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第十四話 神獣は、裁定を拒んだ
空間魔法の家は、今までになく、静まり返っていた。音がないわけではない。壁の奥では、循環する魔力が低く脈打ち、
床下では、空間を固定する術式が微かな振動を続けている。
それでも――そのすべてが、遠い。まるで、世界そのものが一歩引いて、こちらを「観察」しているような静けさだった。リリアーナは、作戦机の前に立っていた。青い光の箱が宙に浮かび、中には、整然と並べられた証拠群。
供給経路の記録。
聖女派神官の署名。
隣国の術式構文。
魔力収支の改ざん履歴。
どれも、一つひとつは逃げ道を残している。
だが――組み合わされば、完全だった。
「……条件、成立」
自分の声が、ひどく平坦に聞こえる。裁定者としては、正しい。感情を挟む余地はない。挟んではならない。
「行くぞ」
隣に立つエドワードが、短く言った。彼は鎧の留め具を締め直す。金属が擦れる、乾いた音。剣には、まだ触れない。だが、その存在を忘れてはいない姿勢だった。リリアーナは、歪んだ空間に手を伸ばす。空間が、応える。布を引き裂くような感触。
視界が、わずかに歪む。
――外界と、繋がる。
はずだった。その瞬間。
「……ノワ?」
足元に、温度が生まれた。黒い影が、音もなく回り込み、リリアーナの進行方向に座り込む。ノワだった。夜を凝縮したような毛並み。光を吸い、反射しない黒。だがその輪郭だけが、わずかに空間から浮いて見える。
「どいて」
命令ではない。促しだ。ノワは、動かない。青と金のオッドアイが、じっと彼女を見上げている。その視線には、怯えも、甘えもなかった。
ただ――確定した意思。
「……まさか」
エドワードが、息を詰める。次の瞬間。ノワの身体から、淡い青い光が滲み出した。
眩しくない。だが、確実に“在る”。裁定の光ではない。存在承認の揺らぎとも違う。
それは――遮断の反応。
リリアーナが感じ取るより早く、空間が、閉じた。歪みが、消える。まるで最初から、開かれなかったかのように。
「……拒否、か」
エドワードの声が、低く落ちる。
「裁定自体を?」
「いいえ」
リリアーナは、即座に否定した。
胸の奥で、理解が、形を取る。
「今、この対象を裁定することを拒んでいる」
ノワは、一度だけ、尾を揺らす。肯定でも否定でもない。決定事項として。
「……理由は?」
問いかける。ノワは鳴かない。代わりに、
ゆっくりと首を巡らせ、作戦机の上――
聖女派の記録が集まる区画を見た。
その瞬間。リリアーナの背中を、冷たいものが走った。
「……聖女」
エドワードが、ほとんど吐息のように呟く。同時刻。
王都大聖堂。聖女クラリッサは、祈祷台の前に立っていた。
天井は高く、白い石が幾重にも重なり、光を反射して空間を満たしている。
香が焚かれ、空気は清浄そのもの。信徒たちは、息を殺して見守っていた。
「主よ――」
声は、震えていない。手をかざす。いつもなら、ここで光が生まれる。
だが――生まれなかった。
一拍。
二拍。
ざわめきが、波紋のように広がる。
「……っ」
クラリッサは、無意識に胸元を押さえた。
遅れているだけ。そう、何度も経験してきた。補助装置が、一瞬、呼吸を乱しただけ。
だが。
胸元の聖印が、熱を帯びた。次の瞬間。
ひび。白銀の表面に、黒い亀裂が走る。
「……な、に……?」
魔力が、戻ってこない。逆流する感覚。
掴めない。
奇跡が――拒まれている。
「聖女様……?」
誰かが、不安げに呼ぶ。視界の端で、
青い残光が揺れた。床に、水滴のように落ちる。癒やしの色ではない。裁定の色でもない。
――冷たい、判断の色。
クラリッサは、理解してしまった。これは、故障ではない。妨害でもない。世界からの拒絶だ。
空間魔法の家。ノワは、低く、短く鳴いた。
にゃあ。
それは、警告ではない。決定事項の通知。
「……今、裁けば」
リリアーナは、言葉を選ぶ。
「聖女は、壊れる」
「殺すことになる」
エドワードが、続けた。沈黙。
「……ノワは、それを望まない」
リリアーナは、歪んだ空間の痕跡を消す。
「裁定者としては……」
言葉を切り、一度、目を伏せる。
「……正しくないわね」
「人としては?」
エドワードの問い。
間。ほんの、呼吸一つ分。
「……守る側に、立つ」
その声は、揺れていなかった。
ノワが、喉を鳴らす。受容の音。
「一緒に動く」
リリアーナは、エドワードを見る。
「裁くためじゃない」
「壊さないために」
彼は、頷いた。
「順番を、変えるだけだ」
ノワは、二人の間に座り込む。
裁かない。導かない。ただ、世界の均衡を見ている。神獣は、裁定を拒んだ。それは、慈悲ではない。猶予でもない。
――まだ、成立していないただ、それだけの判断だった。
歯車は、止まらない。
だが今、確かに――噛み合い方が、変わった。
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