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サキュバス姫は処女のまま人間界へ追放されました ――精気を奪うはずが、溺愛されました
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サキュバス姫
サキュバスなのに、処女。
それが、リリスだった。
空腹だった。
腹の奥が、ひどく静かで、冷たい。
精気を糧とする一族に生まれながら、
彼女は一度も、人間からそれを奪ったことがない。
処女だから――練習している。
それを誰かに言えば笑われることくらい、リリスにも分かっていた。
けれど、いきなり本番など、怖くてできるはずがなかった。
私室の奥で、彼女は息を止めるようにして、それを手に取った。
ユニコーンの角を削って作ったもの。
先を丸く身体を傷つけることがないように。
もちろん形は男性器を模して、だ。
処女に懐くとされる、伝説の獣。
処女に優しいってことよね?
それならきっと私の中にも……
寝台に寝転んで、そっとそれをリリスは自分の脚の奥にあてがう。
押し込もうとするその手が震える。
(……ここ、よね)
視線を落とし、恐る恐る位置を確かめる。
一気には無理だ。
本能が、全力で拒んでいる。
「……だ、大丈夫……これは……練習……」
誰に言い訳するでもなく呟き、そっと近づけて――
思わず肩が跳ねた。
(……無理……!)
慌てて引っ込め、胸を押さえる。
「……本番で失敗するよりは……」
言い訳だけが、増えていく。
精気は得られず、
自信も得られず。
サキュバス姫リリスは、
今日も“まだ”のままだった。
玉座の間は、いつもより広く感じた。
「……リリス」
母――女王レリーアの声は、冷たかった。
「まだ、なのね」
「……はい……」
「精気も奪えぬサキュバスの娘など、魔界には不要よ」
淡々と、宣告される。
「人間界へ行きなさい。
無事に人間から精気を奪えた暁には、戻ることを許すわ」
胸が、きゅっと縮む。
その沈黙を裂くように、笑い声が上がった。
「ふふ……ねぇ、リリス」
姉のルシアが、楽しそうに首を傾げる。
「なんならさぁ――伴侶でも見つけてきたら?」
「お姉様っ」
妹のローゼが、口元を押さえて笑う。
「リリスお姉様は、精気“さえ”奪えないんですのよ?
それで伴侶だなんて……ぷっ」
「人間の男って、優しいのもいるらしいし?」
「食べさせてもらうだけなら、できそうですわね」
出来のいい姉妹の、余裕ある嘲笑。
リリスは、拳を強く握った。
(……見てなさい)
(奪ってやる。精気も、そして一人前だって証明してみせる……)
魔界の門を抜けた瞬間、空気が変わった。
ここが、人間界。
乾いた風が頬を打つ。
(……お腹、すいた)
精気の欠乏は、もう誤魔化せない。
「……やるしか、ないでしょ」
小さく呟く。
「奪えるわよ。
練習だって……してきたんだから」
人間の街が、遠くに見えた。
灯りが、ぽつぽつと瞬いている。
あそこに、人がいる。
精気を持つ男がいる。
「……狩りよ」
リリスは背筋を伸ばし、歩き出した。
奪う側になる。
一人前になる。
そう信じて。
サキュバス姫リリスは、人間界へと足を踏み出す。
港は、潮の匂いで満ちていた。
人間界に来て最初に辿り着いた場所が、ここだったのは偶然だ。
魔界にはない、海の匂い。
潮の香りと、波の揺らめき。
ざぶん、と寄せては引く波音が、どこか心地いい。
しばらくその音に耳を澄ませてから、
リリスははっと我に返り、辺りを見回した。
(……いた)
網を干す男が一人。
着ているものは粗末で、色もくすんでいる。
貴族や商人の街で見た、整った服とはまるで違う。
――なのに。
(……なに、あの身体)
腕を上げるたび、筋がはっきりと浮かぶ。
無駄のない動き。
慣れた所作。
日に焼けた肌は、野暮ったいどころか、
不思議と“逞しい”という言葉がしっくりきた。
(漁師……ね)
年の頃は、三十を少し超えたくらいだろうか。
人間の年齢は、魔界の感覚では掴みにくい。
リリスは、人間界に溶け込むため、人間の娘に擬態している。
最も誘惑が成功しやすいとされる、二十代前半の姿。
そのリリスより、十は年上に見える男。
(あの歳で一人……ということは)
慎重に、距離を測る。
(ああいう男は、きっと女に飢えてる)
貧相な身なり。
一人で働いている様子。
(誘惑すれば、簡単よ)
自分に言い聞かせるように、胸を張る。
(精気を奪って、一人前になる……)
狩りの相手として、申し分ない。
「……ねぇ」
海風に乗せて、声をかける。
男が振り返った。
「ん?」
近くで見ると、顔立ちは穏やかだった。
警戒はしているが、下卑た色はない。
(……想定外)
けれど、引くわけにはいかない。
「一人……ですか?」
伏せ目がちに、距離を詰める。
肩を少しだけさらし、海風に身を任せる。
晩夏の夜。
薄手のブラウスから、胸元がちらりとのぞく。
リリスはサキュバスだ。
処女ではあるが、その身体は男を誘惑するためのもの。
膨らんだ胸。
きゅっと締まったウエスト。
男を安心させる、丸みのある腰。
見た目だけなら、どんな男も落とせるはずだった。
――なのに。
「薄着すぎるぞ」
男はそう言って、眉をひそめた。
次の瞬間、肩に重み。
「……え?」
上着が、そっと掛けられている。
「嬢ちゃん、夜の海風は冷てぇ。
腹、壊すぞ」
心配そうな声音。
(……違う、そうじゃない)
誘惑のつもりが、防寒対策になっている。
「だ、大丈夫よ……」
言いかけたところで、
男は、彼女の腹の鳴る音に気づいた。
「……腹、減ってるな」
図星だった。
「ほら」
焚き火のそばへ促され、
いつの間にか、魚が焼かれている。
「売り物にならねぇやつだけどな。
形が悪いだけで、普通に食える」
差し出された魚は、温かく、香ばしかった。
(……違う。
食べたいのは、こんなものじゃないはずなのに)
気づけば、無言でかじりついている。
(……おいしい)
精気じゃない。
それなのに、身体が満たされていく。
「……どうして、こんなことするの?」
思わず、聞いてしまった。
男は、肩をすくめる。
「困ってるやつを、放っとけねぇだけだ」
それだけ。
欲も、下心も、感じられない。
(……なに、それ)
(……やりにくい……)
名前を聞くと、男は簡単に答えた。
「マナトだ」
「……私は、リリス」
それからの時間は、奇妙だった。
本当は、狩りのはずだった。
誘惑して、虜にして、奪う。
――なのに。
歩けば、足元を気にされる。
寒ければ、火の位置を直される。
黙れば、魚を焼かれる。
触れられない。
踏み込んでこない。
(……あれ?)
