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ろくなもんじゃねえ
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二月の終わり、病室は暖房が効きすぎて僕には暑いほどだった。
それでも茉由は寒いと言う。窓の外の枯れ木や灰色の曇天がそのまま室温に溶け込んでくるみたいと言いながら、ベッドに寝そべった茉由はいつも手を握っていた。
指先を温めるためというより、何かに掴まっていたかったのかもしれない。
十年間、僕の隣にいた人間が、あんなに薄くなるものだとは知らなかった。ふくよかなことを気にしていた茉由は入院してから別人みたいに細くなってしまった。
しかし顔だけは、僕らが二十二歳の時に初めて会ったあの頃に戻っていくようだった。
余分なものが削ぎ落とされて彼女という輪郭が鮮烈に浮かび上がってくる。そんな残酷な美しさがあった。
その日の面会時間は夕方の六時から三十分間だった。
僕は駅前の花屋で柔らかなピンクのガーベラを買い、貨物用みたいな病院のエレベーターで六階に向かうと消毒液の匂いのする廊下を歩いた。
六人部屋の一番奥、カーテンを引いて中に入る。僕に気づいて茉由が微笑んだ。
「今日は受付が混んでた」
そんなことを言いながら、僕は持ってきたガーベラを移そうと花瓶を手にとる。先週の花はもう茶色くなりかけていた。
「ねえ、静馬」
不意に茉由が言った。
「明日の朝、なに食べたい?」
唐突な問いだった。花瓶の水を替えようとしていた手を止める。
「明日?」
「そう。病院食にちょっと飽きてきたから」
病院にいる間は食が自由にならないから。避けていた食事の話を久しぶりに交わした。それだけで僕の胸の中に、何か温かいものと何か冷たいものが同時に流れ込んできた。
何でもいいと言おうとした。茉由が入院してから自分がどうやって朝食をとっていたのかうまく思い出せなかった。
よく茉由と一緒に行った喫茶店が頭に浮かんだ。
「そういえばさ、『雲雀』に新しいメニューが出てたんだ。モーニングのセットが変わったらしくて。テイクアウトできるか聞いてみるから、一緒に食べよう」
嘘だった。あの喫茶店は茉由が入院してから三ヶ月後に閉まっていた。ある日通りかかったらシャッターに小さな紙が貼ってあって、「長年のご愛顧ありがとうございました」と書かれていた。
そうなの、と茉由は言った。目を細めて遠くを見るような顔だ。
「でも静馬の朝食は、私が作りたいの」
「え?」
「あなた、私がいないとろくなもの食べないんだもん」
点滴の管が揺れた。心電図のモニターが規則正しい波形を刻む。ピ、ピ、ピ、と、その音がやけに耳につく。僕は返事ができなかった。
「目玉焼きは半熟がいい。トーストは少し焦がすくらいが好き。コーヒーは砂糖なしで牛乳を四分の一。みんな分かってるから、私じゃないとだめなの」
「……うん」
僕は一度も自分でコーヒーの濃さを決めたことがなかった。玉子の焼き加減を考えたことがなかった。茉由がいる朝なら何でもよかった。
やっとの思いで「待ってる」と言った僕の声はどうにも奇妙で他人のものに聞こえた。
「うん」
茉由は眠そうな顔をして目を閉じた。モニターの波形はそれきり動かなくなった。
看護師さんたちが走ってくる音をどこか遠くの出来事のように聞いていた。
翌朝、僕は『雲雀』の跡地の前に行ってみた。シャッターは相変わらず閉まっていて、閉店の知らせの紙はもう剥がれかけていた。
春一番が吹いて、枯れ葉が足元を転がっていく。自分に失望したくなるほど胸の中は凪いでいる。
あの嘘を茉由は信じただろうか。それとも知っていたのだろうか。知っていて「朝食は私が作る」と言ったのだろうか。
