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第6章
薔薇の花
しおりを挟む「体に、気をつけてな。」
「はい。」
日も暮れて、辺りは随分暗くなっていた。
玄関先まで見送ると、靴を履きながら照れ臭そうにそう言う父。身なりを整え、私に背を向け、ドアノブに手をかけた。
しかし、そのままなぜか動きを止める。しばらく見ていたけれど、なかなか帰ろうとはしなかった。
不自然にも、何度か半身後ろを振り返り、何か言いた気な様子でいる。その後ろで、ただ黙って立ち尽くしている私は、心の中で首を傾げていた。
その時、突然父が呟いた。
「たまには、顔を出してやりなさい。」
それには、私も聞き間違いかと疑った。
「親の都合ばかり押し付けて、挙句勘当したのは私だ。恨む相手は、私1人で十分だ。」
「お父さん.....?」
「でもな、お母さんは、晴日を心底心配してる。」
あれから、考えないようにと蓋をしていた記憶。
最後に交わした母との会話を思い出し、一気にその記憶が蘇ってきた。
桜にかけたはずの電話に出た母。もう関わらないでくれと、胸に深く突き刺さる言葉を言い放った母。あの声が、鮮明に思い出された。
「たしかに、体の弱い桜ばかり気にかけてしまう。それはいくつになっても、変わらないかもしれん。でも、あの電話で言ったことは、お前を大事に思っていないからじゃない。むしろその逆だった。」
そう言ってハンチング帽を掴み、目を隠すようにギュッと深く被り直す。
「その、あれだ。うちにはいるだろ。......矢島くんが。」
久しぶりに聞いた彼の名前。気を遣う父が、言いづらそうに名前を出すのにハッとした。
いつから、考えないようになっていただろう。
この半年、千秋さんとのことばかり考えて、悩むことと言ったら彼とのこと。3年も付き合って、結婚まで考えていた矢島さんの名前を聞いても、何一つ動揺していない自分がいる。
正直、驚いていた。
「桜のためなら、私の目を盗んででも家へ帰ってきただろう。だから、せめても晴日を傷つけたくないと言ってな。あれでも、自分が悪者になったつもりで精一杯やってたんだ。」
今日は、驚いてばかりいる。
すぐには信じられないことばかり。まさかと思うことが多すぎて、なんだかだんだん可笑しくなってきた。
含み笑いする私は、そのままボーッと黙り込む。
その時、気になったように目線だけを後ろに向ける父の様子が視界に入り、思わず口が動いていた。
「来てくれて、ありがとう。」
今の思いが全て詰まった、最大限の言葉だった。
父と対面する時の私は、いつも緊張ばかりしていた。大人になってから、笑顔を向けたことがあっただろうか。そんな記憶すら曖昧だった。
でも、その時ばかりは、穏やかなほど優しい表情ができていた。
「私、正直ずっと、お父さんに怯えてた。」
自分から話しておきながら、勝手に涙腺が緩み始める。じわっと目が潤み、自然と詰まり始めた鼻をすすりながら、ハハッと空笑いを浮かべた。
「ビクビクしてて、いつも身構えてて。怒ると怖いし.....。期待に応えなきゃって、プレッシャーも大きかった。だから、きっとこうやって、本音で向き合おうともしてこなかった。」
無理やり笑顔を作ろうとするものの、震える唇。力を入れながら、必死に堪えていた。
「もっと、早くこうすれば良かった。」
「晴日.....。」
「何で、できなかったんだろうね?」
涙ながらに笑顔を作ると、父はそれからもう私のことを見なくなった。
「ずっと、自分だけが辛いって、自分だけが分かってもらえないって卑屈になってた。でも、違った。何も分かってないのは、私も同じだった。」
何かが返ってくると、期待していたわけじゃない。
ただ、伝えたかった。
自分だけが被害者ズラをしていたけれど、それは全て、私が向き合うことから逃げていた結果。そう痛感させられたから。
「落ち着いたら、4人で食事でもするか。」
相変わらず顔を背けたまま、だんまりを決め込んでいた父の口から突然出たセリフ。
「それに、あれはお前の家だ。いつでも帰ってくればいい。」
そして、扉を開けながらそう言い残す。そんな不器用な姿に微笑みながら、私は見えないところで頷いた。
心が、ほっこりと暖かくなった。
「食事は.....いつでもできるからな。」