焚き火を見つめながら、ふと気づく。
(私……何しに来たんだっけ)
精気。
狩り。
それよりも――
「……ねぇ」
口から出た言葉に、自分で驚く。
「また……来てもいい?」
マナトは少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「ああ。
危なくなけりゃな。こんな魚なら腐るほどある。
また食いに来いよ」
それだけなのに。
胸の奥が、妙に温かかった。
サキュバス姫リリスは、
この時すでに――
“奪う話”から、静かに外れ始めていた。
次の日も、そのまた次の日も。
リリスは海を訪れた。
漁師であるマナトの朝は早い。
漁を終え、港へ戻ってきた彼を、リリスは同じ場所で待つ。
一仕事を終えたマナトは、リリスの姿を見つけると、少しだけ目を丸くした。
社交辞令を真に受けた、という戸惑いではない。
本当に来たのか、という素直な驚きの顔だった。
「おお、嬢ちゃん。今日は魚だけじゃなく、タコもあるぞ。食うか?」
まるで餌付けでもするかのように、気軽に声をかける。
そして当然のように、こっちへ来いと手で示した。
マナトの家は、古びた木製のあばら屋だった。
潮の匂いが染みついた、いかにも漁師の家。
リリスが目をつけた通り、男の一人暮らしらしい。
中を見回しても殺風景で、漁に使う網や道具が目立つばかり。
飾り気も、生活の華やぎもない。
「……一人暮らし、なの?」
分かってはいたが、念のために聞く。
リリスはサキュバスだが、妻や恋人のいる男から奪おうとは思っていなかった。
誓い合った者同士を引き裂くような火種を蒔くつもりはない。
――そんな甘さこそが、
彼女がいまだ処女であり、
母や姉たちのように魔界に染まりきれない理由の一つでもあった。
「そうだな……。今は、一人で暮らしてる」
マナトの答えは、どこか歯切れが悪かった。
だが、リリスは深く考えない。
(……一人、なのね)
胸の奥で、ほっとするような、
それでいて少し後ろめたい感情が芽生える。
囲炉裏に火が入れられ、ぱちぱちと音を立て始める。
マナトがバケツの蓋を外すと、水を張った中から、にょろりと何かが動いた。
「ひぃっ!!」
リリスは思わず声を上げる。
「ク、クラーケンのちっちゃいのじゃない!!」
バケツからはみ出したタコの足が、こちらへ寄ってくるように見えた。
「クラーケン? なんだ、そりゃ?」
魔界に海はない。
だが、クラーケンという異形の化物は確かに存在する。
それに似た生き物を前に、リリスは反射的にマナトの手をぎゅっと掴んでしまった。
「なんだ? 嬢ちゃん、タコ嫌いか?
コリコリしてて美味いんだけどな」
「そ、そんなの絶対美味しくないわ!
魚、魚にしてちょうだい!」
その必死な様子に、マナトは声を上げて笑い、
タコをバケツに押し戻して、再び蓋をした。
リリスは、ほっと息をつく。
そんな穏やかな日が、何日も続いた。
空腹は、完全には満たされない。
それでも、マナトに焼いてもらう魚を食べると、
少しだけ、その渇きが遠のく気がした。
精気ではない。
任務でもない。
ただ、
この男と同じ火を囲み、
同じ時間を過ごすことが――
心地よかった。
サキュバスとしての目的は、
いつの間にか、潮の匂いに紛れていた。
それは、ほんの些細な違和感からだった。
いつものように囲炉裏の火を囲み、
魚を焼き、
他愛のない話をしていた、その途中。
リリスが、無意識に距離を詰めていた。
寒いわけでもないのに、
気づけば、マナトのすぐ隣。
袖が触れる。
肩が、わずかに当たる。
それは、自然にそうなっていた。
マナトを誘惑してやろうという気持ちではない。
ただ、隣にいたいという気持ち。
――それだけ。
それだけなのに。
マナトの手が、一瞬止まった。
「……嬢ちゃん」
低い声。
リリスは顔を上げる。
「なに?」
そこにあったのは、
いつもの穏やかな眼差しではなかった。
困ったような、
それでいて、どこか覚悟を決めた目。
「……最近、近いな」
胸が、きゅっと鳴る。
「だって……」
言い訳を探そうとして、言葉が詰まる。
マナトは、焚き火から視線を外さずに続けた。
「勘違いさせるようなこと、
俺がしてたなら悪かった」
その一言で、
胸の奥が、すとんと落ちた。
「……どういう、意味?」
声が、少しだけ震える。
マナトは、ゆっくりと息を吐く。
「俺はな」
少し間を置いて。
「もう、誰かと恋をするつもりはない」
柔らかいのに、はっきりした声。
「妻を早くに亡くした。
一人で生きるって、決めてる」
――そういえば。
以前、一人暮らしなのかと聞いた時、
マナトの言葉は、どこか歯切れが悪かった。
何もない家。
漁の道具しかない、殺風景な家だと思っていた。
けれど、よく見れば。
壁には、センスのいいドライフラワー。
引き出しには、丁寧に貼られたラベル。
そして――
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
リリスに振る舞われていた、あのマグカップ。
「悪い。これしか無くてな」と出されたそれは、
ピンク色の花柄で、どう見ても女性ものだった。
特に気にも留めていなかった。
けれど、今なら分かる。
あれも、これも。
ここに“誰か”がいた痕だった。
火が、ぱちりと鳴る。
「困ってるから、世話をしただけだ。
嬢ちゃん……そういう風に思われるのは、困る」
拒絶だった。
けれど、突き放す拒絶ではない。
線を引くための拒絶。
リリスは、言葉を失ったまま俯く。
(……ああ)
(そう、よね)
胸が、じわじわと冷えていく。
奪うつもりだった。
誘惑するつもりだった。
――なのに。
いつの間にか、
選ばれる側の気持ちになっていた。
「……ごめんなさい」
やっと絞り出した声は、
驚くほど小さかった。
マナトは、ちらりとこちらを見て、
それ以上、何も言わなかった。
その日から。
マナトは、必要以上に近づかなくなった。
魚は焼いてくれる。
言葉も、変わらない。
けれど。
距離だけが、はっきりと残る。
肩は触れない。
手も、取らない。
(……ばか)
(私は、サキュバスなのに)
精気を奪うどころか、
心を持っていかれて。
しかも――
それを拒まれている。
囲炉裏の火を見つめながら、
リリスは小さく膝を抱えた。
胸が、ひどく痛む。
空腹とは、違う。
これが――
失恋なのだと、
彼女は初めて知った。
それでも――
その沈黙に、耐えきれなくなったのは、リリスの方だった。
囲炉裏の火が小さく揺れる。
その光の中で、マナトの横顔は変わらない。
変わらないまま、
距離だけが、遠い。
「……ねぇ」
呼びかけても、返事は短い。
それが――
どうしようもなく、腹立たしかった。
「……なんなのよ、それ」
声が、少し荒れる。
「優しくしておいて、
こっちが好きになったら、いまさら距離取って……
困るって……」
マナトが、困ったように眉を寄せる。
「嬢ちゃん……」
「違う!」
リリスは勢いよく立ち上がった。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出す。
「私はね、
最初から“困ってた”のよ!
あんたなんかより、私の方がずっと“困って”た!」
マナトが、目を瞬かせる。
「私はサキュバスなの!」
吐き出すように告げた。
「精気を奪うために、人間界に来た!
半人前だって笑われて、追い出されて!」
息が、荒くなる。
「それなのに……
あんたは、魚ばっかり食べさせて……」
ぎゅっと拳を握る。
「……奪うはずだったのに」
声が、震える。
「気づいたら……
私の方が……」
言葉が、途切れた。
マナトは、黙ってリリスを見ていた。
「……だから」
睨みつけるように続ける。
「今さら“困る”なんて言われても、遅いの!」
もう、ヤケクソだった。
精気も奪えないまま、恋をして、
挙げ句の果てに失恋しかけて。
魚だけでは満たされない、
飢餓にも似た空腹を抱えたまま。
リリスは、誘惑など忘れて、
囲炉裏のそばでマナトの腕を押さえつけた。
必死の訴えとしか言いようのない、
リリスの“本気”。
だが、逞しい筋肉に覆われた漁師の身体は、びくともしない。
ただ、その必死な姿を、静かに見つめていた。
「……サキュバス?」
必死さは伝わっている。
けれど、聞き慣れない言葉に戸惑いが滲む。
「そうよ。私はサキュバスなの」
唇が、震える。
「魚なんか、いらないの」
違う。
マナトに焼いてもらった魚は、美味しかった。
マナトと一緒だったから、美味しかったのだ。
「魚なんかいらないから……
精気を、よこしなさいよ!」
言葉は強気だったが、声は震えていた。
「……精気?」
マナトは首を傾げる。
「それは、どうやってよこすんだ?
