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序章
謎の夢
しおりを挟むあの時、何が起きたのか理解できなかった……。
私は物心付いた時から、父と放浪の旅をしていた。父に「僕はどこで生まれたの?」と尋ねても、返事はいつも「さぁ、遠い遠い町のどこかだ」と答えるだけだった。
『遠い町』ってどこにあるんだろう?
初めてこの言葉を聞いた時、父は何を考えているんだろうと思ったが、今は何か言えない理由があると悟った。
父はいつも無口だった。
薄い唇をぎゅっと閉じ、必要なこと以外は何もしゃべらなかった。夕日が父の体を照らす時、うなじで結った紫色の髪は淡く光り、瞳は深い茶色の影がうつり、悲しそうに見えた。
そんな父だったが、私に武術を教えてくれた。その昔、父は祖国では五本の指に入るくらいの戦士だったらしい。
でもどうして国にいなかったんだろう?
父は私に「俺がいなくなっても、お前は自分の身を守って生き延びろ!」と言ったことがあった。
稽古をしている時、何もかも忘れ、父の声だけが聞こえていた。まるで父が空気や草や鳥の鳴き声を吸い込んだかのように。毎朝毎晩、雨の日も雪の日も稽古は続き、相手の攻撃を瞬時にかわせるようになっていた。
ある晩のこと、父が首に掛けているロケットをこっそり見た。絶対に見るなと前から言われていたけれど、どうしても気になってしまった。
父は眠っていても背後を取られる動作には敏感だったから、私は正面に座った。楕円型のロケットの中には、今のぼさぼさの髪ではなく、軍服を着て身なりを整えた父と、尼僧の姿の優しく微笑んでいる女性が並んで写っている。
誰だろう? その人は、濃い緑色に幾つものギザギザの筋が入った西瓜色の髪をしている。私と同じ色の髪。今まで旅をしてきて、同じ髪の人を見たことがなかった。
もしその人が身近な存在ならば、どうして離れ離れにならなくてはいけなかったんだろう。父もどうして写真のような格好をしないのか。私が物心付いた時から、焦げ茶に染めた麻布のマントを羽織り、無精髭を生やしている。
そして、再び頭の中にこの疑問が浮かぶ――どうして国にいなかったんだろう?
やましいことをしていなければ、こんな人目を忍んで旅をしないはずなのに。きっと何か理由がある。次第に私はそう思い始めていた。十五歳の誕生日まで。
*
その日、父と私は、北に高くそびえる『ゴルン山脈』の麓にある『ウルミントン』という町――武器の宝庫と呼ばれている――に寄っていた。
初めて剣を買ってもらった。今までは、父の使い古しだった。滑らかな刃、光に反射して銀色に輝く剣先は見事だった。剣の柄を握り、数回振ってみた。ビュンビュンと、剣がうなる音が聞こえた。そんなに重くない、気に入った。
「千二百五十ベルだ」
父は袋から音を立ててコインを出し、露天商に払った。
何軒か露店を見ているうちに、日が西に傾き始めていた。今夜泊まる宿を探している時だった。
「おぉ、旅人さん。早く宿を見つけた方が良いぞ。最近夜になると『闇の帝国』の憲兵達がうろついているんだ。奴らは『国を裏切った者』を捜しているんだと……」
私達に話しかけてきた老人は、すり切れたつなぎを着ていた。
「捕まらないように気を付けろ。捕まったら殺されるか、闇の帝国に連れて行かれるぞ」
老人は闇の帝国と口にする度に顔が青ざめ、
「あんた、もしかして……」
しきりに震えていた。老人の怯える声を聞いて、町人はそそくさと家の中に入り、露天商達は店を閉め始める。
何が起きるのか――ふと父の顔を見た。老人を警戒している。なぜ父は逃げないんだ?
老人は骨に皮だけが貼り付いた人差し指で父を指した。
(逃げられない。そうなのか!?)
日は刻々と沈む。夕日に照らされた老人の影は長く見えた。
「邪魔だ――」
地の底から聞こえてくるかの如く重々しい声がするや否や、老人はその場にくずおれた。
(誰かいる)
父は不気味な気配を感じ、ベルトに装着している剣を素早く引き抜いた。やけに辺りが静かなのか、鞘と擦れ合う金属音が耳に触った。
同時に、老人の影から異様に暗い影がぬっと現れ、実体になった。
いったい何なんだ。驚きを隠せなかった。地面から出てきた? 形を変えている?
得体の知れないものは水飴を思わせる形から、徐々に精巧な人の形に変わっていく。父は剣を構えたまま、私の前に立ちはだかった。あの影は、父に阻まれて見えない。
「いいか、お前はここにいてはいけない。早く逃げろ!」
いつもと父の様子が違う。どぎまぎしていると、父は私の喉元に剣を突きつけ、
「お前には死んでもらいたくない。これを持って行け!!」
マントの中から銀色に光る鎖を引きちぎった。鎖の先には楕円型の塊がぶら下がっている。あれは父が大切にしているロケットだ。
私を見つめる父は、夕日に照らされたいつかの悲しい眼差しをしていた。
(分かったよ、父さん……)
何も言わずにロケットを強く握り締め、街の外れに向かって脱兎の如く逃げた。後ろを振り返らず、とめどもなく涙が頬を伝って流れていく。もう会えないと分かっていた。だから、気が遠くなるほど走った。
街の向こうに広がる地平線は、橙から紫に変わりつつある。
「父さん、大丈夫かな」
うなだれて、孤軍奮闘している父のことを考えた。心臓が早鐘のように鳴っている。夜気を帯びてきたのか、汗に濡れた服が肌に纏わり付いて気持ち悪い。
「そうか。お前は、あの男の息子か」
頭の中に突然入ってきた、低くてよく響く男の声。父ではない、背後に誰か立っている。残光で僅かに見える影はとてつもなく大きく、相手が只者ではないことを物語っていた。右手に大剣を持ち、おそらく私の二倍近くある身長――重厚な鎧の如く威圧的なオーラは、生きとし生けるものを圧迫するほどだった。身体中が総毛立ち、剣の柄を握りしめて震えを止めながら、
「お前、いったい何者なんだ? 父さんと何か関係があるのか?」
抜剣しようとするが、なぜか鞘に引っかかって阻まれる。
「お前の父は死んだ」
ドッと、うなじに槌で衝かれたような衝撃が走った。次第に体が重くなり、視界がぼやけてきた。目の前に無数の赤と黒の点々が飛び交い、意識が遠のいていく。
――お前の父は死んだ。
あの言葉は本当だったのか、大剣を持った男の言葉は。父が死んだなんて。否、きっと生きている。
そう信じていた。
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