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序章
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それは、遠い遠い幼いころの記憶。彼女がまだ、夢は思い続けていれば叶うと信じていた頃のこと。小高い丘の上、小さな小さな女の子が、一本の大きな大きな、神秘的で生命感あふれる木の太い根の一つに腰かけて、その幹に体を預けている。
大きな木は穏やかな風を受け、その大きく広げた枝葉をしなやかになびかせていた。心地好く、気持ちよさそうに。そして、まるで少女を見守るように。
女の子の隣には真紅のチョッキを着て、同じく体を木の幹に預けているうさぎ。そのうさぎは、最初は黙って女の子の隣に腰かけていたが、ふと自分の首から下げていた懐中時計をしばらく眺めた後、彼女の方を振り返ってこう尋ねた。
「ねえフィア・アリス。君の時計では今何時だい」
その問いに女の子は怪訝そうな顔をした。そして先ほどまでうさぎが眺めていた懐中時計を見る。不思議と、うさぎが自分のことをフィア・アリスと呼ぶ理由を問い返そうとは思わなかった。彼女の名前は、フィア・アリスではない。
しかし自分の名前を正すことよりも先ほどまで懐中時計を眺めていたにも関わらず時間を尋ねてくる方が気になっていたのだ。しばらくして、彼女はその理由に気づいた。彼女は隠されたお菓子を見つけた時のように瞳を輝かせて言った。
「そっか、その時計壊れちゃって、針が止まってしまっているんだね」
それを聞いてうさぎが満足そうに笑って頷いた。そして、
「時を刻むのをやめてしまった時計は、永遠に同じ時を刻み続ける。生きることをやめてしまった者と同じさ。時と共存することを放棄してしまった者は、過去も未来もなくただ虚しく続く毎日を永遠に繰り返すしかないのにね」
と静かに笑う。女の子はうさぎのその言葉が非常にひっかかった。その微笑みは、とても悲しい笑みに見えたから。だから、彼女はそっと自分のポケットに入っていた懐中時計を差し出していた。彼女自身としては無意識の行動だった。そして驚くうさぎにこう告げる。
「じゃあその壊れてしまった時計と私の持ってる時計を交換しよう? そうしたらきっと、止まっていた時間も動き出すよね」
うさぎは呆気にとられた表情のまま少しの間動かなかった。しばらくしてから笑顔になり、嬉しそうに言った。
「ありがとう、フィア。これで時が再び動き出すだろう。そして時が満ちた時、君は動き始めた世界を目にすることになるはずだよ」
女の子は、その言葉の意味をあまり理解できなかった。首をかしげて考えこむ彼女を見て、うさぎは満足げにほほ笑む。
その時、一匹の猫が丘を駆け上ってきた。猫の姿を認めるとうさぎは、猫の視界を遮るような位置に立ち猫と向かい合う。その表情は、先ほどまでとは打って変わり険しいものとなっていた。その表情のままでうさぎは、確かめるように言葉を紡ぐ。
「……本当にいいのかい?」
猫は立ち止まり、しっかりとうさぎの目を見据える。そしてゆっくりと口を開いた。
「……ニャーォ」
静かな声だった。うさぎと同じく、この猫も言葉が話せると思っていた女の子は、とてもがっかりした。しかしその一声の中に、どこか寂しげな響きがあるように彼女には感じられた。うさぎは、
「なるほど。君は誰かの飼い猫として生きようとし、言葉を紡ぐことをやめた。そして今も言葉を話さないということは、その人の飼い猫のままこの世界を去るという君なりの決心なんだね」
と少し寂しそうに笑いながら言う。その笑い方は寂しそうでありながらしかし、猫をうらやんでいるような、そんな風に女の子には感じられた。
いつの間にか、うさぎの背後に淡い光を帯びた扉が姿を現していた。猫はそれを確認してまた歩を進めようとする。しかし、うさぎの声がそれを遮るように響いた。
「最後にもう一度きくよ? 一度ここを通ってしまえば、もう二度と君は自分の意志で、この世界には戻ってこれない。それでもいいんだね」
「にゃあ。ニャー……にゃ!!」
猫は先ほどより強い声で鳴いて、まだ何か言おうと口を開きかけるうさぎの脇をさっと風のように通り過ぎた。それから止めようとするうさぎの方を一度だけ、ちらりと振り返ると、何の迷いもなく扉へと飛び込んでしまった。猫が扉に飛び込む瞬間、猫から何か透明な雫が輝き、地面に滴り落ちたのが見えた。
その時みた猫の顔は、とても悲しそうで、寂しそうで、辛そうで。まだ幼い女の子には到底理解できなさそうな、いくつもの気持ちが混ざり合った表情をしていた。
猫の姿が扉の向こうに消えて見えなくなると、うさぎは大きく溜め息をついた。そして猫が消えた扉の方に視線を向けたまま、つぶやくように言う。
「……言葉というものは難しい。関係を作るのも、壊すのも簡単で……おそろしいものだ」
そして女の子の方にゆっくりと向き直ると、先ほど交換した彼女の時計を空高く掲げ、女の子に優しく微笑んだ。
「フィア、君が手にしたその懐中時計が再び時を刻み始めるその時まで、好奇心と純粋な心を失っちゃだめだよ」
そして止めようとする女の子を尻目に、先ほど猫が飛び込んだ扉へと自分も飛び込んでいってしまった。女の子もそれに続こうとしたが、扉は無常にも彼女の目の前で閉じてしまい、彼女は扉に激突する。痛みと悲しみで泣きそうになっている女の子の耳に、うさぎの声だけがこだまのように響いてきた。