嬢ちゃんに」
「そ、それは……」
喉が詰まる。
「……セッ……セックス、とか……」
言い切れなかった。
途端に、耳まで熱くなる。
処女だという事実が、重くのしかかる。
沈黙。
「嬢ちゃん」
マナトが、静かに言った。
「それは……
俺に、あんたを抱けってことか?」
「……そ、そうよ」
絞り出すように答えると、
マナトはしばらく黙り込んだ。
焚き火を見つめたまま、ぽつりと。
「俺はな」
低い声。
「抱いた女に、情が移る」
リリスは、息を止める。
「妻を先に亡くしてる。
だから、もう軽い気持ちじゃ抱けねぇ」
一つずつ、考えるように言葉を選びながら。
それでも、譲らない意思ははっきりしていた。
「俺が嬢ちゃんを抱くなら、
あんたの旦那面するぞ」
真っ直ぐな視線。
「他の男に目移りなんて、許さない。
嬢ちゃんが欲しいって言う精気も……俺からだけだ」
間を置いて、問いかける。
「それでも、いいのか?」
「……へ?」
あまりに予想外で、間抜けな声が出た。
「……そ、そんなの……」
拳を握りしめる。
「今までだって、誰からも奪えてないんだから……
あんた以外から奪えるわけ、ないじゃない」
マナトは一瞬、呆けた顔をして――
小さく笑った。
「……そうか」
「威張ることか? それは」
「威張ってないわよ!」
顔を真っ赤にして言い返す。
「マナト、あんたこそ……
私に精気吸われきって、ヘロヘロになる覚悟しなさいよ!」
「なんだ、そりゃ」
可笑しそうに息を吐き、マナトは立ち上がる。
焚き火の向こうから、ゆっくりと近づいた。
「じゃあ……嬢ちゃん」
低く、穏やかな声。
「腹いっぱい、食わせてやるよ」
指先が、そっとリリスの顎に触れる。
「たんと、味わえ」
それは、奪う言葉ではなかった。
与えると決めた男の声だった。
――サキュバス姫の“姫はじめ”は、
奪うことではなく、
与えられることから始まる。
「嬢ちゃん、最終確認だ。逃げるなら今だぞ」
逞しい腕が、リリスの身体を包む。
初めてマナトを見たとき、野暮ったいと思った姿が嘘のように凛々しく見えた。
少しだけ残る無精ひげ。日に焼けた肌。
整えられてもいない髪なのに、その野性味とよく似合っている。
「逃げるわけ……ないじゃない! やっと……精気にありつけるんだから」
リリスはぎゅっと、その太い腕にしがみついた。
初めて包まれる大きな身体に、胸の高鳴りが収まらない。
「いいのか? サキュバスってのは、精気を色んな男から奪うのが仕事なんじゃないのか?」
「今まで奪えなかったって言ったでしょ! あんたの方こそ大丈夫なの? 一生、私に奪われるんだからね」
「漁師を長年やってる。体力には自信があるが……」 マナトは低く笑う。
「嬢ちゃんの方こそ、奪う奪うと言う割には震えてるぞ?」
図星だった。
意気込みだけはある。なんなら魔界の自室で、本番に向けて練習までしていたくらいだ。
それなのに、こうして抱きしめられるだけで身体が震える。
――サキュバスなのに。
――男を翻弄する側なのに。
「心配するな、嬢ちゃん……」
そう言ったマナトの唇が、ゆっくりとリリスの唇に落ちてくる。
リリスは、そっと瞳を閉じた。
「待って……マナト……」
息も切れ切れに、マナトの身体を手で遠ざけようとする。
押してもびくともしないのは、もう分かっている。それでも力の入らない手で、必死に制止を試みた。
古びたベッドが、二人分の体重を受けてギシギシと軋む。
マナトの太い指が二本、揃えたままリリスの奥に入っている。
動かされてもいないのに、それだけで軽いパニックだった。
練習で何度か納めたユニコーンの角。
――それと、すでに同じくらいの質量を、指なのに感じている。
慣らすように抜き差しされるだけで、そこがはっきりと異物だと訴えてくる。
「マナトの……指、よね?」
確認してしまう。
これが指なら、マナト自身はどんなものなのか――不安で仕方なかった。
「嬢ちゃん。残念ながら指だ。悪いが、俺のはもっとデカい」
喉が、ひゅっと鳴る。
「やめるか?」
その言葉に、リリスは大きく首を横に振った。
――やめる?
そんなわけがない。
ようやく精気にありつける。
しかも、好きな男のそれだ。
絶対に、やめない。
そう思って、マナトの指が抜けないように、その腕ごと掴む。
「やめない! 絶対やめないから! もう大丈夫だから……ひとおもいに、やってちょうだい!」
強がりに、さすがのマナトも苦笑すると、ベッドに寝転び、リリスを横向きに寝かせた。
「嬢ちゃん、とりあえず俺に任せてくれ」
指を入れたまま、もう片方の手が脚の間に差し入れられる。
ツン、と触れられたのは――慣れないリリスでも分かる、はっきりした弱点。
花芽に。
太い指が探り当てるように、くにくにと擦られる。
「あっ……や……そこ、やだ……!」
唇を噛んで耐えていた声が、古びたあばら屋の寝室に響く。
やめて、と叫んでも、やめない。
やめてと言いながら、中に含んだ指をきゅっと締め付けているのだから。
やめる理由が、なかった。
「嬢ちゃん、上手だ。気持ちいいな」
「う、う……ん……いい……」
「そうだ。それでいい。もう少し、気持ちよくなるか?」
もう意味が分からなくなってきて、「なるぅ……」と漏らす。
その瞬間、中も外も一気に動かされる。
あっという間だった。
真っ白な場所へ、無理やり連れて行かれる感覚。
「マナ……ト……やぁ……ああぁ……!」
それが果てたということなのかも分からないまま、ただぼんやりと目の前の男を見つめていた。
引き抜かれた指の代わりに、押し当てられる凶悪な質量。
ぼんやりしていた頭が、少しずつ現実に戻っていく。
「悪い。ちょっと痛いな……」
めりめりと音はしない。
けれど実感は、狭い穴に無理に収まらないものを押し込まれている――それそのものだった。
痛い。
それでも、それでもいい。
マナトだから。
はぁ、はぁ、と大げさなくらい呼吸を繰り返し、ようやくすべてを受け入れたとき、リリスの瞳から涙が溢れていた。
精気を奪っているわけじゃない。
満たされたわけでもない。
それでも、痛みと窮屈さの中にマナトを感じている。
それが、ただ嬉しかった。
「泣くなよ、嬢ちゃん。そんな顔されたら……動けなくなる」
「い、痛いから泣いてるわけじゃないわ……嬉し涙よ……」
「そうか……。それなら良かった。」
髪を撫でられ、マナトの腰がゆっくりと動き出す。
それからは、寄せては返す波に翻弄されるように、リリスは鳴き続けた。
「……嬢ちゃん」
低く、落ち着いた声が、耳元に落ちる。
「まだまだ俺は、ヘロヘロにはならないぞ」
その言葉に、リリスは力なく首を振る。
「……うそ……」
身体が、思うように動かない。
息が浅く、指先まで熱が回っている。
「嬢ちゃんの方が……ヘロヘロみたいだがな」
からかうような声音なのに、手つきはひどく丁寧だった。
トントンと奥を叩きながら腰を揺らすマナトに
揺さぶられっぱなしのリリス。
(……違う……)
頭の中で、必死に否定する。
(私は、奪う側なのに……)
何度も、イメージはしてきた。
ユニコーンの角を削り、形を整え、ひとりで練習もした。
――なのに。
「……練習と、違う……」
思わず、項垂れる。
想定外だった。
重みも、熱も、存在感も。
そんなマナト自身を受け入れてただ揺さぶられている。
粗野な男かと思えば全然そんなことはなく、
リリスの反応するところをよく見て追い上げるための動きを加える。
マナトはそんな男だった。
「そんな顔するな」
マナトは、苦笑するように息を吐いた。
「初めてなら、当たり前だ」
(……初めて)
その言葉が、胸の奥に沈む。
「……もう……食べきれない……」
そう訴える声は、情けないほど弱かった。
「そう言うな」
返ってきた声は、静かで、揺るがない。
「まだ、足りてねぇ。俺はもっと嬢ちゃんを腹いっぱいにしたい。」
(足りない……?)
