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11 2カ月ぶりの再会
その夜――
「手付金を払うから待っていて」
そう言って、ローズの身体のあらゆる場所に甘いキスと口づけを落としたシャル。
けれど翌日には、彼は慌ただしくキャラバンをまとめ、自国ジャンダへと身を翻していった。
ローズにはあの言葉が、求婚の言葉だったのか、ただの冗談だったのか判断がつかなかった。
確かに「本契約」などと口にしていた。だが一国の王子がそんな軽々しく誓うものだろうか。
もしかすると、自分が都合よく解釈しようとしているだけ――。
そう思うと、胸の奥が少し熱くなるのを誤魔化すように、ローズは自分に言い聞かせた。
「待っていて」と言われたから待っているわけじゃない。
けれど……また、あの日々が戻ってきた。
リック王子とミリシアの幸せ自慢、噂好きの貴族たちの格好の的。
“夜の声が大きい、はしたない女”――その悪評。
――そうなるはずだった。
だが予想に反して、その噂はぴたりと止んでいた。
ローズは首を傾げていた。
あれほど嘲笑の的になっていたはずの“夜の声”が、ぴたりと聞こえなくなったのだ。
教会にさえ追い出され、庶民の酒場に逃げ込むしかなかった自分。
あのときの絶望は何だったのかと思うほど、世間は一変していた。
なぜなのか。
ローズ自身には理由は分からない。
けれど実際には――。
王宮の控室で、彼女の甘い声を耳にしたリックとミリシアは打ちのめされていた。
淫らでも不埒でもない。愛される女の歓びの声。
それをまざまざと聞かされ、プライドは粉々に砕かれた。
だからこそ二人は、噂を封じ込めた。
誰かがローズを口にすれば、そのたびに自分たちの惨めさを思い出す。
ならば――最初からなかったことにしてしまえばいい。
王子と新しい婚約者が話題を避ければ、貴族たちもそれに倣う。
次第に、ローズの“夜の声”は触れてはならないものとして扱われるようになった。
気づかぬまま、ローズは嘲りの渦の外に出ていた。
ローズはもう、貴族の世界に戻ろうとは思わなかった。
シャルの置き土産――新しいものを見つける楽しみに、すっかり目覚めてしまったからだ。
庶民街の居心地の良さに気づき、質素なドレスを纏って通りを歩く。
貴族社会で嘲られ続けた身に、今さら戻りたい気持ちはなかった。
むしろこちらのほうが、自分らしく息ができる。
庶民街をひとりで歩くのは最初こそ緊張した。
けれど見渡せば、貴族では決して触れられなかった発見ばかり。
洗濯バサミを手に取っては「これ、何?どう使うの?」と目を輝かせ、
珍しげに見られつつも、庶民を下に見ることのない態度はやがて受け入れられていった。
いまでは、あの酒場で庶民も貴族も関係なく盃を交わせるようになった。
「やっぱり嬢ちゃんは酒が強いな!」
大工の棟梁が豪快に笑い、その弟子らしき若者たちも楽しげにビールをあおる。
「うふふ。私、お酒結構いける方みたい」
ローズもグラスを掲げ、庶民に人気のビールをぐいっと飲み干す。
悪くはない――そう思う。
けれどふと、思い出す。
縁に塩があしらわれた、黄金色の酒を。
そして、あの酒と同じ色を宿した瞳の男を。
シャルがジャンダへ帰ってから、すでに二ヶ月が経とうとしていた。
「嬢ちゃん、聞いたか?」
酒場の片隅でビールを飲んでいたローズに、大工の棟梁が声をかけてきた。
「何を、ですか?」
「ジャンダのキャラバンが帰ってきたらしいぞ。あの南の国の商人どもだ」
「ジャンダ……」
胸がひゅっと縮む。
別の客も口を挟む。
「この街でも珍しい品を売るからな。あいつらが来ると市は賑わうんだ」
「俺も砂漠の香辛料を買いに行くつもりだ」
庶民たちは楽しげに噂している。
ローズも笑顔を作ろうとしたが、指先は小さく震えていた。
あの酒。
あの瞳。
「待っていて」と囁いた声――。
(……まさか、来ているの?)