「君は、世界を変える力を携えて……」
彼女が最後までその言葉を聞くことはなかった。
大きな木は穏やかな風を受け、その大きく広げた枝葉をしなやかになびかせていた。心地好く、気持ちよさそうに。そして、まるで少女を見守るように。
女の子の隣には真紅のチョッキを着て、同じく体を木の幹に預けているうさぎ。そのうさぎは、最初は黙って女の子の隣に腰かけていたが、ふと自分の首から下げていた懐中時計をしばらく眺めた後、彼女の方を振り返ってこう尋ねた。
「ねえフィア・アリス。君の時計では今何時だい」
その問いに女の子は怪訝そうな顔をした。そして先ほどまでうさぎが眺めていた懐中時計を見る。不思議と、うさぎが自分のことをフィア・アリスと呼ぶ理由を問い返そうとは思わなかった。彼女の名前は、フィア・アリスではない。
しかし自分の名前を正すことよりも先ほどまで懐中時計を眺めていたにも関わらず時間を尋ねてくる方が気になっていたのだ。しばらくして、彼女はその理由に気づいた。彼女は隠されたお菓子を見つけた時のように瞳を輝かせて言った。
「そっか、その時計壊れちゃって、針が止まってしまっているんだね」
それを聞いてうさぎが満足そうに笑って頷いた。そして、
「時を刻むのをやめてしまった時計は、永遠に同じ時を刻み続ける。生きることをやめてしまった者と同じさ。時と共存することを放棄してしまった者は、過去も未来もなくただ虚しく続く毎日を永遠に繰り返すしかないのにね」
と静かに笑う。女の子はうさぎのその言葉が非常にひっかかった。その微笑みは、とても悲しい笑みに見えたから。だから、彼女はそっと自分のポケットに入っていた懐中時計を差し出していた。彼女自身としては無意識の行動だった。そして驚くうさぎにこう告げる。
「じゃあその壊れてしまった時計と私の持ってる時計を交換しよう? そうしたらきっと、止まっていた時間も動き出すよね」
うさぎは呆気にとられた表情のまま少しの間動かなかった。しばらくしてから笑顔になり、嬉しそうに言った。
「ありがとう、フィア。これで時が再び動き出すだろう。そして時が満ちた時、君は動き始めた世界を目にすることになるはずだよ」
女の子は、その言葉の意味をあまり理解できなかった。首をかしげて考えこむ彼女を見て、うさぎは満足げにほほ笑む。
その時、一匹の猫が丘を駆け上ってきた。猫の姿を認めるとうさぎは、猫の視界を遮るような位置に立ち猫と向かい合う。その表情は、先ほどまでとは打って変わり険しいものとなっていた。その表情のままでうさぎは、確かめるように言葉を紡ぐ。
「……本当にいいのかい?」
猫は立ち止まり、しっかりとうさぎの目を見据える。そしてゆっくりと口を開いた。
「……ニャーォ」
静かな声だった。うさぎと同じく、この猫も言葉が話せると思っていた女の子は、とてもがっかりした。しかしその一声の中に、どこか寂しげな響きがあるように彼女には感じられた。うさぎは、
「なるほど。君は誰かの飼い猫として生きようとし、言葉を紡ぐことをやめた。そして今も言葉を話さないということは、その人の飼い猫のままこの世界を去るという君なりの決心なんだね」
と少し寂しそうに笑いながら言う。その笑い方は寂しそうでありながらしかし、猫をうらやんでいるような、そんな風に女の子には感じられた。
いつの間にか、うさぎの背後に淡い光を帯びた扉が姿を現していた。猫はそれを確認してまた歩を進めようとする。しかし、うさぎの声がそれを遮るように響いた。
「最後にもう一度きくよ? 一度ここを通ってしまえば、もう二度と君は自分の意志で、この世界には戻ってこれない。それでもいいんだね」
「にゃあ。ニャー……にゃ!!」
猫は先ほどより強い声で鳴いて、まだ何か言おうと口を開きかけるうさぎの脇をさっと風のように通り過ぎた。それから止めようとするうさぎの方を一度だけ、ちらりと振り返ると、何の迷いもなく扉へと飛び込んでしまった。猫が扉に飛び込む瞬間、猫から何か透明な雫が輝き、地面に滴り落ちたのが見えた。
その時みた猫の顔は、とても悲しそうで、寂しそうで、辛そうで。まだ幼い女の子には到底理解できなさそうな、いくつもの気持ちが混ざり合った表情をしていた。
猫の姿が扉の向こうに消えて見えなくなると、うさぎは大きく溜め息をついた。そして猫が消えた扉の方に視線を向けたまま、つぶやくように言う。
「……言葉というものは難しい。関係を作るのも、壊すのも簡単で……おそろしいものだ」
そして女の子の方にゆっくりと向き直ると、先ほど交換した彼女の時計を空高く掲げ、女の子に優しく微笑んだ。
「フィア、君が手にしたその懐中時計が再び時を刻み始めるその時まで、好奇心と純粋な心を失っちゃだめだよ」
そして止めようとする女の子を尻目に、先ほど猫が飛び込んだ扉へと自分も飛び込んでいってしまった。女の子もそれに続こうとしたが、扉は無常にも彼女の目の前で閉じてしまい、彼女は扉に激突する。痛みと悲しみで泣きそうになっている女の子の耳に、うさぎの声だけがこだまのように響いてきた。
「君は、世界を変える力を携えて……」
彼女が最後までその言葉を聞くことはなかった。
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