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君にあげる魔法
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誰も足を踏み入れない、深くて暗い森の中。何層もの木の葉の帳をくぐったその先に、決して濁ることのない泉がありました。
そこは動物たちさえ畏れて近づかず、ただときどき夜の隙間に迷い込んできた月の光がそっと水面を撫でるだけの、静かな世界の揺りかごでした。
泉にはひとりの妖精、リューが住んでいます。輝く髪も透き通った薄い羽も燐光を帯びて、自分の光に隠れてしまうほどの小さな体。森の草木や動物たちにとって、リューはホタルのようにも見えました。
そしてリューにとっては大きな草木も駆け回る動物たちの体も世界を動かす恰好の遊び場、瞳に映るすべてのものが心をくすぐる楽しいオモチャでした。
大地が雪で覆われ、森も真っ白に染まった冬のある日、泉のほとりに人間の女の子が現れました。こんなことは初めてだったので、リューは嬉しくなって女の子のそばに飛んでいきます。
女の子は雪が降り積もったみたいに真っ白な頭をしていました。彼女がしゃがみ込むときにふわりと舞った髪は妖精の羽に似ていて、リューの心が弾みます。
「君の髪、僕のに似てるね」
リューは何度か遊びに行った人間の村で見た光景を思い出します。人間の子供たちはみんな同じ色をしていて、もっと黒檀の幹みたいな色の髪なのです。
こんな風に真っ白になるのは「おじいさん」か「おばあさん」だけなのだということもリューは知っていました。人間は世界に現れてからいなくなるまでに、何度もその姿を変えるのです。
「素敵な色だなあ。ひょっとして、君はもう『大人』ってやつなの?」
でも女の子は地面に力なく膝をついて、水鏡を覗き込むばかり。
女の子の頭に座って、リューも一緒に泉を覗き込みます。そこにリューの姿は映っていません。女の子はひとりぼっちで、大きな青い瞳からぽろぽろと雫がこぼれてきました。
「わあ、きれい!」
リューは思わずはしゃいで飛び回ります。
女の子の頬を伝う透明な雫は、朝露よりもずっと重たくて、泉の底よりも複雑なきらめきを放っていました。ぽたりぽたりと水面に波紋を広げたあとも、リューには雫の形が見えていました。
「すごいね、そのきれいな宝石、どうやって作っているの?」
リューは女の子の睫毛のすぐそばまで飛んでいき、無邪気に話しかけました。女の子は俯いたまま答えてくれません。
彼女の瞳は泉の中に落ちていった雫だけを呆然と見つめ、リューの姿も映していなければ、その楽しげな声も届いていないようでした。
「分かった! 黙っていないと消えちゃう魔法なんでしょ」
リューは自分の賢さに満足して、女の子の鼻先でくるりと宙返りをしました。金の鱗粉が雫のように滴り落ちますが、やっぱり彼女が作る宝石のほうが素敵に見えました。
女の子はただ呼吸をするのも忘れて雫をこぼし続けています。リューは自分の泉に七色の彩が溶け合って嬉しくなり、だけど少しだけ心配になってきました。
「そんなにたくさん作ったら、君の光がなくなっちゃわない? 違う遊びをしようよ」
彼は泉の水を蹴り上げ、冬の冷たい空気にやわらかくなる魔法をかけてやります。
リューが指を鳴らすと、泉のまわりに氷の花が咲き誇り、か細い太陽の光を集めて女の子にささやかな光を差し出しました。
さらにリューが空をくるりと駆けて戻ると、魔法の雪が舞い降りてきます。触れたら指先からじんわりと温かくなる、綿毛のような不思議な雪でした。
「ほら見て! 君のための魔法だよ!」
もっと楽しいことを、もっときれいなものを見せてあげれば、彼女はこっちを向いてくれる。リューはそう思ったのです。