精気のはずだった。
糧のはずだった。
それなのに――
与えられている。
止めどなく、注がれている。
「……どっちなの……」
精気なのか。
それとも、別のものなのか。
「……わかんない……」
リリスは、もう考えることをやめた。
ただ、受け取るしかなかった。
温かく、満ちていく感覚に、身を委ねるしかなかった。
奪うつもりだったはずの夜は、
いつの間にか――
与えられる夜に、変わっていた。
それが精気なのか、
愛情なのか。
その区別がつかなくなった頃には、
リリスは、ただ静かに息をついていた。
もう何も考えられなくなる位の頭で、涙が自然と溢れてくる。
初めて満たされている
精気で
愛情で。
マナトの腕にしがみついた。
最初で最後の人。
これからもリリスを満たしてくれる人。
「ずっと……ちょうだいね」
精気も。
愛情も。
思わずそう呟いていた。
「……嬢ちゃん」
最後に聞こえた声は、
驚くほど優しかった。
薄い朝の光が、破れかけたカーテンの隙間から差し込んでいた。
潮の匂いが、まだ寝室に残っている。
きしむベッドの上。
重なったままの体温が、名残惜しそうに離れない。
「……嬢ちゃん」
低く、寝起きの声。
リリスは、まだ半分夢の中にいるような頭で瞬きをした。
頬の下には、マナトの腕。
背中には、ぬくもり。
「嬢ちゃんは……サキュバスとか言ってたな?」
「……そ、そうよ」
掠れた声で答える。
「魔界から来たの」
マナトは、少し黙ってから続けた。
「そのサキュバスってのは……長生きなのか?」
唐突な問いに、リリスは首を傾げる。
動かすと、身体のあちこちがまだ鈍く主張した。
「え……?
ま、まあ……普通の人間よりは長生きなんじゃない?
おばあさまは、もうすぐ百八十だとか言ってたし……」
マナトの胸が、小さく上下する。
「……そうか」
その声は、どこか安堵を含んでいた。
「それなら……俺より先に死なねぇな。
よかった……」
「……え?」
意味が分からず、声が裏返る。
マナトは、リリスの髪に顔を埋めるようにして、ゆっくりと続けた。
「俺はな、妻を早くに亡くしてる」
淡々としているのに、重みのある声。
「もう一人で生きていくって、決めてた。
あんなに辛い思いは、もうしたくねぇからな」
「……マナト……」
名前を呼ぶと、彼はほんの少しだけ腕に力を込めた。
「でもな」
一拍。
「嬢ちゃんが……俺より長く生きてくれるんなら」
間を置いて。
「あんたの伴侶になってもいい」
「……え?」
頭が、ついていかない。
「……何の話?」
すると、マナトは不思議そうに眉を上げた。
「昨日の夜、泣きながら言ってただろ?」
「……?」
記憶が、途切れ途切れだ。
熱と、安心と、満たされる感覚だけが残っていて――
言葉までは、はっきりしない。
「私は半人前のサキュバスだって」
胸が、きゅっと縮む。
「母親にも、姉妹にも、誰にも認められないって」
思い出す。
確かに、言った気がする。
「だから……見返したいって」
マナトは、静かに、でも確かにそう言った。
「精気を奪うだけじゃなくて――
夫まで、見つけてきたって」
「……ちょ、ちょっと待って」
慌てて身を起こそうとして、力が抜ける。
「それ、そんな意味じゃ……!」
「違うのか?」
「……」
言葉に詰まる。
違う、と即答できなかった。
(……奪えなかった精気も……
与えられた温もりも……
ここに居たいって思ったのも……)
全部、事実だった。
マナトは、急かさなかった。
「すぐ答えろとは言わねぇ」
そう言って、ゆっくりと起き上がる。
「腹、減ってないか?」
いつも通りの声。
「魚、まだある」
シーツ越しに伸ばされたその背中を見つめながら、リリスは思う。
――魔界に戻る条件は、
“人間から精気を奪うこと”。
でも。
精気だけじゃなく、
居場所まで与えられてしまったら。
それはもう――
帰れない、のかもしれない。
魔界の空は、相変わらず赤黒かった。
久しぶりに戻ってきたというのに、胸は少しも躍らない。
それどころか、胃の奥がきりきりと痛む。
(……どう説明すればいいのよ、これ)
隣を見ると、マナトはきょろきょろと辺りを見回していた。
「へぇ……ここが魔界か」
「空、妙な色してんな。港町とはえらい違いだ」
「……ちょっとは緊張して」
「なんで? 嬢ちゃんの里帰りだろ」
完全に観光気分。
――なのに、玉座へ続く回廊に入った瞬間、空気が変わった。
肌が粟立つ。
呼吸が、ほんの少しだけ重くなる。
これが――“女王”の気配。
扉が開く。玉座の間。
女王レリーアと、二人の娘――姉のルシア、妹のローゼが並んでいる。
「……リリス」
母の声は、冷たかった。
あの日と同じ。
リリスは深く息を吸い、膝をついた。
「ご命令の通り、人間界へ赴きました」
口の中が渇く。
それでも、逃げない。
「人間の精気を――得ました」
その言葉と同時に、胸の奥が熱を帯びた。
昨夜、あふれるほど注がれた“それ”が、まだ身体の芯に残っている。
魔力の巡りが、今までと違う。
息をするだけで、世界が少し鮮明だった。
母は目を細め、値踏みするように見下ろす。
「……嘘ではないわね」
「まぁ」
姉が口元を押さえて笑う。
「やっと半人前、ってところ?」
「遅すぎるくらいですわ」
妹も、くすりと笑う。
胸がちくりと痛む。
けれど、今回は飲み込まれない。
「褒め言葉はいりません」
自分の声が思ったより落ち着いていて、リリスは少し驚いた。
「私は“報告”に参りました」
「もう聞いたわよ」
母が退屈そうに顎を上げる。
「違います」
リリスは顔を上げた。
「報告は、それだけではありません」
一瞬、間。
「私は、人間の男――マナトを」
隣に立つ男の名前を、確かに口にする。
「伴侶にしました」
ざわ、と空気が揺れた。
姉妹の笑いが止まる。
「そして……」
胸に手を当てる。
「私は、――人間界で暮らします」
「……は?」
姉の声が素に戻る。
母の瞳が、冷たく光る。
「戻ることを許す、と言っただけよ。
戻らぬ選択など――」
「可能です」
リリスは、はっきり言い切る。
「私は精気を得ました。条件は満たしました」
「その上で、私が選ぶのは――“帰る場所”です」
静寂。
その静けさの中で、マナトが小さく息を吐いた。
「……嬢ちゃん?」
困惑した声。
当たり前だ。マナトは覚悟していた。
伴侶になると言った以上、魔界へ来る覚悟を。
――なのに、今度は“戻らない”と告げられたのだから。
リリスは、ちらりと彼を見る。
そして、ふっと笑った。
「マナト。私、魚を気に入ったの」
「……は?」
「美味しいじゃない?」
魔界を見渡して、肩をすくめる。
「ここには海もないし、魚もいない。
あんた、どうやって漁師を続けるの?」
一拍。
「それに……」
リリスは、少しだけ声を落とす。
「私のご飯は、魚だけじゃない」
マナトを見る。
「いっぱい、食べさせてくれるんでしょ?」
精気。温もり。
与えられるものすべて。
「だったら――私が、あんたのところへ行けばいいだけじゃない?」
しばしの沈黙のあと。
マナトは、ふっと息を吐いて笑った。
「……ああ」
一歩、近づく。
大きな手が、リリスの手を取る。
「嬢ちゃんが決めたなら、俺はいい」
「腹いっぱいになるまで――魚も、“俺”も、食わせてやるよ」
母と姉妹が、呆然と見守る中。
サキュバス姫は、ついに“奪う場所”ではなく、
“帰る場所”を選んだ。
サキュバスなのに、処女。
それが、リリスだった。
空腹だった。
腹の奥が、ひどく静かで、冷たい。
精気を糧とする一族に生まれながら、
彼女は一度も、人間からそれを奪ったことがない。
処女だから――練習している。
それを誰かに言えば笑われることくらい、リリスにも分かっていた。
けれど、いきなり本番など、怖くてできるはずがなかった。
私室の奥で、彼女は息を止めるようにして、それを手に取った。
ユニコーンの角を削って作ったもの。
先を丸く身体を傷つけることがないように。
もちろん形は男性器を模して、だ。
処女に懐くとされる、伝説の獣。
処女に優しいってことよね?
