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第3章
小さな男の子
しおりを挟む「はぁ」
「ちょっとまたため息ついて。私が休みのたびに入り浸ってるけどいいの? 本当に仕事探さなくて」
一週間後、私は双葉のマンションに来ていた。
洗濯日和だと言わんばかりに差し込んでくる太陽の下、ベランダに出て布団を干す彼女に痛いところをつかれる。
リビングのテーブルに突っ伏して、双葉の姿を眺めながら頭痛の種の多さにため息ばかりが溢れる。
でもここには私の癒しがある。
先ほどから周りをうろちょろしては、外で積んできた少しくたびれたピンク色の花をテーブルに置いていく。どこから持ってきたのか分からないけれど、その花がどうしようもなく愛おしく思えた。
私はおもむろに起き上がり、お花の贈り主に視線を合わせるように体をかがめる。
「ありがと」
目の前には目鼻立ちがはっきりした将来有望そうな顔立ちの男の子がいる。その子は礼央と言って、二十歳のときに産んだ双葉の息子である。
「俺が大人になったら晴日をもらってやるから落ち込むな」
そんなセリフをどこで覚えてきたのか、真剣に言われくすくすと笑みが溢れる。一丁前に格好つけながらたどたどしく言ってのけるプロポーズには顔がにやける。
「ほんとにー?」
「男に二言はないぞ」
遊びに来るたびそんなセリフを言ってくれる礼央は今日も満足そうに走っていき、その後ろ姿が可愛くていつも癒されている。
「晴日のこと本当好きだよね。あのプレイボーイっぷりは父親に似たか? 将来が心配なんだが」
呆れ顔の双葉と目が合い、思わず笑ってしまった。
「いいじゃん、可愛いんだから」
そう言いながらふとリビングに飾られている写真に目がいく。礼央の成長記録のようにたくさん置かれた写真たての中にはどこにも父親らしき人物の姿はない。
双葉はシングルマザーなのだ。
礼央の父親は売れないバンドマンで、彼女が妊娠したと分かると逃げるように姿を消したどうしようもない男だ。
私は当時アメリカの大学に通っていて、日本にはいなかった。だから双葉が妊娠したのも知らず、たまたま帰国の連絡をしようとしたら電話口で『来週子供が産まれるんだ』とサラッと報告された。
あまりにも衝撃的で言葉を失ったのを覚えている。
「将来千秋さんと別れて独身だったら、礼央と結婚しちゃうかもなあ」
「ちょっとやめてよ! 同い年の娘なんていらんいらん、ゾッとしちゃう」
そんな冗談で笑いながら彼女を見つめる。
女手ひとつで礼央を育てながら、仕事と育児を両立させて意外としっかり家事もこなしている。いつ来ても部屋は綺麗にしているし双葉は凄い。
あえて言葉にしないけれど心の中ではとても尊敬していた。
テレビを見ながらダラダラとしていたら、いつの間にか一時になっている。
「もうこんな時間かあ。お昼どうする? なんか食べてく?」
「うん!」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに、私は間髪入れずに頷いていた。
「まったくもう、働け?」
「すみませーん」
そんな風に言いながらなんだかんだで優しいのが双葉で、冷蔵庫を開けながら何にしようかと唸っている。
「あ、ホットケーキは?」
そして思いついたように言った瞬間、双葉の携帯が鳴った。彼女は私に背を向けて電話に出ると、聞こえてきた言葉遣いからどうやら仕事関係の連絡のようだ。
彼女は都内のサロンでネイリストをしている。
「え、今からですか?」
飲みかけのコーヒーに口をつけテレビを眺めていたら、何やら不穏な空気が漂い始める。双葉は困ったように髪の毛をくしゃりと掴んで眉間にシワを寄せていた。
「分かりました、なるべく急ぎます」
電話を切ったら余裕がなさそうに何も言わずにリビングから消える。ひとり取り残された私は彼女の様子を目で追いながら首を傾げた。
数分後、リビングに戻ってきた双葉は着ているものをガラリと変えて余所行きの格好になっている。
ダラダラとしたスウェットからいつもの原色カラーの派手な服に変わった。
「ごめん。ひとりスタッフが熱出したらしくて、予約詰まってるし急遽出てくれないかって言われちゃって」
「え、待って礼央は?」
驚いて立ち上がる私は双葉と鏡越しに目が合う。
「礼央、ちょっと来て!」
忙しなく支度をしながら彼女が大声を張り上げたら、バタバタと走る足音が聞こえてきた。
「なにー」
騒がしく登場した礼央は仁王立ちで、双葉はそんな彼の両肩を持ち視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「あんたさ晴日とお留守番できる? ママ仕事になっちゃったの」
「まじ! 任せろ、晴日のことはちゃんと俺が見てるから」
「調子のるんじゃない。お願いしますでしょ? まったく誰に似たんだか」
放ったらかされて目が点になり、ポンポン言い合うふたりの様子を呆然と見つめる。
「そんなわけで悪い、礼央を預かってくれ」
双葉は、礼央と家の鍵を置いてあっという間に出かけていく。
まさかこんな展開になるとは思いもしなかった私は、にっこり笑っている礼央と目が合い苦笑いを浮かべた。
急にふたりっきりにさせられて困り果てていたら、礼央が膝の上に乗ってきて足をバタバタさせる。
「どうする、何する?」
でも彼はどこか楽しそうで私はその小さな体に軽くもたれかかる。双葉が帰ってくるまでの間、どう過ごそうかとそればかりが頭の中を駆け巡った。
「晴日の家行こーよ」
「おお」
一瞬、良い考えだと思った。でもすぐに頭に浮かんだのは千秋さんの顔だ。仕事でいないからといって勝手に人の家に入れていいものなのか。
「いやあ、うちはな」
「なんでだよ、いいじゃんかあ」
グイッと上体を後ろにそらし、こちらを見上げてくる純粋無垢な瞳が私の心に訴えかける。
「いいじゃんいいじゃん」
そして彼の駄々に負け連れて帰ることにした。
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