に会いに来たのは・・・」
歯切れが悪い。罵倒して、罵ってもらった方が分かりやすい。言葉を濁されると、困ってしまう。
「僕が君に会いに来たのは、もう一度、始められないかと思って・・・」
・・・・・?????
始めるとは?何を?
「ははっ混乱するよね、さすがに。急すぎるか。というか怖いかな。自分でもこんな男、怖いと思うよ。」
今までの話の内容からすると、やり直そうと言っている事は理解出来ている。
ただ、なぜそんなことを私に言えるのか、分からない。
私には彼に愛される資格なんてないし、彼とはとっくに終わっている。
気持ちはどうあれ、彼の気持ちが分からない事に混乱していた。
「君と別れて、他の人とも付き合った。でも、いつも君が頭をちらついて、忘れられなかった。優君に連絡することも、何度も辞めようと思った。君が結婚したと知ってから。でもそれも出来なかった。ちゃんと別れなかったからかな。さよならも言わずに、消えてしまったから、僕の中から、君が消えてくれなかった。」
私がけじめを付けずに別れたせいで、彼は私から解放されなかったのか。
私が離れれば、彼を解放できると思っていたのに、それが、彼を苦しめていた?
とにかく、あの時のことは、ちゃんと謝らなくては。
「ごめんなさい。私の行動であなたを過去につなぎ止めているのだとしたら、謝ります。本当に申し訳ありませんでした。」
「いや、謝って欲しいわけじゃないよ。僕は、もう一度君と恋愛を始めてみたいんだ。友達からでも良い。君を縛るつもりはない。僕も、君のことをまだ本当に愛しているのか、執着なのか分からない。それでも、君ともう一度、始めたかった。出会いから。」
「それの意味が分からないのです。どうして私なんかとまた付き合いたいのですか?また捨てられるかもとか、自殺するかもとか考えないのですか?それとも、私に復讐がしたいのですか?」
それなら納得も行く。
私に復讐するなら、今度は彼が私を捨てれば良い。
「違うよ。復讐したいなら、君が結婚すると知った時にやってる。君にまだ少しでも僕の入れる隙があるなら、考えてみてくれないかな。」
私はすっかり冷め切ったコーヒーを口にした。
もしこれが復讐なのだとしても、それは私のせいだ。勿論、傷つくのは怖い。
だが、彼に会ったときの自分の気持ちは、自分がよく分かっている。
きっと私は彼がまだ好きなのだ。
けれど、ここで返事をするのは、はばかられた。
「少し、考えさせて頂いても良いでしょうか。」
「勿論。時間はかかってもかまわない。無理を言っているのは僕だから。もし、無理ならそれでもいい。だから、今度は逃げずに、話して欲しい。」
コーヒーを飲み干すと、二人で席をたった。
外はすっかり、暗くなっている。
少し離れがたい気持ちを抑えながら、彼と別れる。
彼の後ろ姿を見ながら、私はこれからどうしたら良いのかを考え始めていた。
それから3日、弟からも話を聞いた。実際、二人は頻繁に連絡を取り合っていたらしく、彼がどれほど、私を心配していたかを聞いた。私が入院した理由を聞いたときは、今にも夫を殴りに行きそうな勢いで憤っていたという。そんな話を聞けて、少し嬉しかった。弟は、決して復讐なんかじゃないと思うよ、姉さんのことを本当に大切に思ってるように感じるから、もう一度信じてみたら、お母さんはもういないんだからと、私の背中を押してくれた。
それでも、自分が彼に対してしてしまったことや、今の精神状態を考えると、また彼を傷つけるのではないかと不安にもなる。
迷った。
どうするべきか、答えが出ない。
数学の様に正しい答えがあれば、どんなに楽か。
人の意見だけ聞いて、それにしたがっている事に慣れすぎて、自分で答えを出す癖がない。
それでも、考えた。考えて考えて、出した答えは、始めてみようだった。
間違いでもいいから、彼の側でもう一度、始めて見たいと思った。
私は彼の連絡先を聞いていなかったことに、後から気がついたが、弟に聞いたらすぐに連絡してくれた。
私は、もう一度始めてみたいですと話、彼はそれを喜んでくれた。
そして5年後、籍を入れた。二度目の結婚だ。誰に反対される事もなく、豪華ではないが、小さな結婚式も挙げられた。
