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第4章

心のケア

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 過去を何ひとつ知らない創くんだからこそ自然と話せてしまったのかもしれない。彼ならまっさらな気持ちで聞いてくれるような気がした。

「私は父の呪縛から逃れられないの。あの人の差し金で近づいてきた彼にずっと騙され続けてた。挙句、実は婚姻届も出してませんでしたなんて何を信じたらいいか分からなくなった」

 記憶を整理するかのように順を追って話を続け、ここまで自分の人生を一から十まで人に聞かせたのは初めてだ。

 でも話している間は一言も口を挟んでこず、コーヒーを飲みながら真剣な様子で聞き続けてくれる彼にはなんだか話しやすかった。

 喉はカラカラでカップの中は空になる。

 おもむろに立ち上がり冷蔵庫へ向かい、冷たい麦茶を入れた。

「向こうの両親はきっと何も知らないの。でも今更夫婦の振りなんてできる気しないし。めでたしめでたしとはいかなかったけどそんなところかな」

 話終わってどんよりとした空気を感じると、こんなに重苦しい話を年下の子に聞かせるものではなかったとあとになって後悔する。

「ありがとう。話聞いてくれただけでもスッキリした。お礼になんか奢るよ、何食べたい?」

 私はこの空気をかき消そうと無理やり明るく振る舞うが返答はなく、振り返ったら創くんは静かにどこか一点を見つめていた。

「行ってみたらどうっすか?」

 しばらく黙っていたかと思ったら彼は突然口を開く。

「だって瀬川さん、まだその人のこと好きでしょ」

 不意打ちをくらい、目を泳がせながらそっと視線を逸らす。

 好きという言葉に心がギュッと締め付けられた。

「そういうのじゃないよ」

 一瞬胸のあたりがざわつき頭が混乱する。

 何かに気づきかけていたけれどそれを知るのが怖くて、何も見えないよう心に蓋をしようとした。

「騙されてたし、最初凄い感じ悪かったし。それにあの人とはただ一緒に住んでたってだけでそれ以上でもそれ以下でもないから」

 私は彼と付き合っていたわけではない。好きあって夫婦になったわけでもない。

 お互いただ結婚したという事実が欲しくて一緒にいただけの赤の他人だ。元々そこに愛なんてなかった。

 むしろ千秋さんが欲しかったのはその愛のない結婚だったのだ。

 自分を納得させる呪文のように心の中でそう唱え続ける。自分でも恥ずかしくなるくらいムキになっていた。

「そう思いたいならいいっすけど」

 キッチンの方へと向き彼に背を向けたら呆れたような声がする。

「好きでもない相手に騙されたからって半年も引きずるもんなんですね。ど新人の時にも割ってなかった皿割っちゃうくらい一回の連絡で動揺して」

 ズバッと確信をついてきて痛いところを突かれる。それは私が気づかないように目を逸らしていた事実だった。

「はっきり言うねえ」

 私はあまりの動揺に笑い飛ばすことしかできなかった。

 しかし上手く笑えない。でも笑っていないと蓋をしたはずの気持ちが溢れ出しそうで耐えられなかった。

「ハタチの若造が生意気言ってって言われるかもしれないですけど、ちゃんと言葉にしなきゃ人の気持ちなんて分からないんですよ。逃げてきたまま知ろうともしないなんてもっての外です」

「創くん」
「偽装夫婦の真似事でも何でもしに行って、もう一度ちゃんと話し会ってくるべきだと俺は思います」

 いつも私の前では落ち着いていて〝自分は〟なんて大人ぶっていた彼が、私の前で初めて〝俺は〟と素になったように感じる。その変化に驚きつつ、背中を押された私は肩の力が抜けた。

「なんすか?」

 明らかに自分よりしっかりしている彼には正直参ったとジッと見つめていたら、目が合って怪訝な顔を向けられる。

「〝ハタチの若造が〟って私たちそこまで年違わないと思うんだけど?」
「え。ああ、えっと、すみません」

 気持ちが軽くなり心に余裕が出てきた私はそんな風に誤魔化しながら、焦る彼を見てクスッと笑う。

「元気出た。ありがとう」

 私は麦茶を一気に飲み干し大きく息を吐く。

 話してよかったと心の底から思い、前よりも随分楽に呼吸ができるようになった。

「焼肉」
「え?」
「食べたいものです。奢ってくれるんですよね?」

 和んだ空気から一転、思い出したように言う創くんの口から飛び出した重めのワードがうっと胃にのしかかる。

「私、まだ一食目なんだけど」
「俺もです」
「うわあ、そうなのね。若いな」

 顔を引きつらせ立ち上がる彼を恐る恐る見上げる。

「行きますよ。大して年違わないんじゃないんでしたっけ?」

 しかし最後は一発KO負け。
 何も言い返せなくなるくらいの渾身のパンチを食らった気分で思わず笑えてきた。

「そういえばそうでした」

 私は財布を手にとり玄関に向かう彼の背中を追いかけた。
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