温かい雪が頬に触れ、女の子がふと顔を上げます。涙で濡れた瞳に映った、クリスタルでできたつるバラも、優しく微笑みかけるガラス細工のひまわりも、ますます美しく見えました。
やっぱり、この女の子は素敵な魔法を持っているのでした。リューの魔法は彼女の瞳の中でもっともっと輝きを増していくのです。
「……きれい」
それは雪に溶けて消えてしまいそうな儚い声でした。けれどリューの耳にしっかり届き、彼の鼓動を大きくしました。不思議なことに、あんなにきれいで素敵な雫の宝石よりも、女の子が楽しそうに笑っているところが見たいと思うのです。
やがて女の子はぼろぼろの袖で顔を拭って立ち上がります。
「もう帰っちゃうの? また明日もくるでしょう?」
ふわりと手のひらに舞い落ちた本物の雪が、女の子の体温ですぐに溶けて消えてしまいます。彼女はそれを見つめて瞳を潤ませ、リューを振り返ることなく森を去って行きました。
「僕、もっとすごいことができるんだ。次は君の宝石を使って、空に橋を架けてあげる!」
リューは明日も彼女が泉にくることを確信していました。だって、こんなに楽しい場所は他にないのですから。
それからリューは遊ぶことも忘れて一生懸命、女の子のために準備をしました。
あの子が泉に落としていった雫、それはリューにとってきれいな虹を作るための最高の絵の具でした。
彼女の心を丁寧に掬いあげて、七色に輝く光の束へと変えていきます。これを空に放てば、きっと彼女は笑ってくれるでしょう。あの宝石を目からこぼすのをやめて、リューと一緒に楽しく踊ってるかもしれません。
二人で魔法を使えば太陽が春の力を取り戻して、本物の花吹雪だって呼び起こせることでしょう。
リューはずっと待っていました。
氷の花が月明かりを浴びて鋭く光る夜も。温かい雪が泉の水面に波紋を描く朝も。
けれど、女の子は現れませんでした。
いつしか春の気配がリューの作った氷の花を溶かし始めても、岸辺の草を踏む足音は聞こえませんでした。
集めた光の束を両手に抱えて、泉のふちでリューは首を傾げます。
「おかしいなあ。あの子、世界のどこにもいなくなっちゃった……」
人間たちがそれを「死」と呼ぶことを、リューは知りません。それでもリューは彼女がもういないのだということを、ゆるやかに悟ります。鮮やかな花が枯れて土に還ったのを見るような、からっぽの静けさでした。
彼女はもう、この泉の景色の一部にはなれないのです。
リューの手元には、行き場を失った悲しみの結晶、女の子が流した涙の虹が残されていました。
「一緒に虹を見たかったのになあ」
今までに感じたことのない気持ちでリューは夜空を見上げました。
虹はお昼に架けて、太陽の力を心に渡して笑顔を作るものです。もう夜になってしまいました。女の子もいません。この特別な絵の具は、虹にはなれないのです。
「えいっ」
リューは光の束を暗い夜空へと放り投げました。彼が彼女に見せたかった、とっておきの魔法でした。
女の子の深い悲しみと孤独、言葉にならなかった祈りの結晶は、リューの魔法に乗って空へ昇っていきました。そして虹のように弧を描くことなく夜の闇に弾けます。
砕けた涙の雫は、無数の星屑となって夜空に散りばめられました。
「虹よりも遠くへ行っちゃった。やっぱりあの子の魔法はすごいや」
リューはひとりぼっちで水面を滑り、星明りを辿るように踊り始めました。女の子の涙だったものが、彼の姿を静かに見下ろしています。
いつものようには心が弾みません。不思議に思って立ち止まると、リューの目からほんの一粒、小さな雫がこぼれ落ちました。
「あっ!」
泉に落ちた雫は波紋のまま凍りついて、春でも溶けない氷の花を咲かせました。
ねえ見て、僕にも使えたよ、君が教えてくれた魔法。そんな風に自慢しようとしてリューは星を見上げますが、なぜだか息が詰まって声が出ませんでした。