子供はいなかったが、彼は変わらず、私に優しく尽くしてくれる。私もそんな彼を心から愛している。
母が死んでから手にした幸せ。
それでも、時々、私の記憶に母が現れては、苦しめる。
私の中に刻み込まれた母への思いが、私を離してはくれなかった。
幸せを感じれば感じるほどに、母への罪悪感は増す。それに気がつかない振りをして、毎日を送る。
それが今の私の人生だった。
母はこの状況を見ても、離婚には反対した。
体裁が悪いからと。
夫婦の喧嘩くらい、どこにでもあるし、自分もそれに耐えたのだと。
自分は結局、離婚したくせにとは言えなかった。
それでも、警察が介入してくると、さすがに状況が悪いと思ったのか、離婚に同意し、社会人になっていた弟と住むことにした。
それは弟からの提案でもあったし、私も弟となら気が楽だと思ったからだ。
弟はまだ結婚しておらず、私と同じく、外資系の会社に勤め、役職をもらうほどには出世しているが、結婚すれば嫁に来た人が可哀想だと、未だに独身でいる。
まだ若いので、そう急ぐ必要もないだろうが。
弟は就職も急がなくて良いし、居たいだけ居て良いと言ってくれた。
弟だけはいつも私の味方だった。
そしてそれが何よりも私の支えだった。だからといって、弟にいつまでも甘えるわけには行かない。
夫からそれなりの慰謝料はもらっていたし、当面の生活は何とかなりそうという事もあり、私は怪我が完治したら、ここを出ようと決めていた。
仕事や家を探しながら、弟の家の家事を申し訳程度に手伝う日々を送っていたある日、母から連絡が来た。
朝、玄関で転げて頭を打ったという内容だった。取りあえず、病院に行く様に言っておいたが、2日後、母からまた連絡があり、調子が悪く、気分が悪いという。
仕方なく、準備してそちらに行くので、病院へ行こうと言って電話を切り、支度して実家へと向かった。
電話がかかってから2時間ほどは経過していたと思う。
私が実家に帰ったとき、母はベッドに仰向けに寝ていた。いくら呼んでも返事をしないことに異変を感じ、側によって確認した。
息をしていなかった。
慌てて救急車を呼び、弟に連絡を取った。
なれない人工呼吸をしても、一向に息を吹き返す様子はなく、パニックになりながら、救急隊員の到着を待つ。その時間は何時間にも感じられた。
救急車で病院に運ばれてから、1時間後には死亡宣告がなされた。くも膜下出血だった。
その後は、警察の現場検証や、葬儀の準備に追われ、母が亡くなった実感のないまま、数日を過ごした。
しかし、時が経つほどに、後悔が胸を締め付ける。
早く行っていれば、頭を打ったときに、病院に連れて行っていれば、私が一緒に住んでいれば・・・・
そんな思いと、もう一つの思いが心の中に澱の様に溜っていく。
それから2年、私は立ち直れず、弟の世話になりながら、派遣社員として働いた。やる気も起きなかったが、何かしていないと気が狂いそうだった。
何度も自殺を図り、失敗しては後悔する。
病院では、鬱病と診断され、派遣にも行けなくなり、無職の状態で何ヶ月も過ごした。入院と退院を繰り返しながら。
それを支えてくれたのは弟だった。
仕事をしながら、私の薬や食事の管理まで。
どれだけ負担だっただろう。
それを思えば申し訳なく、死にたくなる。
弟は密かにモニターを付け、仕事をしている間にも、私が自殺したりしないか、様子を見てくれていたのである。
そんな弟に助けられて、ゆっくりではあるが、快方へ向かっていった。
そんなある日、彼に再会した。
本当に結婚したかった彼だ。
気分の良い日に散歩する道に、今まで気にはなっていたが、入ったことのない本屋があった。今風のカフェにも似た小さな本屋。
場違いな気がすると思い、足が向かなかったが、その日は思い切って入ってみることにした。
本の数は多くはないが、落ち着いた雰囲気の本屋で、店主が厳選した本が置かれており、表からでは見えなかったが、奥にはドリンクスペースがある。
綺麗に並べられた本をおもむろに見ていた。
そこへ声をかけてきたのが、彼だった。
何も変わらない優しい顔で・・・・
「久しぶりだね。」
と。恨まれても仕方のない別れ方をした彼が、何も変わらずに声をかけてくれたのだ。
驚くと同時に、戸惑った。返事が出来ず、固まってしまった。