それならきっと私の中にも……
寝台に寝転んで、そっとそれをリリスは自分の脚の奥にあてがう。
押し込もうとするその手が震える。
(……ここ、よね)
視線を落とし、恐る恐る位置を確かめる。
一気には無理だ。
本能が、全力で拒んでいる。
「……だ、大丈夫……これは……練習……」
誰に言い訳するでもなく呟き、そっと近づけて――
思わず肩が跳ねた。
(……無理……!)
慌てて引っ込め、胸を押さえる。
「……本番で失敗するよりは……」
言い訳だけが、増えていく。
精気は得られず、
自信も得られず。
サキュバス姫リリスは、
今日も“まだ”のままだった。
玉座の間は、いつもより広く感じた。
「……リリス」
母――女王レリーアの声は、冷たかった。
「まだ、なのね」
「……はい……」
「精気も奪えぬサキュバスの娘など、魔界には不要よ」
淡々と、宣告される。
「人間界へ行きなさい。
無事に人間から精気を奪えた暁には、戻ることを許すわ」
胸が、きゅっと縮む。
その沈黙を裂くように、笑い声が上がった。
「ふふ……ねぇ、リリス」
姉のルシアが、楽しそうに首を傾げる。
「なんならさぁ――伴侶でも見つけてきたら?」
「お姉様っ」
妹のローゼが、口元を押さえて笑う。
「リリスお姉様は、精気“さえ”奪えないんですのよ?
それで伴侶だなんて……ぷっ」
「人間の男って、優しいのもいるらしいし?」
「食べさせてもらうだけなら、できそうですわね」
出来のいい姉妹の、余裕ある嘲笑。
リリスは、拳を強く握った。
(……見てなさい)
(奪ってやる。精気も、そして一人前だって証明してみせる……)
魔界の門を抜けた瞬間、空気が変わった。
ここが、人間界。
乾いた風が頬を打つ。
(……お腹、すいた)
精気の欠乏は、もう誤魔化せない。
「……やるしか、ないでしょ」
小さく呟く。
「奪えるわよ。
練習だって……してきたんだから」
人間の街が、遠くに見えた。
灯りが、ぽつぽつと瞬いている。
あそこに、人がいる。
精気を持つ男がいる。
「……狩りよ」
リリスは背筋を伸ばし、歩き出した。
奪う側になる。
一人前になる。
そう信じて。
サキュバス姫リリスは、人間界へと足を踏み出す。
港は、潮の匂いで満ちていた。
人間界に来て最初に辿り着いた場所が、ここだったのは偶然だ。
魔界にはない、海の匂い。
潮の香りと、波の揺らめき。
ざぶん、と寄せては引く波音が、どこか心地いい。
しばらくその音に耳を澄ませてから、
リリスははっと我に返り、辺りを見回した。
(……いた)
網を干す男が一人。
着ているものは粗末で、色もくすんでいる。
貴族や商人の街で見た、整った服とはまるで違う。
――なのに。
(……なに、あの身体)
腕を上げるたび、筋がはっきりと浮かぶ。
無駄のない動き。
慣れた所作。
日に焼けた肌は、野暮ったいどころか、
不思議と“逞しい”という言葉がしっくりきた。
(漁師……ね)
年の頃は、三十を少し超えたくらいだろうか。
人間の年齢は、魔界の感覚では掴みにくい。
リリスは、人間界に溶け込むため、人間の娘に擬態している。
最も誘惑が成功しやすいとされる、二十代前半の姿。
そのリリスより、十は年上に見える男。
(あの歳で一人……ということは)
慎重に、距離を測る。
(ああいう男は、きっと女に飢えてる)
貧相な身なり。
一人で働いている様子。
(誘惑すれば、簡単よ)
自分に言い聞かせるように、胸を張る。
(精気を奪って、一人前になる……)
狩りの相手として、申し分ない。
「……ねぇ」
海風に乗せて、声をかける。
男が振り返った。
「ん?」
近くで見ると、顔立ちは穏やかだった。
警戒はしているが、下卑た色はない。
(……想定外)
けれど、引くわけにはいかない。
「一人……ですか?」
伏せ目がちに、距離を詰める。
肩を少しだけさらし、海風に身を任せる。
晩夏の夜。
薄手のブラウスから、胸元がちらりとのぞく。
リリスはサキュバスだ。
処女ではあるが、その身体は男を誘惑するためのもの。
膨らんだ胸。
きゅっと締まったウエスト。
男を安心させる、丸みのある腰。
見た目だけなら、どんな男も落とせるはずだった。
――なのに。
「薄着すぎるぞ」
男はそう言って、眉をひそめた。
次の瞬間、肩に重み。
「……え?」
上着が、そっと掛けられている。
「嬢ちゃん、夜の海風は冷てぇ。
腹、壊すぞ」
心配そうな声音。
(……違う、そうじゃない)
誘惑のつもりが、防寒対策になっている。
「だ、大丈夫よ……」
言いかけたところで、
男は、彼女の腹の鳴る音に気づいた。
「……腹、減ってるな」
図星だった。
「ほら」
焚き火のそばへ促され、
いつの間にか、魚が焼かれている。
「売り物にならねぇやつだけどな。
形が悪いだけで、普通に食える」
差し出された魚は、温かく、香ばしかった。
(……違う。
食べたいのは、こんなものじゃないはずなのに)
気づけば、無言でかじりついている。
(……おいしい)
精気じゃない。
それなのに、身体が満たされていく。
「……どうして、こんなことするの?」
思わず、聞いてしまった。
男は、肩をすくめる。
「困ってるやつを、放っとけねぇだけだ」
それだけ。
欲も、下心も、感じられない。
(……なに、それ)
(……やりにくい……)
名前を聞くと、男は簡単に答えた。
「マナトだ」
「……私は、リリス」
それからの時間は、奇妙だった。
本当は、狩りのはずだった。
誘惑して、虜にして、奪う。
――なのに。
歩けば、足元を気にされる。
寒ければ、火の位置を直される。
黙れば、魚を焼かれる。
触れられない。
踏み込んでこない。
(……あれ?)
