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第三十五話 聖女の予感
――それは、触れられなくなった夜ではなかった
王都大聖堂・上階。
朝の光が、長い回廊の床に落ちている。
白い石は磨かれ、埃一つない。
いつもと同じ――はずだった。
だが、空気が違う。
クラリッサは歩きながら、それを感じ取っていた。香の濃さが、わずかに薄い。
侍女の足音が、遠い。祈祷前に必ず差し出されるはずの確認書が、まだ届かない。
「……?」
違和感は、確信になるまでが早かった。
執務用の控室。
扉は開いている。
中には、神官団の長老三名と、見慣れない文官が一人。
――王宮付き。
クラリッサが入ると、彼らは一斉に立ち上がらなかった。それが、答えだった。
「……これは、何の集まりですか?」
穏やかに問う。声は震えていない。
だが、誰も“聖女様”と呼ばなかった。
「今後の、運用についての調整です」
長老の一人が答える。言葉は丁寧だ。だが、主語がない。
「運用?」
クラリッサは微笑む。
いつもの、慈愛の笑み。
「それは、私の管轄では?」
沈黙。王宮文官が、一歩前に出た。
「王子殿下のご意向です」
その一言で、空気が完全に切り替わった。
「聖女派は、これまで大きな役割を果たしました」
「ですが――」
「今後は、象徴としての役割に専念していただきます」
象徴。
その言葉の意味を、クラリッサは即座に理解した。
判断しない。
決定しない。
介入しない。
ただ、掲げられるだけ。
「……奇跡の調整は?」
「神官団が引き継ぎます」
「隣国との件は?」
「王宮主導で」
「名簿管理は?」
「既に、移管済みです」
一つ、また一つ。
自分の手から、“何か”が剥がれていく感覚。それは、拒絶ではない。怒りでもない。無関心だ。
「……王子殿下は?」
声が、少しだけ低くなる。
「本日は、ご多忙で」
文官は、視線を逸らした。呼ばれていない。それだけで、十分だった。
(……ああ)
クラリッサは、初めて理解した。
あの夜。密室。囁かれた言葉。
――「君は聖女だ」「俺の味方だ」
それは、選ばれた証ではなかった。使える間の保証だったのだ。身体を求められなくなったからではない。抱かれなくなったからでもない。
もっと、残酷で、もっと、正確な理由。
奇跡が、遅れた。
拒まれた。
管理できない兆しが出た。
だから。
「切られた」
声には、感情がなかった。ただ、事実の確認。長老の一人が、咳払いをする。
「……聖女様」
「どうか、ご理解を」
「これは、民衆のための――」
「“民衆のため”」
クラリッサは、その言葉を遮った。微笑みは、消えない。だが、瞳の奥が、凍りつく。
「便利な言葉ですね」
誰も、反論しない。
なぜなら、彼女はもう――
反論する立場ではないからだ。会議は、形式的に終わった。
誰も、彼女を止めなかった。
誰も、追わなかった。
回廊を歩く。白い床。白い壁。
すべてが、彼女を拒まないまま、遠ざかっていく。私室に戻り、扉を閉める。鍵は、かからない。もう、かける必要がない。
クラリッサは、寝台の縁に腰を下ろした。
胸に手を当てる。魔力は、ある。奇跡も、まだ使える。
――それでも。
「……私は、聖女よ」
誰にともなく言う。返事はない。
神も。王子も。もう、ここにはいない。
残ったのは――役目を終えた“象徴”だけ。
その瞬間。クラリッサは、初めて恐怖した。裁かれることでも、断罪されることでもない。必要とされなくなること。それが、この世界で最も残酷な“捨てられ方”だと。
彼女は、まだ知らない。
その恐怖こそが――
破滅の、始まりだということを。
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