「え?」
人生ではじめて、親子らしい会話ができた。そう感じながら密かに喜んで、エントランスまで見送っていた時。突然立ち止まる父が、ボソボソと呟いた。
どうしたのかと不思議に思いながら、私もつられて足を止める。
「もう、お前のことに口出すつもりはない。思うようにしなさい。それで、自分のことが落ち着いたら、顔を出せばいい。」
どこか一点を見つめながらそう言う父は、私の顔も見ずに歩き出す。静かにしていたサムとサニーが、ここぞとばかりに吠えるのを無理やり引っ張っていった。
自分のことが落ち着いたら――。
その意味が分からず、眉間にシワをよせながら父の背中を追う。自動ドアを通り、慌てて呼び止めようとした。
しかし、私は言葉を失った。
構わず去っていく父の後ろ姿をよそに、ちょうど死角になって見えなかった壁の向こう側に、動く人影を見る。道に続くポールライトに照らされて、私の前に姿を現した。
「なんで.....?」
「ごめん。バイト先で、男の子がここだって教えてくれて。」
ゆっくり近づいてきたのは、私の家を知るはずもないスーツ姿の彼。不自然に両手を後ろに回しながら、私の目の前に立った。
そこにいたのは、千秋さんだった。
「今日、何の日だか知ってる?」
すると、唐突にそう言う。見送るだけだと思い、少し薄着で出てきた私は、ギュッとコートを抱きしめるように悩んだ。
「12月.....」
その瞬間、あっと声を上げた。
今日は、24日。クリスマスイヴだった。
すっかり頭から抜けていたイベント。もうすぐだと、世間の賑わいは目に入っていたものの、もう当日になっていたとは気づかなかった。
「忘れてた?」
「あ、うん。」
そう反応しながらも、私はまだ千秋さんの前に立つ心の準備ができていなかった。目を合わせられず、ずっと俯いたまま立っている。
その時、バサッと音が聞こえてきた。
気になって顔を上げると、目の前が一面真っ赤になった。
「明日のクリスマス、1時。ここに迎えに来る。」
彼の言葉が遠くに聞こえるほど、その迫力に目を丸くする。
大きな薔薇の花束が、目に飛び込んできた。
「1日だけ。晴日ちゃんの時間、俺にくれないかな。」
真っ直ぐ向けられた視線。あまりにも真剣な表情に、ドキッとさせられた。
恐る恐る手を差し出し、ゆっくり腕の中で花束を受け取る。心臓の音が騒がしくなる中、真っ赤な薔薇の美しさに目が釘付けになった。
「誘うのは、これで最後にする。でも、ちゃんと話がしたいんだ。」
その言葉に、花束を持つ手が少し震えた。
「でも、明日はバイトが。」
やっとの思いで口を開くと、そんなことを思い出す。クリスマスなんて、私にはもう関係ない。そう思って何も気にせず、シフトを入れた。
心が揺れながら、気持ちは千秋さんの方へと傾いている。
父への誤解が解け、同時に彼への誤解も解けかける。話がしたい。そんな思いでいっぱいだった。
「あー。それはー.....大丈夫だと思う。」
すると、言いづらそうに顎をさすりながら、体を少し背ける彼。私がジッと視線を向けると、彼は苦笑いを浮かべた。
「おかげさまで、クリスマスの予定がなくなったからって。」
「クリスマスの予定.....?」
「そう言えばわかると思います、って言われた。その子が、明日代わりに出るから、焼肉待ってますって。」
その瞬間、浮かんだ顔はひとつしかなかった。
創くん――。
申し訳なさいっぱいになりながら、その優しさに心が傷む。
私には勿体ないくらいの、真っ直ぐ純粋な気持ちを向けてくれていた。創くんのおかげで、助けられたことを山程あった。
7つも年下の男の子。だけど、この半年、1番頼れる男性は彼だった。
「あの子、晴日ちゃんのこと好きなんだね。」
優しく微笑む千秋さんの顔が、私を見下ろす。誤魔化すようにハハッと笑うと、彼は大きくため息をついた。
「敵は多いなー。小学生の生意気ボーイに、イケイケの大学生。」
「ちょっとっ!」
慌てて口を出し、顔を見合わせる。目があった瞬間、不思議と笑みが溢れた。
「明日、待ってます。」
花束を優しく抱きしめると、無性に愛おしくなる。
私は彼と目を合わせ、にっこりと微笑んでいた。
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