毒虫のリヴスコール

赤城ロカ

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 自分の紫煙を追うように歩いている。フォアローゼズはすでに半分もなかった。頭の悪そうなガキの笑い声を抜けて歌舞伎町へ入った。周りではなにがそんなに面白いのか、みんな笑っている。男たちの、ほとんど動物寄りのその声を聞いているとやけに喉が渇くので、俺は持っているボトルをラッパ飲みしていた。頭の上半分が三十センチくらい宙に浮いていて、下半分は地面に転げそうな、真っ二つに割れているんじゃないかという感覚で、脳みそは戻す前の高野豆腐になったように感じる。そして、喉は気が狂いそうなほどに乾きに襲われている。
 風俗街とホテル街の境の交差点で右に曲がろうとしたら、足がもつれて後ろに倒れた。後頭部をしたたかに打ちつけて、鼻の奥から血の臭いがした。起き上がろうにも力がうまく入らず、仰向けになったカメみたいにもがいていると、そばを通った酔っ払いどもが笑っていた。おう、ボウズ、頑張れ、とかなんとかほざいて。
 肘を立ててどうにか上半身を起こした。すると酒気が俺の身体を突き飛ばすように強烈に回って、それに耐えていると胃液がこみ上げてきて、その場でえづいた。なにも出てこず、それでもげえげえやっていた。視界はさらに狭まり、喧騒が遠のいていき、このまま目をつむって眠ってしまおうかとさえ思った。これで最後だと、これでダメならここで寝ようと、精一杯目を見開くと、一ブロック先くらい離れたところにエマがいた。彼女はギターケースを背負って俺をじいっと見ていた。その姿だけ、幻のように鮮明に俺の目に映っていた。声を張り上げて名前を呼んだつもりだったが、声はほとんど出ていなかったのが自分でもわかった。肘に力を入れて尻を持ち上げ、這うようにしてエマのところまで行こうとした。地面に吸い込まれる雨になった気分だった。思わずうずくまり、それからもう一度頭を上げると、もうエマはいなかった。四つん這いで道を横切り、向かいにある、なんの店かはしらないが、潰れたのか営業してないだけなのか、シャッターが降りていた。俺はそこに身体をあずけて、登るようにして立ち上がった。失禁したように下半身に力が入らず、踏ん張っていてもその感じがしなかった。壁伝いに歩き、エマのいたところまで向かった。細い十字路だった。左を見ると、エマがビルの中へ入る姿が見えた。
『あすなろ』という、古くて心細い看板があった。その店は地下にあるようで、螺旋階段がドリルのように下へ向かっていた。一歩降りようとしたときに足を踏み外して、思い切り転がり落ちた。痛みはほとんどなかったが、身体はもう、いうことをきかなかった。早く起きなければと気ばかりが急いて、手足は絡まったように役に立たず、その上、あと一本糸が切れたら気を失うくらい意識も危うく、もういいやと諦めると、途端に吐き気がこみ上げてきて、胃液を吐いた。頬に生ぬるい感触がして、胸はやけに冷たく、ウイスキーの臭いが鼻を突いた。瓶が割れたんだなと気づいたが、それ以上はもうなにも考えられず、全身が寒かった。意識が薄れていくのがわかった。その半ばで、どこか遠くのほうから声が聞こえたような気がした。
「マディ! マディ!」
 俺は一瞬、息ができなくなり、そのあとにさらに寒気が走った。大きく息を吸おうとしたら、喉の奥になにかが入った感じがして思い切りむせこんだ。
「おお、生きてた生きてた」
 男の声がした。それを認識すると、全身からいろいろな情報を感知して、寒いし痛いし気持ち悪いしで、死んだほうが楽だと思った。目を開くと、口が髭で覆われたおっさんが俺の顔を覗き込んでいた。どこかで見たことのある顔だと思った。と、おっさんが手にしているボロボロのギターを見て思い出した。この間、あすなろでセッションをしていた、あのおっさんだった。
「キング、さん」
 男はほうと呟いた。なんで俺の名前を知ってるんだ。
 重い重い身体をゆっくりと起こして、階段の柵に身をもたれた。手に冷たくて固いものがあった。そして、俺の全身はずぶ濡れになっていて、氷水をぶっかけられたのだとわかった。キングが中に向かってなにかを叫んでいる。筋骨隆々のバニーガールが出てきて、そいつがさらに氷水を俺にぶっかけた。
「もう、大丈夫、です」