「迷惑だったかな?」
「えっ・・・いや、そういう訳では・・・」
「変わらないね、その口調。」
微笑むその姿は、何も変わっていない。少し歳は取ったが、あの当時のままの瞳。
「なんでここに・・・」
私は別れてからの彼の事は全く知らない。
少しでも知れば、決心が揺らぐ気がして、様子を見に行ったことすらなかった。
そんな彼が、何故か今、私の前にいる。
「優君に。君のことは優君から聞いていたんだ。ずっと。」
優から・・・つまり、弟から私の話を聞いていたという事だろう。
「ずっとって・・・・」
「取りあえず、ここを出ないか?座って話そう。」
彼は私の手をためらわずに握って、近くのカフェまで連れて行った。
久しぶりの彼の手は温かく、その温もりだけで、涙が出そうになる。
自分がいかに彼を愛していたのか、確信させられる。
何年も経っているのに、私から手を離してしまったのに。
手を握ったまま、飛び込んできた私達に、カフェの店員も一瞬、戸惑った表情をしたが、すぐに笑顔で席まで案内された。
お互い向かい合った形で座り、私は今更、恥ずかしくなって、コーヒーを注文した後、うつむいていた。
「ごめん。僕がふがいないばかりに。」
突然、彼が私に謝る。私は頭を上げて、彼の顔を見る。
「なぜ、謝るのですか?私が謝るべきでは?」
逃げたのは私だ。彼を突然突き放し、消息を絶ったのだから。
それなのに、何故謝られているのか、分からなかった。
「優君に全部、聞いているんだ。優君を責めないで。僕が無理を言って、聞き出した事だから。」
そこまで話したところで、コーヒーが運ばれてきたので、二人とも押し黙った。
全部聞いているとは、どういうことなのだろう。
「君が突然、いなくなって、優君なら何か知ってると思って、連絡したんだ。最初は知らないって言われてたんだけど、何度も話しているうちに、教えてくれたんだ。君がなぜ、僕の元を去ったか。なんとなく予想は付いていたけど、辛かった。」
コーヒーに口を付け、一呼吸置いて、また話始める。
「君が、お見合いで結婚したことも、その後のことも、優君から聞いて知ってる。君の知らないところで、僕達は連絡を取り合っていたんだ。だけど、君に会う勇気がなくて、会ってもまた辛い思いをさせるんじゃないかって、いやこれは言い訳だな。本当は怒っていたんだ。僕を捨てた君を。」
静かな声だが、その目は真剣で、口数の少なかった彼が、一生懸命話していることは伝わってくる。
「一緒に乗り越えようと思っていたのに、君は何の相談もせずに、僕の前から消えて、見合いして結婚して。そんな話を聞く度に、自分が嫌になったよ。腹もたった。君にも、君のお母さんにも。でも、優君から君が死ぬかもしれないと言われたとき、僕は、どんなに君に会いたかったのか悟ったよ。」
少し顔が赤いのは、自分が言った言葉が、恥ずかしかったのだろう。
「一度だけ、君の病院に行ったんだ。どうしても我慢できなくて。ベッドに横たわる君の痛々しさと、また会えなくなるかもしれない気持ちで、怖かった。でも、君が回復して、優君の家に落ち着いたって聞いて、会いに行こうと思っていたら、君のお母さんが亡くなって、君が精神的に弱ってるからって優君に止められたんだ。だから、今日出会ったのは、偶然ではなく、優君に聞いていたからなんだ。この辺りを散歩してるって。」
そういうことかと納得した。別に弟に腹は立たなかった。
弟は浅はかな人間でも、私を裏切る人間でもない。
弟はきっと、よかれと思ってやったことだろう。
しかし、だからどうしたというのだろう。
私のこれまでを知って、なぜ会いに来たのだろうか。
恨み言でも言いに来たのかと思ったが、様子が違う。
「何故、会いに来たのですか?私はあなたに恨まれても仕方ないと分かっています。でも、話を聞いている限り、文句を言いに来たというわけではないようですが・・・私に何か他に言いたいことでもあるのでしょうか?」
「君に会いに来たのは・・・」
歯切れが悪い。罵倒して、罵ってもらった方が分かりやすい。言葉を濁されると、困ってしまう。
「僕が君に会いに来たのは、もう一度、始められないかと思って・・・」
・・・・・?????
始めるとは?何を?
