【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

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第32話   取り返しがつかないと知る

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妹マリアージュ視点

最初は、違和感だった。夜会の控室。いつものように、人の輪の中で言葉を選びながら、マリアージュは微笑んでいた。

「最近、お姉様の評判が良いのよ」

そう言われたときも、最初は何とも思わなかった。

「そうでしょう?お姉様は、もともと堅実な方ですもの」

自然に出た返事。本心だった。だが、
その後に続いた言葉で、空気がわずかに変わる。

「第三王女殿下が、“あの方じゃなきゃ嫌”と仰ったそうよ」

「王妃殿下も、今後の教育全般を任せるおつもりだとか」

マリアージュは、一瞬だけ瞬きをした。

(……あれ?)

それは、“役割”の話ではなかった。別の令嬢が続ける。

「それに、伯爵領の運営も、最近は奥様名義の文書ばかりだそうよ」

「離縁の話も出ているって……あくまで噂だけれど」

その言葉に、初めて、胸の奥がひやりとした。

(離縁……?)


――違う。それは、自分が思っていた流れと、決定的に違っていた。

マリアージュの中で、姉はずっとこういう存在だった。

・控えめ
・欲しがらない
・必要とされなければ、身を引く

それは、“優しさ”であり、“美徳”だった。
少なくとも、そう信じてきた。


「お姉様は、きっと疲れてしまったのよ」

誰に向けるでもなく、マリアージュはそう言った。

「責任を背負いすぎて……」

だが、その言葉に、誰も頷かなかった。
代わりに返ってきたのは、はっきりした一言だった。

「違うわ」

年上の貴婦人が、静かに言う。

「彼女は、“評価されたから去る”んじゃない」

「評価が要らなくなったから、去るのよ」


その瞬間。

マリアージュの思考が、止まった。

(評価が……要らない?)


頭の中で、自分の手紙の言葉が、反響する。

『必要とされなくなったら、静かに身を引くのでしょうね』

あれは、思いやりだった。心配だった。
姉が傷つくのが、嫌だった。

――そのはずだった。


だが今、ようやく分かる。あの言葉は、
姉の未来を「決めつけた」言葉だった。
選ぶ前に、行き先を決めていた。


「……そんなつもりじゃ」

声に出しかけて、飲み込む。誰に言えばいいのか、分からなかった。


さらに、決定打が落ちる。

「奥様は、すでに執務室を閉じられたそうよ」

「引き継ぎも、すべて済んでいるとか」

その言葉は、刃物のように正確だった。


(……終わってる)

そのとき、マリアージュは初めて理解する。

これは、“これから何か起きる”話ではない。もう、起きた後の話だ。



慌てて、頭の中で言葉を探す。

謝る?
説明する?
訂正する?

だが、どれも遅い。

今さら、何を言っても――

「お姉様は、もう“聞かない側”に立っている」

その事実だけが、重くのしかかる。マリアージュは、その場で微笑みを保った。
泣かなかった。取り乱さなかった。

――泣く資格がないと、本能で分かっていたからだ。

(……私は)

(お姉様を、守っていたつもりだった)

だが、守ったのは――自分の安心だった。

姉が“欲しがらない人”でいてくれる世界。
自分が、悪者にならずに済む関係。初めて、その構造に気づいたとき。マリアージュは、胸の奥が、静かに崩れるのを感じた。


――取り返しがつかない。

それは、誰かに奪われたものではない。

自分が、“決めつけ続けた”結果だった。
夜会の音楽が、遠くで鳴っている。マリアージュは、その音を聞きながら思う。

今さら、姉に何を言っても。

きっと、もう届かない。

なぜなら――

お姉様は、選ぶ側に立ったのだから。
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