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第3章

触れるだけ

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「乾杯」

 冷蔵庫から持ってきたキンキンに冷えた缶ビールを開けて、カウンターに並んで座る。

 ピーナッツと生ハム、チーズを並べて先程の写真を見返しながら、楽しそうに遊ぶ姿を見て笑みが溢れた。まるでその場には本物の夫婦のような空間が広がっていた。

 自分でも錯覚してしまいそうになるくらい初めて味わう楽しい時間はとても幸せだった。

「礼央は幸せそうだな」
「どうしたんですか、急に」
「いや。父親がいなくてもちゃんと愛情を注いでくれる母親がいれば良い子が育つんだなあと思って」

 突然あまりにも哀しげな表情を浮かべる千秋さんを見たら、返す言葉に困った。

 正直この関係はどこまで踏み込んで良いものなのかわからない。偽りの妻はどこまで妻でいて良いものなのだろうか。

 その線引きがどうしても分からず、ただただ黙っているしかなかった。

「うちは生活と食事と金さえ与えてれば親の責任を果たしたとでも思ってるような家でさ。家政婦に任せて自分で育てもしないくせに何言ってんだって思ってた」

 切ない表情に胸がギュッと締め付けられる。

「だから親にはならない。そんな家で育ったやつはロクな親にならないだろうし、あの人たちみたいになるくらいなら子供なんて作らない方がいい。その方が子供のためだって昔からずっと思ってきた」

 いつの間にかビールはニ本目に突入していて、今日の千秋さんは珍しくじょうぜつだ。

 彼の心の闇がどんどん溢れ出していくが、聞いているうちどうしても人ごとのようには思えなくなった。

「だから千秋さんだったのかな」

 不思議とそんな言葉が飛び出していて、彼の憂いをひそめた表情から目が離せなかった。

「ずっと自分の中でも腑に落ちなかった。家を出たとき真っ先にここへ来ようと思ったのはなんでだろう。疑いもせず千秋さんを選んだのはなんでだろうって」

 最初は今すぐに結婚してくれる人だったら誰でもいいと、その言葉にすがるような思いでここへきたんだと思っていた。だけど違う気がする。

 私は本能的に彼を選んでいたのかもしれない。

「私たち似てるんだと思います。親に絶望して愛に希望なんてなくてひとりぼっちで」

 勝手に通じ合った気がした。

 悲しい言葉とは裏腹にだんだんと表情は綻んでいく。

「そんな境遇が私たちを引き寄せ合った。お互いの傷を舐め合うみたいに本能的に......」

 思わずそう続けた瞬間に頭が真っ白になった。

 私の顎をそっと引き寄せ、唇に柔らかいものが触れた。微かに添えられた指が感触を残したまま私の時間を止める。

 突然のことに目を閉じるのも息をすることさえ忘れて、ほんの数秒間が果てしなく長い時間に感じた。

 それは、ただ触れるだけの優しいキスだ。

「大丈夫。晴日ちゃんは俺とは全然違うよ」

 いつの間にか止まっていた時間は動き出し、唇にあった感触はなくなっていた。

 今のは夢だったのか。放心状態でただただ混乱する中、彼は一気にビールを飲み干す。

「俺らは似ているようで似てない。君は見捨てられたわけじゃないから。親に絶望したのはただ家族に対する愛が強すぎただけだよ」

 私の人生にはまるで縁のないセリフが降ってくる。

「お父さんの役にたちたくて頑張りすぎた。お母さんの負担にならないように頑張りすぎた。お姉さんの分も自分がって頑張りすぎた。自分のことは二の次で家族のためを思いすぎた結果なんじゃない?」

 誰か他人の話でも聞いているかのようで上手く言葉を飲み込めない。一瞬、キスのことも何もかも全部吹っ飛んで空っぽの頭に彼の言葉が流れ込んだ。

「君の愛が親から受ける愛より少し強かったってだけ。ただそれだけの話だよ」

 私の頬には一筋の涙が伝う。

 背中越しの彼が今どんな表情をしているのかは見当もつかないが、私の悩みをそんな風に表してくれた人は初めてで目頭が熱くなった。

「同じくらいの愛が返ってこなかったから心が悲鳴をあげてた。きっと自分の心にも耳を傾けてあげられてたら、もう少し変わってたのかもしれないな」

 ずっと誰かにこう言って欲しかったのかもしれない。自分でも分かっていなかった本当の気持ちを教えて欲しかったのかもしれない。

「これからは自分の思うように生きればいいんだよ」

 私の人生は決められているものだと変える努力もせず、広い世界に目を向けようともしない。

 父の言いなりである自分を嫌悪して爆発してしまったけれど、ただ私の努力が足りないだけだったのかもしれない。

「もしかして俺、一丁前に諭してた? うわあオヤジくさ」

 千秋さんの中でどこかのスイッチが切り替わって、自問自答しながら立ち上がる。自分自身に失笑していた。

「飲み過ぎだな。部屋戻るわ」

 話す隙を与えないように慌ただしく消えゆく彼を私は引き止めることができなかった。キスの理由も分からないまま、残されたビールの空き缶が妙に虚しさを感じさせる。

「なんで」

 突然唇の感触を思い出し顔が火照りだす。隣にいたはずの彼は温もりだけを残し、私をひとり取り残す。

 辺りはしんと静まりかえっていた。
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