焚き火を見つめながら、ふと気づく。
(私……何しに来たんだっけ)
精気。
狩り。
それよりも――
「……ねぇ」
口から出た言葉に、自分で驚く。
「また……来てもいい?」
マナトは少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「ああ。
危なくなけりゃな。こんな魚なら腐るほどある。
また食いに来いよ」
それだけなのに。
胸の奥が、妙に温かかった。
サキュバス姫リリスは、
この時すでに――
“奪う話”から、静かに外れ始めていた。
次の日も、そのまた次の日も。
リリスは海を訪れた。
漁師であるマナトの朝は早い。
漁を終え、港へ戻ってきた彼を、リリスは同じ場所で待つ。
一仕事を終えたマナトは、リリスの姿を見つけると、少しだけ目を丸くした。
社交辞令を真に受けた、という戸惑いではない。
本当に来たのか、という素直な驚きの顔だった。
「おお、嬢ちゃん。今日は魚だけじゃなく、タコもあるぞ。食うか?」
まるで餌付けでもするかのように、気軽に声をかける。
そして当然のように、こっちへ来いと手で示した。
マナトの家は、古びた木製のあばら屋だった。
潮の匂いが染みついた、いかにも漁師の家。
リリスが目をつけた通り、男の一人暮らしらしい。
中を見回しても殺風景で、漁に使う網や道具が目立つばかり。
飾り気も、生活の華やぎもない。
「……一人暮らし、なの?」
分かってはいたが、念のために聞く。
リリスはサキュバスだが、妻や恋人のいる男から奪おうとは思っていなかった。
誓い合った者同士を引き裂くような火種を蒔くつもりはない。
――そんな甘さこそが、
彼女がいまだ処女であり、
母や姉たちのように魔界に染まりきれない理由の一つでもあった。
「そうだな……。今は、一人で暮らしてる」
マナトの答えは、どこか歯切れが悪かった。
だが、リリスは深く考えない。
(……一人、なのね)
胸の奥で、ほっとするような、
それでいて少し後ろめたい感情が芽生える。
囲炉裏に火が入れられ、ぱちぱちと音を立て始める。
マナトがバケツの蓋を外すと、水を張った中から、にょろりと何かが動いた。
「ひぃっ!!」
リリスは思わず声を上げる。
「ク、クラーケンのちっちゃいのじゃない!!」
バケツからはみ出したタコの足が、こちらへ寄ってくるように見えた。
「クラーケン? なんだ、そりゃ?」
魔界に海はない。
だが、クラーケンという異形の化物は確かに存在する。
それに似た生き物を前に、リリスは反射的にマナトの手をぎゅっと掴んでしまった。
「なんだ? 嬢ちゃん、タコ嫌いか?
コリコリしてて美味いんだけどな」
「そ、そんなの絶対美味しくないわ!
魚、魚にしてちょうだい!」
その必死な様子に、マナトは声を上げて笑い、
タコをバケツに押し戻して、再び蓋をした。
リリスは、ほっと息をつく。
そんな穏やかな日が、何日も続いた。
空腹は、完全には満たされない。
それでも、マナトに焼いてもらう魚を食べると、
少しだけ、その渇きが遠のく気がした。
精気ではない。
任務でもない。
ただ、
この男と同じ火を囲み、
同じ時間を過ごすことが――
心地よかった。
サキュバスとしての目的は、
いつの間にか、潮の匂いに紛れていた。
それは、ほんの些細な違和感からだった。
いつものように囲炉裏の火を囲み、
魚を焼き、
他愛のない話をしていた、その途中。
リリスが、無意識に距離を詰めていた。
寒いわけでもないのに、
気づけば、マナトのすぐ隣。
袖が触れる。
肩が、わずかに当たる。
それは、自然にそうなっていた。
マナトを誘惑してやろうという気持ちではない。
ただ、隣にいたいという気持ち。
――それだけ。
それだけなのに。
マナトの手が、一瞬止まった。
「……嬢ちゃん」
低い声。
リリスは顔を上げる。
「なに?」
そこにあったのは、
いつもの穏やかな眼差しではなかった。
困ったような、
それでいて、どこか覚悟を決めた目。
「……最近、近いな」
胸が、きゅっと鳴る。
「だって……」
言い訳を探そうとして、言葉が詰まる。
マナトは、焚き火から視線を外さずに続けた。
「勘違いさせるようなこと、
俺がしてたなら悪かった」
その一言で、
胸の奥が、すとんと落ちた。
「……どういう、意味?」
声が、少しだけ震える。
マナトは、ゆっくりと息を吐く。
「俺はな」
少し間を置いて。
「もう、誰かと恋をするつもりはない」
柔らかいのに、はっきりした声。
「妻を早くに亡くした。
一人で生きるって、決めてる」
――そういえば。
以前、一人暮らしなのかと聞いた時、
マナトの言葉は、どこか歯切れが悪かった。
何もない家。
漁の道具しかない、殺風景な家だと思っていた。
けれど、よく見れば。
壁には、センスのいいドライフラワー。
引き出しには、丁寧に貼られたラベル。
そして――
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
リリスに振る舞われていた、あのマグカップ。
「悪い。これしか無くてな」と出されたそれは、
ピンク色の花柄で、どう見ても女性ものだった。
特に気にも留めていなかった。
けれど、今なら分かる。
あれも、これも。
ここに“誰か”がいた痕だった。
火が、ぱちりと鳴る。
「困ってるから、世話をしただけだ。
嬢ちゃん……そういう風に思われるのは、困る」
拒絶だった。
けれど、突き放す拒絶ではない。
線を引くための拒絶。
リリスは、言葉を失ったまま俯く。
(……ああ)
(そう、よね)
胸が、じわじわと冷えていく。
奪うつもりだった。
誘惑するつもりだった。
――なのに。
いつの間にか、
選ばれる側の気持ちになっていた。
「……ごめんなさい」
やっと絞り出した声は、
驚くほど小さかった。
マナトは、ちらりとこちらを見て、
それ以上、何も言わなかった。
その日から。
マナトは、必要以上に近づかなくなった。
魚は焼いてくれる。
言葉も、変わらない。
けれど。
距離だけが、はっきりと残る。
肩は触れない。
手も、取らない。
(……ばか)
(私は、サキュバスなのに)
精気を奪うどころか、
心を持っていかれて。
しかも――
それを拒まれている。
囲炉裏の火を見つめながら、
リリスは小さく膝を抱えた。
胸が、ひどく痛む。
空腹とは、違う。
これが――
失恋なのだと、
彼女は初めて知った。
それでも――
その沈黙に、耐えきれなくなったのは、リリスの方だった。
囲炉裏の火が小さく揺れる。
その光の中で、マナトの横顔は変わらない。
変わらないまま、
距離だけが、遠い。
「……ねぇ」
呼びかけても、返事は短い。
それが――
どうしようもなく、腹立たしかった。
「……なんなのよ、それ」
声が、少し荒れる。
「優しくしておいて、
こっちが好きになったら、いまさら距離取って……
困るって……」
マナトが、困ったように眉を寄せる。
「嬢ちゃん……」
「違う!」
リリスは勢いよく立ち上がった。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出す。
「私はね、
最初から“困ってた”のよ!
あんたなんかより、私の方がずっと“困って”た!」
マナトが、目を瞬かせる。
「私はサキュバスなの!」
吐き出すように告げた。
「精気を奪うために、人間界に来た!
半人前だって笑われて、追い出されて!」
息が、荒くなる。
「それなのに……
あんたは、魚ばっかり食べさせて……」
ぎゅっと拳を握る。
「……奪うはずだったのに」
声が、震える。
「気づいたら……
私の方が……」
言葉が、途切れた。
マナトは、黙ってリリスを見ていた。
「……だから」
睨みつけるように続ける。
「今さら“困る”なんて言われても、遅いの!」
もう、ヤケクソだった。
精気も奪えないまま、恋をして、
挙げ句の果てに失恋しかけて。
魚だけでは満たされない、
飢餓にも似た空腹を抱えたまま。
リリスは、誘惑など忘れて、
囲炉裏のそばでマナトの腕を押さえつけた。
必死の訴えとしか言いようのない、
リリスの“本気”。
だが、逞しい筋肉に覆われた漁師の身体は、びくともしない。
ただ、その必死な姿を、静かに見つめていた。
「……サキュバス?」
必死さは伝わっている。
けれど、聞き慣れない言葉に戸惑いが滲む。
「そうよ。私はサキュバスなの」
唇が、震える。
「魚なんか、いらないの」
違う。
マナトに焼いてもらった魚は、美味しかった。
マナトと一緒だったから、美味しかったのだ。
「魚なんかいらないから……
精気を、よこしなさいよ!」
言葉は強気だったが、声は震えていた。
「……精気?」
マナトは首を傾げる。
「それは、どうやってよこすんだ?