家に帰ったらコーヒーを淹れなければならない。きっと苦くて飲めたものではないけれど。
それでも茉由は寒いと言う。窓の外の枯れ木や灰色の曇天がそのまま室温に溶け込んでくるみたいと言いながら、ベッドに寝そべった茉由はいつも手を握っていた。
指先を温めるためというより、何かに掴まっていたかったのかもしれない。
十年間、僕の隣にいた人間が、あんなに薄くなるものだとは知らなかった。ふくよかなことを気にしていた茉由は入院してから別人みたいに細くなってしまった。
しかし顔だけは、僕らが二十二歳の時に初めて会ったあの頃に戻っていくようだった。
余分なものが削ぎ落とされて彼女という輪郭が鮮烈に浮かび上がってくる。そんな残酷な美しさがあった。
その日の面会時間は夕方の六時から三十分間だった。
僕は駅前の花屋で柔らかなピンクのガーベラを買い、貨物用みたいな病院のエレベーターで六階に向かうと消毒液の匂いのする廊下を歩いた。
六人部屋の一番奥、カーテンを引いて中に入る。僕に気づいて茉由が微笑んだ。
「今日は受付が混んでた」
そんなことを言いながら、僕は持ってきたガーベラを移そうと花瓶を手にとる。先週の花はもう茶色くなりかけていた。
「ねえ、静馬」
不意に茉由が言った。
「明日の朝、なに食べたい?」
唐突な問いだった。花瓶の水を替えようとしていた手を止める。
「明日?」
「そう。病院食にちょっと飽きてきたから」
病院にいる間は食が自由にならないから。避けていた食事の話を久しぶりに交わした。それだけで僕の胸の中に、何か温かいものと何か冷たいものが同時に流れ込んできた。
何でもいいと言おうとした。茉由が入院してから自分がどうやって朝食をとっていたのかうまく思い出せなかった。
よく茉由と一緒に行った喫茶店が頭に浮かんだ。
「そういえばさ、『雲雀』に新しいメニューが出てたんだ。モーニングのセットが変わったらしくて。テイクアウトできるか聞いてみるから、一緒に食べよう」
嘘だった。あの喫茶店は茉由が入院してから三ヶ月後に閉まっていた。ある日通りかかったらシャッターに小さな紙が貼ってあって、「長年のご愛顧ありがとうございました」と書かれていた。
そうなの、と茉由は言った。目を細めて遠くを見るような顔だ。
「でも静馬の朝食は、私が作りたいの」
「え?」
「あなた、私がいないとろくなもの食べないんだもん」
点滴の管が揺れた。心電図のモニターが規則正しい波形を刻む。ピ、ピ、ピ、と、その音がやけに耳につく。僕は返事ができなかった。
「目玉焼きは半熟がいい。トーストは少し焦がすくらいが好き。コーヒーは砂糖なしで牛乳を四分の一。みんな分かってるから、私じゃないとだめなの」
「……うん」
僕は一度も自分でコーヒーの濃さを決めたことがなかった。玉子の焼き加減を考えたことがなかった。茉由がいる朝なら何でもよかった。
やっとの思いで「待ってる」と言った僕の声はどうにも奇妙で他人のものに聞こえた。
「うん」
茉由は眠そうな顔をして目を閉じた。モニターの波形はそれきり動かなくなった。
看護師さんたちが走ってくる音をどこか遠くの出来事のように聞いていた。
翌朝、僕は『雲雀』の跡地の前に行ってみた。シャッターは相変わらず閉まっていて、閉店の知らせの紙はもう剥がれかけていた。
春一番が吹いて、枯れ葉が足元を転がっていく。自分に失望したくなるほど胸の中は凪いでいる。
あの嘘を茉由は信じただろうか。それとも知っていたのだろうか。知っていて「朝食は私が作る」と言ったのだろうか。
家に帰ったらコーヒーを淹れなければならない。きっと苦くて飲めたものではないけれど。
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