気づけばグラスの中のビールはすっかりぬるくなっていた。
口に運ぶことも忘れ、ただ心臓の鼓動ばかりが大きくなっていく。
玉座の間。
ジャンダの王の前に跪くシャルの姿は、普段の商人めいた軽やかさをひとかけらも纏っていなかった。
その金色の瞳は、父に真正面からぶつけるように光を宿していた。
「……ローレシアに、俺の欲しいものがあります」
「欲しいもの?」
玉座に腰掛ける王はわずかに眉を上げる。
「はい。商人は強欲ですから」
一呼吸置いて、シャルは続ける。
「私はジャンダの王子であると同時に、商人の端くれでもあります。
だからこそ、自分の“目利き”を信じたい。
王に宛てがわれた妻ではなく、自分の目で選んだ女を妻にしたいのです」
父王は沈黙した。広間を満たすのは、厳かな空気と、王の指先が肘掛を叩く乾いた音。
やがて、その口元がゆるやかに歪む。低く響く笑いが玉座の間に広がった。
「……それでいい」
「父上?」
「欲しいものを手に入れられぬ商人に、王の器などあるものか。
――シャル、己の欲を貫け」
「……ありがとうございます、父上」
深々と頭を垂れるシャル。
胸に浮かぶのは、夜に自分の名を呼んでくれた女の姿。
――あの声は、彼女にとって屈辱と嘲笑の象徴だったはずだ。
淫らだと罵られ、婚約を破棄され、貴族たちに笑いものにされた声。
だが、シャルの耳に届いたそれは決して下卑たものではなかった。
切実で、愛おしくて、胸の奥を震わせるほど真っ直ぐな響きだった。
彼の名を呼ぶその声は、どんな香辛料や宝石よりも強く、確かな価値を宿していた。
声だけではない。
くしゃりと笑った時にできるえくぼ。
酒場で庶民と肩を並べて豪快に飲む無邪気さ。
新しいものに触れて目を輝かせる瞬間――。
商売の場で「本物」を見抜くことに慣れた目が告げていた。
この女は、珍しい掘り出し物のように二度と出会えない存在だ。
他の誰でもない、自分が手に入れるべきものだ。
強欲であれ。
父王の言葉を胸に、シャルは静かに誓う。
――ローズを、必ず手に入れる。
珍しいな、普通ならもっと間が空くだろうに。
「そうよね。だって二ヶ月前に立ち寄ったばかりでしょう? ジャンダのキャラバン」
庶民街でも貴族街でも、そんな声があちこちから上がっていた。
行商ルート、本来であれば半年や一年かけて各地を巡るのが常だ。
だが今回はわずか二ヶ月で戻ってきた。
珍しい出来事は格好の話題となり、人々の好奇心をかき立てていた。
「何かあるのかしら」「また大きな取引でも持ち込むんだろうか」
噂はたちまち広がり、街のあちこちを飛び交う。
その言葉を、ローズも耳にした。酒場で、そして屋敷に仕える古い使用人の口からも。
――ジャンダの王子がまたローレシアに来ている。
その一言に心臓が跳ねた。
けれどすぐに自分をたしなめる。
(違う、関係ない。私なんかに会うために戻ってくるはずがない)
王子にとって自分は、あの夜の戯れに過ぎないのだ。
強引に熱を注いでくれたけれど、それは王子だからこそ可能だったこと。
都合よく期待するのは、あまりにも愚かだ。
そう思い込もうとすればするほど、胸の奥でざわめく熱がしつこく残る。
グラスを傾けて庶民街の酒を飲み干し、ローズは自分に言い聞かせた。
ごく、ごく、ごく……。
ローズは無言でジョッキを傾けた。泡が唇に張りついても気にしない。ただ喉を鳴らす音だけがやけに大きく響く。
「嬢ちゃん、あれ? キャラバン見に行かないのかい?」
大工の棟梁が怪訝そうに声をかける。
「珍しい品物がいっぱいあるぜ? きっと嬢ちゃん好みの品が並んでる」
ローズは小さく首を振った。
「いいの。……私、ビール飲んでるし。今日はお酒の気分なの」
無理に明るく答えて、またジョッキを口に運ぶ。
けれど飲む速度は明らかに速くなっていた。胸の奥をざわめかせる動揺を、アルコールで塗りつぶすように。
ごくごく……と最後の一滴まで飲み干したその瞬間。
背後から、耳に焼きついて離れない声が聞こえてきた。
「――お嬢さん、ジャンダの酒はいかがですか?」
ローズの手がピタリと止まった。
その声を知っている。
忘れるはずがない、あの夜、自分の名を甘く何度も呼んだ男の声。
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