女の子の魔法がどんな気持ちで作られていたものなのか、リューは分かってしまったのです。
リューの悲しみでできた氷の花は、女の子の涙の星と同じくらい複雑で、同じくらい素敵な輝きを持っていました。
そこは動物たちさえ畏れて近づかず、ただときどき夜の隙間に迷い込んできた月の光がそっと水面を撫でるだけの、静かな世界の揺りかごでした。
泉にはひとりの妖精、リューが住んでいます。輝く髪も透き通った薄い羽も燐光を帯びて、自分の光に隠れてしまうほどの小さな体。森の草木や動物たちにとって、リューはホタルのようにも見えました。
そしてリューにとっては大きな草木も駆け回る動物たちの体も世界を動かす恰好の遊び場、瞳に映るすべてのものが心をくすぐる楽しいオモチャでした。
大地が雪で覆われ、森も真っ白に染まった冬のある日、泉のほとりに人間の女の子が現れました。こんなことは初めてだったので、リューは嬉しくなって女の子のそばに飛んでいきます。
女の子は雪が降り積もったみたいに真っ白な頭をしていました。彼女がしゃがみ込むときにふわりと舞った髪は妖精の羽に似ていて、リューの心が弾みます。
「君の髪、僕のに似てるね」
リューは何度か遊びに行った人間の村で見た光景を思い出します。人間の子供たちはみんな同じ色をしていて、もっと黒檀の幹みたいな色の髪なのです。
こんな風に真っ白になるのは「おじいさん」か「おばあさん」だけなのだということもリューは知っていました。人間は世界に現れてからいなくなるまでに、何度もその姿を変えるのです。
「素敵な色だなあ。ひょっとして、君はもう『大人』ってやつなの?」
でも女の子は地面に力なく膝をついて、水鏡を覗き込むばかり。
女の子の頭に座って、リューも一緒に泉を覗き込みます。そこにリューの姿は映っていません。女の子はひとりぼっちで、大きな青い瞳からぽろぽろと雫がこぼれてきました。
「わあ、きれい!」
リューは思わずはしゃいで飛び回ります。
女の子の頬を伝う透明な雫は、朝露よりもずっと重たくて、泉の底よりも複雑なきらめきを放っていました。ぽたりぽたりと水面に波紋を広げたあとも、リューには雫の形が見えていました。
「すごいね、そのきれいな宝石、どうやって作っているの?」
リューは女の子の睫毛のすぐそばまで飛んでいき、無邪気に話しかけました。女の子は俯いたまま答えてくれません。
彼女の瞳は泉の中に落ちていった雫だけを呆然と見つめ、リューの姿も映していなければ、その楽しげな声も届いていないようでした。
「分かった! 黙っていないと消えちゃう魔法なんでしょ」
リューは自分の賢さに満足して、女の子の鼻先でくるりと宙返りをしました。金の鱗粉が雫のように滴り落ちますが、やっぱり彼女が作る宝石のほうが素敵に見えました。
女の子はただ呼吸をするのも忘れて雫をこぼし続けています。リューは自分の泉に七色の彩が溶け合って嬉しくなり、だけど少しだけ心配になってきました。
「そんなにたくさん作ったら、君の光がなくなっちゃわない? 違う遊びをしようよ」
彼は泉の水を蹴り上げ、冬の冷たい空気にやわらかくなる魔法をかけてやります。
リューが指を鳴らすと、泉のまわりに氷の花が咲き誇り、か細い太陽の光を集めて女の子にささやかな光を差し出しました。
さらにリューが空をくるりと駆けて戻ると、魔法の雪が舞い降りてきます。触れたら指先からじんわりと温かくなる、綿毛のような不思議な雪でした。
「ほら見て! 君のための魔法だよ!」
もっと楽しいことを、もっときれいなものを見せてあげれば、彼女はこっちを向いてくれる。リューはそう思ったのです。
温かい雪が頬に触れ、女の子がふと顔を上げます。涙で濡れた瞳に映った、クリスタルでできたつるバラも、優しく微笑みかけるガラス細工のひまわりも、ますます美しく見えました。