 目が覚めると、全身に激痛が襲いかかった。思わず呻く。全身の痛みとは滅の痛みが、頭を駆け巡っている。そして、臭い。
 目を開くと、カラスと目があった。俺は驚いて飛びすさると、また全身が痛んだ。俺はゴミの山で寝ていたようだった。カラスはポリバケツや防護ネットに留って、どうにかしてゴミを漁ろうと躍起になっていた。
 道行く人々の、遠巻きに俺を見る視線が突き刺さるようだった。歯を食いしばって立ち上がると、バキバキと身体が鳴った。自分の居場所がわからないので、とりあえず大通りへ出ようと人の流れに乗って歩き出した。建物はどこもシャッターが降りていて、みんな立ち止まることなく歩いていた。とどまっているのはホームレスばかりだった。
 足が地面に着くたびに頭に響いて、顔をしかめる。重い身体を引きずるように歩いていて、腕を見ると擦過傷に血が浮かんでいた。動かすと神経に障るような嫌な感じがして、その手で頭を触ると、右のこめかみから血が流れているのがわかった。足元を見ると、やはり血がぽつりぽつりと俺のあとを追うように垂れていた。
 途端に地震が来た感じがして、足元をすくわれた。そのまま崩れ落ちて仰向けに転がった。大丈夫ですかと声がした。
「ひどい怪我ですよ、救急車呼びましょうか?」
 スーツを来た女性だった。俺は大丈夫ですと言って身体を起こそうとした。しかし頭で思っていることが身体にまで指示が通らず、なにもすることができなかった。やっぱり病院に行ったほうがいいですよ。いや、大丈夫です、と俺は言った。
 大丈夫とは言ったものの、これが大丈夫でないのはわかりきっていたし搬送してもらったほうがよっぽど楽だということもわかっていた。しかしどういうわけか、それだけは避けなければならないという気がしていて、それが俺の口から大丈夫ですと言わせているのだった。
「じゃあせめて手当てだけでもしないと」
 お姉さんはそう言ってそばにあったドラッグストアへ入っていった。俺は呆けたように空を見ていた。重たい、蓋のような雲に覆われていた。ふと右に顔を向けると、この空に似合わないほど明るい声色で販促の言葉を並べたてる女が目に入った。よくやるよなとその姿を見ていると、その女は恐ろしいほどのアルカイックスマイルで喋っていた。商品の魅力について語っていてもそれが本心でないことはその表情を見れば一目瞭然で、その笑顔も時給いくらの、その分の笑顔でしかなかった。
 お姉さんが戻ってきた。ちょっと滲みるわよと言って、消毒液を染み込ませた綿で傷を軽く叩いた。滲みるのはちょっとどころではなかった。
「男のくせに情けない声を出さない」
 冷酷ともいえる無情さでお姉さんは消毒をし続けた。傷は二ヶ所や三ヶ所どころではなかったので、その責め苦のような消毒はいつまでも続いた。
 絆創膏や包帯で傷口を保護してようやく責め苦は終わった。俺はお姉さんの顔をまともに見られないまま、呟くように礼を言った。
「ちゃんとあとで病院に行くのよ」
 それだけ言うと去っていってしまった。人混みに消えていくのを見送って、俺はもう一度立ち上がってみた。心なしか身体がいうことをきくようになっている気がする。痛みはまだあるが、ひとまずこれで大丈夫だと思うと腹が減ってきた。
 牛丼を食べているとその温かさで急に気が緩んだのか、痛みが増してきた。そして、さっきのお姉さんの優しさにいまごろになって気づき、ろくに目も合わせられなかったことを思い出すと情けなくなった。
 半分くらい食べたところで食欲は失せ、食べるのをやめた。優しさにもいろいろなものがある。昏睡の酔っ払いに氷水をぶっかける優しさもあれば、満身創痍の浮浪者――俺も立派な浮浪者だろう――に手当てをしてくれる優しさ、あるいは見て見ぬふりをしてくれる街の人の優しさ……。
 店を出て、俺はケイコに電話をかけた。なぜだか、いまここで電話をしなければいけないような気がした。発信音が響く。いつも通りなら今日は休みのはずだ。しかしなにを話せばいい? わからないが、とにかく出てくれることを祈っていた。
 唐突に電話は切れた。もう一度かけ直すと、着信拒否にされた。受話口からは体のいい言い訳がアナウンスされているが、これは着信拒否なのだとすぐにわかった。
 ぽつりと頬に水がつたった。見上げると雨が降り出して、人々は傘をさしたり建物に駆け込んだりと雨から逃げていた。俺は降られるがままに任せていた。どうせ血や酒やゲロで汚れているのだ、それらをこの雨が洗い流してくれる。アスファルトから土埃の匂いが立ち込めてきて、それは空から降る微温い雨水によってどこかへ流されていった。
 汚れた服がさらに雨に濡れ、身体がいっそう重たく歩くのがおっくうだった。俺は人通りのない路地を探してそこで横になった。耳の下からやけに甘ったるい下水の臭いが届いてきて、そばには生ゴミが散らばっているので雨で腐った水分がこっちにまで来て、その臭いも一緒になって気を抜くと吐きそうになった。
 雨はカーテンのように静寂を連れてきて、俺はいつの間にか寝ていた。変な夢を見た。どっかの飲み屋でバンドの演奏を見ている夢だった。思い出して俺は笑った。もしかしたら夢じゃないのかもな。
 あすなろ。
 そうだ、夜になったらあすなろに行ってみよう。
 まだ昼過ぎだった。もうしばらくここで寝ていよう。
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