嬢ちゃんに」
「そ、それは……」
喉が詰まる。
「……セッ……セックス、とか……」
言い切れなかった。
途端に、耳まで熱くなる。
処女だという事実が、重くのしかかる。
沈黙。
「嬢ちゃん」
マナトが、静かに言った。
「それは……
俺に、あんたを抱けってことか?」
「……そ、そうよ」
絞り出すように答えると、
マナトはしばらく黙り込んだ。
焚き火を見つめたまま、ぽつりと。
「俺はな」
低い声。
「抱いた女に、情が移る」
リリスは、息を止める。
「妻を先に亡くしてる。
だから、もう軽い気持ちじゃ抱けねぇ」
一つずつ、考えるように言葉を選びながら。
それでも、譲らない意思ははっきりしていた。
「俺が嬢ちゃんを抱くなら、
あんたの旦那面するぞ」
真っ直ぐな視線。
「他の男に目移りなんて、許さない。
嬢ちゃんが欲しいって言う精気も……俺からだけだ」
間を置いて、問いかける。
「それでも、いいのか?」
「……へ?」
あまりに予想外で、間抜けな声が出た。
「……そ、そんなの……」
拳を握りしめる。
「今までだって、誰からも奪えてないんだから……
あんた以外から奪えるわけ、ないじゃない」
マナトは一瞬、呆けた顔をして――
小さく笑った。
「……そうか」
「威張ることか? それは」
「威張ってないわよ!」
顔を真っ赤にして言い返す。
「マナト、あんたこそ……
私に精気吸われきって、ヘロヘロになる覚悟しなさいよ!」
「なんだ、そりゃ」
可笑しそうに息を吐き、マナトは立ち上がる。
焚き火の向こうから、ゆっくりと近づいた。
「じゃあ……嬢ちゃん」
低く、穏やかな声。
「腹いっぱい、食わせてやるよ」
指先が、そっとリリスの顎に触れる。
「たんと、味わえ」
それは、奪う言葉ではなかった。
与えると決めた男の声だった。
――サキュバス姫の“姫はじめ”は、
奪うことではなく、
与えられることから始まる。
「嬢ちゃん、最終確認だ。逃げるなら今だぞ」
逞しい腕が、リリスの身体を包む。
初めてマナトを見たとき、野暮ったいと思った姿が嘘のように凛々しく見えた。
少しだけ残る無精ひげ。日に焼けた肌。
整えられてもいない髪なのに、その野性味とよく似合っている。
「逃げるわけ……ないじゃない! やっと……精気にありつけるんだから」
リリスはぎゅっと、その太い腕にしがみついた。
初めて包まれる大きな身体に、胸の高鳴りが収まらない。
「いいのか? サキュバスってのは、精気を色んな男から奪うのが仕事なんじゃないのか?」
「今まで奪えなかったって言ったでしょ! あんたの方こそ大丈夫なの? 一生、私に奪われるんだからね」
「漁師を長年やってる。体力には自信があるが……」 マナトは低く笑う。
「嬢ちゃんの方こそ、奪う奪うと言う割には震えてるぞ?」
図星だった。
意気込みだけはある。なんなら魔界の自室で、本番に向けて練習までしていたくらいだ。
それなのに、こうして抱きしめられるだけで身体が震える。
――サキュバスなのに。
――男を翻弄する側なのに。
「心配するな、嬢ちゃん……」
そう言ったマナトの唇が、ゆっくりとリリスの唇に落ちてくる。
リリスは、そっと瞳を閉じた。
「待って……マナト……」
息も切れ切れに、マナトの身体を手で遠ざけようとする。
押してもびくともしないのは、もう分かっている。それでも力の入らない手で、必死に制止を試みた。
古びたベッドが、二人分の体重を受けてギシギシと軋む。
マナトの太い指が二本、揃えたままリリスの奥に入っている。
動かされてもいないのに、それだけで軽いパニックだった。
練習で何度か納めたユニコーンの角。
――それと、すでに同じくらいの質量を、指なのに感じている。
慣らすように抜き差しされるだけで、そこがはっきりと異物だと訴えてくる。
「マナトの……指、よね?」
確認してしまう。
これが指なら、マナト自身はどんなものなのか――不安で仕方なかった。
「嬢ちゃん。残念ながら指だ。悪いが、俺のはもっとデカい」
喉が、ひゅっと鳴る。
「やめるか?」
その言葉に、リリスは大きく首を横に振った。
――やめる?
そんなわけがない。
ようやく精気にありつける。
しかも、好きな男のそれだ。
絶対に、やめない。
そう思って、マナトの指が抜けないように、その腕ごと掴む。
「やめない! 絶対やめないから! もう大丈夫だから……ひとおもいに、やってちょうだい!」
強がりに、さすがのマナトも苦笑すると、ベッドに寝転び、リリスを横向きに寝かせた。
「嬢ちゃん、とりあえず俺に任せてくれ」
指を入れたまま、もう片方の手が脚の間に差し入れられる。
ツン、と触れられたのは――慣れないリリスでも分かる、はっきりした弱点。
花芽に。
太い指が探り当てるように、くにくにと擦られる。
「あっ……や……そこ、やだ……!」
唇を噛んで耐えていた声が、古びたあばら屋の寝室に響く。
やめて、と叫んでも、やめない。
やめてと言いながら、中に含んだ指をきゅっと締め付けているのだから。
やめる理由が、なかった。
「嬢ちゃん、上手だ。気持ちいいな」
「う、う……ん……いい……」
「そうだ。それでいい。もう少し、気持ちよくなるか?」
もう意味が分からなくなってきて、「なるぅ……」と漏らす。
その瞬間、中も外も一気に動かされる。
あっという間だった。
真っ白な場所へ、無理やり連れて行かれる感覚。
「マナ……ト……やぁ……ああぁ……!」
それが果てたということなのかも分からないまま、ただぼんやりと目の前の男を見つめていた。
引き抜かれた指の代わりに、押し当てられる凶悪な質量。
ぼんやりしていた頭が、少しずつ現実に戻っていく。
「悪い。ちょっと痛いな……」
めりめりと音はしない。
けれど実感は、狭い穴に無理に収まらないものを押し込まれている――それそのものだった。
痛い。
それでも、それでもいい。
マナトだから。
はぁ、はぁ、と大げさなくらい呼吸を繰り返し、ようやくすべてを受け入れたとき、リリスの瞳から涙が溢れていた。
精気を奪っているわけじゃない。
満たされたわけでもない。
それでも、痛みと窮屈さの中にマナトを感じている。
それが、ただ嬉しかった。
「泣くなよ、嬢ちゃん。そんな顔されたら……動けなくなる」
「い、痛いから泣いてるわけじゃないわ……嬉し涙よ……」
「そうか……。それなら良かった。」
髪を撫でられ、マナトの腰がゆっくりと動き出す。
それからは、寄せては返す波に翻弄されるように、リリスは鳴き続けた。
「……嬢ちゃん」
低く、落ち着いた声が、耳元に落ちる。
「まだまだ俺は、ヘロヘロにはならないぞ」
その言葉に、リリスは力なく首を振る。
「……うそ……」
身体が、思うように動かない。
息が浅く、指先まで熱が回っている。
「嬢ちゃんの方が……ヘロヘロみたいだがな」
からかうような声音なのに、手つきはひどく丁寧だった。
トントンと奥を叩きながら腰を揺らすマナトに
揺さぶられっぱなしのリリス。
(……違う……)
頭の中で、必死に否定する。
(私は、奪う側なのに……)
何度も、イメージはしてきた。
ユニコーンの角を削り、形を整え、ひとりで練習もした。
――なのに。
「……練習と、違う……」
思わず、項垂れる。
想定外だった。
重みも、熱も、存在感も。
そんなマナト自身を受け入れてただ揺さぶられている。
粗野な男かと思えば全然そんなことはなく、
リリスの反応するところをよく見て追い上げるための動きを加える。
マナトはそんな男だった。
「そんな顔するな」
マナトは、苦笑するように息を吐いた。
「初めてなら、当たり前だ」
(……初めて)
その言葉が、胸の奥に沈む。
「……もう……食べきれない……」
そう訴える声は、情けないほど弱かった。
「そう言うな」
返ってきた声は、静かで、揺るがない。
「まだ、足りてねぇ。俺はもっと嬢ちゃんを腹いっぱいにしたい。」
(足りない……?)
