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断章
しおりを挟む選ばれなかった二人
夜だった。
焚き火の赤が揺れ、
世界は二人分の呼吸だけを残して静まり返っていた。
聖女は、外套を羽織ったまま彼の前に立っていた。近すぎて、剣の柄に触れてしまいそうな距離。それでも彼は、彼女に触れなかった。触れれば、すべてを壊してしまうと知っていたから。
「……行くのか」
それは問いではなかった。願いだった。
聖女は、ゆっくりと微笑む。彼が何度も守り、何度も手放した微笑み。
「ええ」
短い答え。けれど、その一音に、彼の世界はすべて詰まっていた。彼女が一歩、近づく。焚き火の炎が揺らぎを止め、風が、音を失った。彼女の指先が、彼の胸元に触れる。
「ねえ……」
聖女は、囁く。
「ここで別れたら、あなたには――二度と、会えない」
彼の喉が、ひくりと鳴る。それでも、
彼は答えられなかった。答えてしまえば、
彼女を引き留めてしまうから。
「それでも、行くわ」
聖女は、そう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……だから」
彼女は、背伸びをする。次の瞬間、柔らかな温もりが、彼の唇に触れた。口付けだった。逃げるようで、確かめるように深く。
それでも、確かな意志を持った口付け。
――刹那。
彼の剣が、光を放った。鎧の継ぎ目から、
白く、淡い光が溢れ出す。彼自身が、光に包まれていく。それは祝福ではない。加護ですらない。聖女が、唯一“選んだ”男である証。彼は、衝動のまま彼女を抱き留めた。
「……離すな」
震える声。聖女は、彼の胸に額を預け、小さく息を吐く。
「今は、離れる」
その言葉は、拒絶ではなかった。彼女は顔を上げ、はっきりと告げる。
「次に会うときは――」
一瞬、世界が息を止める。
「……必ず」
彼は、何も言えなかった。言葉よりも、
その誓いが、あまりにも重かったから。
夜明けが来る。聖女は、彼の腕の中から離れ、振り返らずに歩き出す。彼は、光を帯びた剣を握り締める。
――選ばれなかったのではない。
選び合う時を、未来に託しただけだ。
その誓いは、光とともに、彼の魂に深く刻まれた。
次に会う時は何をしてでも、連れ去る。
それが次の生であったとしても。
彼女は、振り返らなかった。
振り返れば、すべてを捨ててしまいそうだったから。彼は、最後まで名を呼ばなかった。呼べば、彼女を縛ってしまうと知っていたから。
――こうして。
世界は守られ、二人の恋は、歴史に残らなかった。だが。選ばれなかった想いだけが、剣と血と、加護の奥深くに、確かに残った。
そしてそれは、次の生で
――必ず、再び出会う。
今度こそ、選ぶために。
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