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第十一話 初めて名を呼ぶ
夜は、まだ深かった。空間魔法の家の中で
時間は確かに流れている。外界と同じ速度で、同じ刻みで。だが、眠りだけが訪れない。私は机に向かったまま、何も書いていない羊皮紙を見つめていた。裁定は滞りなく進んでいる。証拠は揃う。歯車は、正確に回っている。
――それなのに。
胸の奥が、理由もなく、ざわついていた。
足元で、小さな気配が動く。あの黒猫だ。
煤を塗ったような黒ではない。光を吸い込む、夜そのものの色。毛並みは短く、だが密で、魔導灯の淡い光を受けると、わずかに青みを帯びて艶を返す。
私の椅子の脚に身体を預け、丸くなったかと思うと、しばらくして、のそりと起き上がる。
そして――私を見上げた。
右の瞳は、深い金色。溶けた琥珀のように静かで、温かい。
左の瞳は、澄んだ青。夜明け前の空を閉じ込めたような、冷たく、遠い色。オッドアイ。どちらも、瞬きをほとんどしない。
問いもしない。
求めもしない。
ただ、そこにいるだけの目。
「……」
私は、視線を逸らした。名を呼ぶつもりはなかった。名前を与えるという行為は、繋がりを認めることだ。呼びかけるということは、「失う可能性」を受け入れることでもある。私はもう、失うことに慣れすぎている。
――だから、呼ばない。
そう決めていた。だが。猫は静かに近づき、机の脚を回り込み、私の膝に前足をかけた。爪は立てない。重さもかけない。
乗らない。
甘えない。
ただ、触れている。存在を、確かめるように。
「……やめなさい」
声は、思ったより弱かった。猫は、やめない。金と青の瞳で、まっすぐに私を見る。
逃げない。
期待もしない。
ただ――待っている。胸の奥で、何かが、音を立てた。あの夜。処刑台の上で、誰も、私の名を呼ばなかった。
母も。
父も。
兄も。
妹も。
弟も。
誰一人。名前を呼ばれないまま、私は、世界から切り離された。
「……」
喉が、詰まる。違う。今は、違う。私はもう、あの時の私ではない。それでも。この小さな存在が、名もなく、ここにいることだけが――どうしても、耐えられなかった。
「……」
猫が、小さく鳴いた。
にゃあ。
高くもなく、媚びるでもない、ただの声。
それは、呼べ、という声ではない。
それでも――私は、逃げられなかった。
「……ノワ」
声が、落ちた。はっきりした名ではない。
呼びかけの途中のような音。
それでも。猫の耳が、ぴくりと動いた。
金色の瞳が、わずかに細まる。
「……ノワ」
もう一度、名を呼んだ瞬間だった。猫の身体が、ほんの一瞬だけ――内側から淡く発光した。強い光ではない。眩しさも、熱もない。夜露に濡れた月光を、そのまま薄めたような青。
左の瞳――あの澄んだ青が、静かに、確かに光を帯びる。
同時に。空間魔法の家の奥で、最低限の魔力反応が走った。結界でもない 警告でもない。
ただの――確認。裁定魔法の起動時にのみ現れる、ごく初期段階の反応。
「……?」
私は息を止める。床に刻まれた魔法陣は沈黙したまま。封印箱も、記録も、応えない。
――裁定は、起動していない。
それなのに。空間そのものが、「名を受け取った」と理解したようだった。
ノワは鳴かない。
ただ、私の膝の上で身を丸めたまま、青い光を一度だけ瞬かせ――すぐに、消えた。
残ったのは、猫の温度と、低く、深い喉鳴りだけ。
「……最低限、なのね」
思わず、呟く。裁くための光ではない。守るための結界でもない。存在が“ここにいる”と、世界に登録されただけの反応。
それは――生き物に与えられる、最小限の権利。
ノワは、金の瞳で一度だけ私を見て、再び目を閉じた。何も起きていない、という顔で。だが私は知っている。
今の光は、奇跡ではない。裁定でもない。
名を呼ばれたことへの、世界の了承だ。
「……本当に、不思議な子」
私は、もう一度だけノワの背を撫でる。
青い光は戻らない。
だが――胸の奥に残った確信だけは、消えなかった。
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