精気のはずだった。
糧のはずだった。
それなのに――
与えられている。
止めどなく、注がれている。
「……どっちなの……」
精気なのか。
それとも、別のものなのか。
「……わかんない……」
リリスは、もう考えることをやめた。
ただ、受け取るしかなかった。
温かく、満ちていく感覚に、身を委ねるしかなかった。
奪うつもりだったはずの夜は、
いつの間にか――
与えられる夜に、変わっていた。
それが精気なのか、
愛情なのか。
その区別がつかなくなった頃には、
リリスは、ただ静かに息をついていた。
もう何も考えられなくなる位の頭で、涙が自然と溢れてくる。
初めて満たされている
精気で
愛情で。
マナトの腕にしがみついた。
最初で最後の人。
これからもリリスを満たしてくれる人。
「ずっと……ちょうだいね」
精気も。
愛情も。
思わずそう呟いていた。
「……嬢ちゃん」
最後に聞こえた声は、
驚くほど優しかった。
薄い朝の光が、破れかけたカーテンの隙間から差し込んでいた。
潮の匂いが、まだ寝室に残っている。
きしむベッドの上。
重なったままの体温が、名残惜しそうに離れない。
「……嬢ちゃん」
低く、寝起きの声。
リリスは、まだ半分夢の中にいるような頭で瞬きをした。
頬の下には、マナトの腕。
背中には、ぬくもり。
「嬢ちゃんは……サキュバスとか言ってたな?」
「……そ、そうよ」
掠れた声で答える。
「魔界から来たの」
マナトは、少し黙ってから続けた。
「そのサキュバスってのは……長生きなのか?」
唐突な問いに、リリスは首を傾げる。
動かすと、身体のあちこちがまだ鈍く主張した。
「え……?
ま、まあ……普通の人間よりは長生きなんじゃない?
おばあさまは、もうすぐ百八十だとか言ってたし……」
マナトの胸が、小さく上下する。
「……そうか」
その声は、どこか安堵を含んでいた。
「それなら……俺より先に死なねぇな。
よかった……」
「……え?」
意味が分からず、声が裏返る。
マナトは、リリスの髪に顔を埋めるようにして、ゆっくりと続けた。
「俺はな、妻を早くに亡くしてる」
淡々としているのに、重みのある声。
「もう一人で生きていくって、決めてた。
あんなに辛い思いは、もうしたくねぇからな」
「……マナト……」
名前を呼ぶと、彼はほんの少しだけ腕に力を込めた。
「でもな」
一拍。
「嬢ちゃんが……俺より長く生きてくれるんなら」
間を置いて。
「あんたの伴侶になってもいい」
「……え?」
頭が、ついていかない。
「……何の話?」
すると、マナトは不思議そうに眉を上げた。
「昨日の夜、泣きながら言ってただろ?」
「……?」
記憶が、途切れ途切れだ。
熱と、安心と、満たされる感覚だけが残っていて――
言葉までは、はっきりしない。
「私は半人前のサキュバスだって」
胸が、きゅっと縮む。
「母親にも、姉妹にも、誰にも認められないって」
思い出す。
確かに、言った気がする。
「だから……見返したいって」
マナトは、静かに、でも確かにそう言った。
「精気を奪うだけじゃなくて――
夫まで、見つけてきたって」
「……ちょ、ちょっと待って」
慌てて身を起こそうとして、力が抜ける。
「それ、そんな意味じゃ……!」
「違うのか?」
「……」
言葉に詰まる。
違う、と即答できなかった。
(……奪えなかった精気も……
与えられた温もりも……
ここに居たいって思ったのも……)
全部、事実だった。
マナトは、急かさなかった。
「すぐ答えろとは言わねぇ」
そう言って、ゆっくりと起き上がる。
「腹、減ってないか?」
いつも通りの声。
「魚、まだある」
シーツ越しに伸ばされたその背中を見つめながら、リリスは思う。
――魔界に戻る条件は、
“人間から精気を奪うこと”。
でも。
精気だけじゃなく、
居場所まで与えられてしまったら。
それはもう――
帰れない、のかもしれない。
魔界の空は、相変わらず赤黒かった。
久しぶりに戻ってきたというのに、胸は少しも躍らない。
それどころか、胃の奥がきりきりと痛む。
(……どう説明すればいいのよ、これ)
隣を見ると、マナトはきょろきょろと辺りを見回していた。
「へぇ……ここが魔界か」
「空、妙な色してんな。港町とはえらい違いだ」
「……ちょっとは緊張して」
「なんで? 嬢ちゃんの里帰りだろ」
完全に観光気分。
――なのに、玉座へ続く回廊に入った瞬間、空気が変わった。
肌が粟立つ。
呼吸が、ほんの少しだけ重くなる。
これが――“女王”の気配。
扉が開く。玉座の間。
女王レリーアと、二人の娘――姉のルシア、妹のローゼが並んでいる。
「……リリス」
母の声は、冷たかった。
あの日と同じ。
リリスは深く息を吸い、膝をついた。
「ご命令の通り、人間界へ赴きました」
口の中が渇く。
それでも、逃げない。
「人間の精気を――得ました」
その言葉と同時に、胸の奥が熱を帯びた。
昨夜、あふれるほど注がれた“それ”が、まだ身体の芯に残っている。
魔力の巡りが、今までと違う。
息をするだけで、世界が少し鮮明だった。
母は目を細め、値踏みするように見下ろす。
「……嘘ではないわね」
「まぁ」
姉が口元を押さえて笑う。
「やっと半人前、ってところ?」
「遅すぎるくらいですわ」
妹も、くすりと笑う。
胸がちくりと痛む。
けれど、今回は飲み込まれない。
「褒め言葉はいりません」
自分の声が思ったより落ち着いていて、リリスは少し驚いた。
「私は“報告”に参りました」
「もう聞いたわよ」
母が退屈そうに顎を上げる。
「違います」
リリスは顔を上げた。
「報告は、それだけではありません」
一瞬、間。
「私は、人間の男――マナトを」
隣に立つ男の名前を、確かに口にする。
「伴侶にしました」
ざわ、と空気が揺れた。
姉妹の笑いが止まる。
「そして……」
胸に手を当てる。
「私は、――人間界で暮らします」
「……は?」
姉の声が素に戻る。
母の瞳が、冷たく光る。
「戻ることを許す、と言っただけよ。
戻らぬ選択など――」
「可能です」
リリスは、はっきり言い切る。
「私は精気を得ました。条件は満たしました」
「その上で、私が選ぶのは――“帰る場所”です」
静寂。
その静けさの中で、マナトが小さく息を吐いた。
「……嬢ちゃん?」
困惑した声。
当たり前だ。マナトは覚悟していた。
伴侶になると言った以上、魔界へ来る覚悟を。
――なのに、今度は“戻らない”と告げられたのだから。
リリスは、ちらりと彼を見る。
そして、ふっと笑った。
「マナト。私、魚を気に入ったの」
「……は?」
「美味しいじゃない?」
魔界を見渡して、肩をすくめる。
「ここには海もないし、魚もいない。
あんた、どうやって漁師を続けるの?」
一拍。
「それに……」
リリスは、少しだけ声を落とす。
「私のご飯は、魚だけじゃない」
マナトを見る。
「いっぱい、食べさせてくれるんでしょ?」
精気。温もり。
与えられるものすべて。
「だったら――私が、あんたのところへ行けばいいだけじゃない?」
しばしの沈黙のあと。
マナトは、ふっと息を吐いて笑った。
「……ああ」
一歩、近づく。
大きな手が、リリスの手を取る。
「嬢ちゃんが決めたなら、俺はいい」
「腹いっぱいになるまで――魚も、“俺”も、食わせてやるよ」
母と姉妹が、呆然と見守る中。
サキュバス姫は、ついに“奪う場所”ではなく、
“帰る場所”を選んだ。
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