やっぱり、この女の子は素敵な魔法を持っているのでした。リューの魔法は彼女の瞳の中でもっともっと輝きを増していくのです。
「……きれい」
それは雪に溶けて消えてしまいそうな儚い声でした。けれどリューの耳にしっかり届き、彼の鼓動を大きくしました。不思議なことに、あんなにきれいで素敵な雫の宝石よりも、女の子が楽しそうに笑っているところが見たいと思うのです。
やがて女の子はぼろぼろの袖で顔を拭って立ち上がります。
「もう帰っちゃうの? また明日もくるでしょう?」
ふわりと手のひらに舞い落ちた本物の雪が、女の子の体温ですぐに溶けて消えてしまいます。彼女はそれを見つめて瞳を潤ませ、リューを振り返ることなく森を去って行きました。
「僕、もっとすごいことができるんだ。次は君の宝石を使って、空に橋を架けてあげる!」
リューは明日も彼女が泉にくることを確信していました。だって、こんなに楽しい場所は他にないのですから。
それからリューは遊ぶことも忘れて一生懸命、女の子のために準備をしました。
あの子が泉に落としていった雫、それはリューにとってきれいな虹を作るための最高の絵の具でした。
彼女の心を丁寧に掬いあげて、七色に輝く光の束へと変えていきます。これを空に放てば、きっと彼女は笑ってくれるでしょう。あの宝石を目からこぼすのをやめて、リューと一緒に楽しく踊ってるかもしれません。
二人で魔法を使えば太陽が春の力を取り戻して、本物の花吹雪だって呼び起こせることでしょう。
リューはずっと待っていました。
氷の花が月明かりを浴びて鋭く光る夜も。温かい雪が泉の水面に波紋を描く朝も。
けれど、女の子は現れませんでした。
いつしか春の気配がリューの作った氷の花を溶かし始めても、岸辺の草を踏む足音は聞こえませんでした。
集めた光の束を両手に抱えて、泉のふちでリューは首を傾げます。
「おかしいなあ。あの子、世界のどこにもいなくなっちゃった……」
人間たちがそれを「死」と呼ぶことを、リューは知りません。それでもリューは彼女がもういないのだということを、ゆるやかに悟ります。鮮やかな花が枯れて土に還ったのを見るような、からっぽの静けさでした。
彼女はもう、この泉の景色の一部にはなれないのです。
リューの手元には、行き場を失った悲しみの結晶、女の子が流した涙の虹が残されていました。
「一緒に虹を見たかったのになあ」
今までに感じたことのない気持ちでリューは夜空を見上げました。
虹はお昼に架けて、太陽の力を心に渡して笑顔を作るものです。もう夜になってしまいました。女の子もいません。この特別な絵の具は、虹にはなれないのです。
「えいっ」
リューは光の束を暗い夜空へと放り投げました。彼が彼女に見せたかった、とっておきの魔法でした。
女の子の深い悲しみと孤独、言葉にならなかった祈りの結晶は、リューの魔法に乗って空へ昇っていきました。そして虹のように弧を描くことなく夜の闇に弾けます。
砕けた涙の雫は、無数の星屑となって夜空に散りばめられました。
「虹よりも遠くへ行っちゃった。やっぱりあの子の魔法はすごいや」
リューはひとりぼっちで水面を滑り、星明りを辿るように踊り始めました。女の子の涙だったものが、彼の姿を静かに見下ろしています。
いつものようには心が弾みません。不思議に思って立ち止まると、リューの目からほんの一粒、小さな雫がこぼれ落ちました。
「あっ!」
泉に落ちた雫は波紋のまま凍りついて、春でも溶けない氷の花を咲かせました。
ねえ見て、僕にも使えたよ、君が教えてくれた魔法。そんな風に自慢しようとしてリューは星を見上げますが、なぜだか息が詰まって声が出ませんでした。
女の子の魔法がどんな気持ちで作られていたものなのか、リューは分かってしまったのです。
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