「ははっ混乱するよね、さすがに。急すぎるか。というか怖いかな。自分でもこんな男、怖いと思うよ。」
今までの話の内容からすると、やり直そうと言っている事は理解出来ている。
ただ、なぜそんなことを私に言えるのか、分からない。
私には彼に愛される資格なんてないし、彼とはとっくに終わっている。
気持ちはどうあれ、彼の気持ちが分からない事に混乱していた。
「君と別れて、他の人とも付き合った。でも、いつも君が頭をちらついて、忘れられなかった。優君に連絡することも、何度も辞めようと思った。君が結婚したと知ってから。でもそれも出来なかった。ちゃんと別れなかったからかな。さよならも言わずに、消えてしまったから、僕の中から、君が消えてくれなかった。」
私がけじめを付けずに別れたせいで、彼は私から解放されなかったのか。
私が離れれば、彼を解放できると思っていたのに、それが、彼を苦しめていた?
とにかく、あの時のことは、ちゃんと謝らなくては。
「ごめんなさい。私の行動であなたを過去につなぎ止めているのだとしたら、謝ります。本当に申し訳ありませんでした。」
「いや、謝って欲しいわけじゃないよ。僕は、もう一度君と恋愛を始めてみたいんだ。友達からでも良い。君を縛るつもりはない。僕も、君のことをまだ本当に愛しているのか、執着なのか分からない。それでも、君ともう一度、始めたかった。出会いから。」
「それの意味が分からないのです。どうして私なんかとまた付き合いたいのですか?また捨てられるかもとか、自殺するかもとか考えないのですか?それとも、私に復讐がしたいのですか?」
それなら納得も行く。
私に復讐するなら、今度は彼が私を捨てれば良い。
「違うよ。復讐したいなら、君が結婚すると知った時にやってる。君にまだ少しでも僕の入れる隙があるなら、考えてみてくれないかな。」
私はすっかり冷め切ったコーヒーを口にした。
もしこれが復讐なのだとしても、それは私のせいだ。勿論、傷つくのは怖い。
だが、彼に会ったときの自分の気持ちは、自分がよく分かっている。
きっと私は彼がまだ好きなのだ。
けれど、ここで返事をするのは、はばかられた。
「少し、考えさせて頂いても良いでしょうか。」
「勿論。時間はかかってもかまわない。無理を言っているのは僕だから。もし、無理ならそれでもいい。だから、今度は逃げずに、話して欲しい。」
コーヒーを飲み干すと、二人で席をたった。
外はすっかり、暗くなっている。
少し離れがたい気持ちを抑えながら、彼と別れる。
彼の後ろ姿を見ながら、私はこれからどうしたら良いのかを考え始めていた。
それから3日、弟からも話を聞いた。実際、二人は頻繁に連絡を取り合っていたらしく、彼がどれほど、私を心配していたかを聞いた。私が入院した理由を聞いたときは、今にも夫を殴りに行きそうな勢いで憤っていたという。そんな話を聞けて、少し嬉しかった。弟は、決して復讐なんかじゃないと思うよ、姉さんのことを本当に大切に思ってるように感じるから、もう一度信じてみたら、お母さんはもういないんだからと、私の背中を押してくれた。
それでも、自分が彼に対してしてしまったことや、今の精神状態を考えると、また彼を傷つけるのではないかと不安にもなる。
迷った。
どうするべきか、答えが出ない。
数学の様に正しい答えがあれば、どんなに楽か。
人の意見だけ聞いて、それにしたがっている事に慣れすぎて、自分で答えを出す癖がない。
それでも、考えた。考えて考えて、出した答えは、始めてみようだった。
間違いでもいいから、彼の側でもう一度、始めて見たいと思った。
私は彼の連絡先を聞いていなかったことに、後から気がついたが、弟に聞いたらすぐに連絡してくれた。
私は、もう一度始めてみたいですと話、彼はそれを喜んでくれた。
そして5年後、籍を入れた。二度目の結婚だ。誰に反対される事もなく、豪華ではないが、小さな結婚式も挙げられた。
子供はいなかったが、彼は変わらず、私に優しく尽くしてくれる。私もそんな彼を心から愛している。
母が死んでから手にした幸せ。
それでも、時々、私の記憶に母が現れては、苦しめる。
私の中に刻み込まれた母への思いが、私を離してはくれなかった。
幸せを感じれば感じるほどに、母への罪悪感は増す。それに気がつかない振りをして、毎日を送る。
それが今の私の人生だった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる