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「あなたはここに居るべきじゃないわ」
あすなろにはマディのほかに誰もおらず、俺とマディはカウンター越しに向かい合っていた。俺はスピリタスで作られたロング・アイランド・アイスティーをすすった。口の中になにも残らず、飲んでいる感覚がしなかった。
「ここはね、忘れられた場所なの。お店の名前――あすなろ――の花言葉、『永遠の憧れ』。――そんなもの、どこを探してもありえないわ。人は忘れることで進んでいくのだから」
俺はマディの顔を見ることができずに俯いて聞いていた。
「――だからね、あなたももう、こんなところは忘れてしまいなさい」
甘い紫煙の香りが届いてきた。俺は顔を上げて、煙草を吸っているマディに言った。
「でも、俺はここで言われたんですよ。『寂しい夜にはここへ来な』って。俺はもう、帰る場所なんてないし、これからだって――」
「あなたに忘れたい過去なんてあるの?」
マディの視線は俺を真っ直ぐに射抜いた。
「……ありますよ、そりゃあ――」
「あなたはここに居るべきじゃない」
えっと声が出たが、そのあとに続く言葉が見つからなかった。
「ここは辛かったことや悲しかったこと、楽しかったことでさえも忘れてしまえるわ。でも、あなたはまだまだ、忘れられるだけのものを見つけていない。あなたは本当に彼ら――キング、スリーピー、ルイ、そしてカワサキ――たちと笑い合えると思ってるの?」
俺はマディの視線を避けるように、また俯いた。なにも言葉が出てこなかった。
「……カワサキのお金を盗んだって本当?」
俺は視線を落としたまま黙って頷いた。
「カワサキはああいう人間だからなにも言わないけど、あなた、それじゃあまるで毒虫じゃない」
「でもそれは……お金は必ず返します、だから――」
「さあ、もう出て行きなさい。そして、忘れてしまいなさい」
マディがドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。俺は酒を飲み干すと立ち上がり、なにも言わずに外へ出た。
「あなたはここにいるべきじゃない」
昨日見た夢が思い出された。その夢のあと、俺は日雇いのバイトをして、カワサキに金を返そうとあすなろへ向かった。しかしいつも通りに歩いていても一向にあすなろは見つからず、あすなろがあるはずの場所には見たこともないスナックがあった。ドアの向こうからは誰かが歌っているカラオケの音がする。立ち尽くして聴いていると、曲はライブでカワサキが歌っていた曲だった。
ドアが開き、客が出てきた。そのあとからママも見送りに出てきた。目の前で客とママは笑い合い、そして客が去っていった。俺はママを呼び止めた。
「あすなろっていう店がこの辺にあるはずなんですけど」
ママはあすなろと独り言のように呟いた。
「もうずっと新宿でお店やってるけど、聞いたことないわね」
二の句の出てこない俺にママはせっかくだから飲んでいかないと言った。俺はそれを丁重に断って、背を向けて歩き出した。
少し歩くと雨が降ってきた。コンビニに寄って、ジム・ビームのボトルを買った。傘は買わなかった。雨に構わず、ウイスキーを飲みながら歩いていたが、アルタの前まで着いたところでいきなりどしゃ降りになった。人が足早に駅へと向かっていく。それを見ると俺は足がすくみ、動けなくなった。冷たい雨水が身体のいたるところに入り込み、体温が下がっていくのがわかった。
俺はここでなにをやっているのだろう。
俺はその場に膝から崩れ落ちた。もう、なにもかもが嫌だった。特に、自分の不甲斐なさに、心底嫌気が差していた。もう、生きるには辛すぎた。俺はその場にうずくまった。そして、拳で地面を思い切り、何度も殴った。この痛みが、かろうじて正常を保ってくれている。しかし正気だろうが狂気だろうが、俺にはどうでもよかった。先のことなんで考えられないし、今現在のことだってわからない。地面を拳で叩き続けている。強烈な雨粒は背中を叩き続ける。
とうに夏は終わり、気がつけば秋になっていた。そういえば秋雨前線がどうこうと、どこかで聞いたような気がする。強烈な雨は容赦なく俺に降り注いだ。俺はそれをうずくまったまま受けている。やがて風が吹きすさび、スコールになった。強烈な風と雨が殴りつけるように俺に襲いかかる。
なぜ、こんなになってまで、俺は生きているのだろう。わからないが、スコールを受けていると、どうしても生きたい、という強い思いが俺の胸の奥から湧き出てくるのだった。
生きたい、生きたい。
涙は出なかった。雨が若干弱まるのがわかると、俺は再び立ち上がった。
卑怯者には卑怯者なりの生き方がある。臆病者には臆病者なりの生き方がある。ダメな奴にはダメな奴なりの生き方がある。そして、毒虫には毒虫なりの生き方がある。
しかし、それじゃダメなんだ。立ち向かわなければ。
俺は手に持っていたウイスキーのボトルを地面に叩きつけた。瓶は粉々に砕け、中身が雨水と一緒に溶けていった。
これでいいんだ。
俺はその場をあとにして、駅の構内へと歩き出した。
(完)
あすなろにはマディのほかに誰もおらず、俺とマディはカウンター越しに向かい合っていた。俺はスピリタスで作られたロング・アイランド・アイスティーをすすった。口の中になにも残らず、飲んでいる感覚がしなかった。
「ここはね、忘れられた場所なの。お店の名前――あすなろ――の花言葉、『永遠の憧れ』。――そんなもの、どこを探してもありえないわ。人は忘れることで進んでいくのだから」
俺はマディの顔を見ることができずに俯いて聞いていた。
「――だからね、あなたももう、こんなところは忘れてしまいなさい」
甘い紫煙の香りが届いてきた。俺は顔を上げて、煙草を吸っているマディに言った。
「でも、俺はここで言われたんですよ。『寂しい夜にはここへ来な』って。俺はもう、帰る場所なんてないし、これからだって――」
「あなたに忘れたい過去なんてあるの?」
マディの視線は俺を真っ直ぐに射抜いた。
「……ありますよ、そりゃあ――」
「あなたはここに居るべきじゃない」
えっと声が出たが、そのあとに続く言葉が見つからなかった。
「ここは辛かったことや悲しかったこと、楽しかったことでさえも忘れてしまえるわ。でも、あなたはまだまだ、忘れられるだけのものを見つけていない。あなたは本当に彼ら――キング、スリーピー、ルイ、そしてカワサキ――たちと笑い合えると思ってるの?」
俺はマディの視線を避けるように、また俯いた。なにも言葉が出てこなかった。
「……カワサキのお金を盗んだって本当?」
俺は視線を落としたまま黙って頷いた。
「カワサキはああいう人間だからなにも言わないけど、あなた、それじゃあまるで毒虫じゃない」
「でもそれは……お金は必ず返します、だから――」
「さあ、もう出て行きなさい。そして、忘れてしまいなさい」
マディがドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。俺は酒を飲み干すと立ち上がり、なにも言わずに外へ出た。
「あなたはここにいるべきじゃない」
昨日見た夢が思い出された。その夢のあと、俺は日雇いのバイトをして、カワサキに金を返そうとあすなろへ向かった。しかしいつも通りに歩いていても一向にあすなろは見つからず、あすなろがあるはずの場所には見たこともないスナックがあった。ドアの向こうからは誰かが歌っているカラオケの音がする。立ち尽くして聴いていると、曲はライブでカワサキが歌っていた曲だった。
ドアが開き、客が出てきた。そのあとからママも見送りに出てきた。目の前で客とママは笑い合い、そして客が去っていった。俺はママを呼び止めた。
「あすなろっていう店がこの辺にあるはずなんですけど」
ママはあすなろと独り言のように呟いた。
「もうずっと新宿でお店やってるけど、聞いたことないわね」
二の句の出てこない俺にママはせっかくだから飲んでいかないと言った。俺はそれを丁重に断って、背を向けて歩き出した。
少し歩くと雨が降ってきた。コンビニに寄って、ジム・ビームのボトルを買った。傘は買わなかった。雨に構わず、ウイスキーを飲みながら歩いていたが、アルタの前まで着いたところでいきなりどしゃ降りになった。人が足早に駅へと向かっていく。それを見ると俺は足がすくみ、動けなくなった。冷たい雨水が身体のいたるところに入り込み、体温が下がっていくのがわかった。
俺はここでなにをやっているのだろう。
俺はその場に膝から崩れ落ちた。もう、なにもかもが嫌だった。特に、自分の不甲斐なさに、心底嫌気が差していた。もう、生きるには辛すぎた。俺はその場にうずくまった。そして、拳で地面を思い切り、何度も殴った。この痛みが、かろうじて正常を保ってくれている。しかし正気だろうが狂気だろうが、俺にはどうでもよかった。先のことなんで考えられないし、今現在のことだってわからない。地面を拳で叩き続けている。強烈な雨粒は背中を叩き続ける。
とうに夏は終わり、気がつけば秋になっていた。そういえば秋雨前線がどうこうと、どこかで聞いたような気がする。強烈な雨は容赦なく俺に降り注いだ。俺はそれをうずくまったまま受けている。やがて風が吹きすさび、スコールになった。強烈な風と雨が殴りつけるように俺に襲いかかる。
なぜ、こんなになってまで、俺は生きているのだろう。わからないが、スコールを受けていると、どうしても生きたい、という強い思いが俺の胸の奥から湧き出てくるのだった。
生きたい、生きたい。
涙は出なかった。雨が若干弱まるのがわかると、俺は再び立ち上がった。
卑怯者には卑怯者なりの生き方がある。臆病者には臆病者なりの生き方がある。ダメな奴にはダメな奴なりの生き方がある。そして、毒虫には毒虫なりの生き方がある。
しかし、それじゃダメなんだ。立ち向かわなければ。
俺は手に持っていたウイスキーのボトルを地面に叩きつけた。瓶は粉々に砕け、中身が雨水と一緒に溶けていった。
これでいいんだ。
俺はその場をあとにして、駅の構内へと歩き出した。
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