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第4章 孤高なる闇

闘技場

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「冥土の土産に持っていけ!」

 憲兵は連行時に捕虜から奪った品を保管していた。数日前、帝国に連行される際に奪われたペンダントは、しっかりと首に掛けられている。
 この闘技大会は生きるか死ぬかの戦いだ。生き残るのは、おそらく優勝者だけだろう。所持品の返還は、死にゆく戦士に花を持たせてやろうと配慮しているのか。だが、それは観客を盛り上げるための演出にすぎない。

「感謝しろ! お前等の中で生き残った一人は、俺達のようにあるじに仕えることができるのだ」

 依然枷は手足に付けられたままだ。手足を拘束された状態でどうやって戦えば良いのだろう?

「黙って殺されてたまるか!」

 剣を手に入れた男は、憲兵に向かって突進した。
 ところが、直後に剣を握った左手に激痛が走った。何と、枷の内側に何枚もの刃が生じ、ねじるようにして手首に食い込んだのだ。

「ぎゃあ!!」

 刃はぐにゃりと回転し、易々と左手首を切り取った。剣を握ったままの手首は鈍い音を立てて床に転がり落ちる。
 一同黙って見ているしかなかった。手首の断面からは、とくとくと血が流れ落ちる。男は痛みに体をよじらせ、床に倒れこんだ。

「主に逆らった罪だ。おい! お前らもこいつのようになりたくなければ、おとなしくするんだな」

 憲兵は声を荒げる。

「ふっ、こいつは使い物にならねえな」

 そう言い放つと、奴は男の背中に剣を突き刺した。断末魔の叫びが止み、男はぴくりとも動かなくなった。
 一方、会場の活気は最高潮に達しつつあった。もうすぐ試合が始まる。手拍子を打つ者、歓声を上げる者。観客達の興奮が振動となって伝わってくる。
 拍動を刻むが如く、太鼓が打ち鳴らされた。士気は高まっている。鉄格子が開かれると同時に、一斉に私達は入場した。全員が檻から出ると同時に、手足の枷は勝手に外れた。
 頭上から歓声が雨あられと降り注ぐ。闘技場は異様な活気に満ち溢れていた。

「おい、今こそ逃げるぞ!」

 手足が自由になったことを機に、脱走を企む者がいた。この囲まれた壁を登って逃げるというのだろうか。
 ところが、彼の計画を打ち破るようにして地面が激しく揺れた。ギシギシと金属の軋む音がこだますると、場内のど真ん中に四角い亀裂が走り、斜めに床が持ち上がった。何と、闘技場には地下があったのだ。
 暗闇から地鳴りを伴う唸り声が聞こえると、坂を駆け登って巨大な牛が数頭登場した。鼻息は荒く、口からは涎を垂らし、前脚で地面を踏み鳴らしている。
 まずはこの獰猛な牛を相手にしなければならないようだ。
 ただひたすらに逃げた。誰とも戦いたくなかった。殺生のために、剣を振るいたくない。
 暴れ狂う巨大な牛を相手に剣を振るう男達。誰もが生き残りたいと切望し、互いに刄を向ける。獣か人か判別がつかない、悲惨なまでに血飛沫が飛び散り、地面を紅に染める。

「あいつに矢を放て!」

 観客席から声が飛び交う。
 矢とは何だろう。飛び道具は禁止のはずだ。訝しげに思う暇もなく、それは私の脇をかすめて背後の戦士に突き刺さった。

「……ぐはぁっ!」

 矢を受けた戦士は悲鳴を上げるや否や、見境無く斧を振り回し始めた。体中の血管が浮き上がり、流れ出た汗が蒸発する。口からは涎が垂れ落ちる。焦点の合っていない瞳が、彼を狂気じみた者へと変貌させたことを物語っていた。
 その矢には毒が塗ってあった。『覚醒毒かくせいどく』といわれ、毒を受けた者は、己の中の闇を引き出される。闘争心を煽るため、憲兵は弱そうな者を狙って矢を射っていたのである。矢を受けた動物は凶暴化し、人は狂戦士と化すのだ。

「アズ。お前はいつまでも逃げるつもりか」

 気がつけば、戦場に残っているのはジドと私だけになっていた。

「お前は逃げ、俺は何の躊躇いもなく人や獣を殺した。そうだ、生きるためだ」

 彼の片手に持った剣からは、血が滴り落ち、全身も返り血で赤く染まっている。私を見つめる瞳は血走り、肩で呼吸しているのが分かる。

「俺は生きている奴を手にかけるのが好きだ」

 そう言い放つ彼の足元には、一本の矢が落ちていた。もしや彼も毒を受け、狂戦士になってしまったのか。

「かかってこい!」

 声を荒げると、剣を振り回して突進してきた。
 嫌だ、戦いたくない。攻撃を避け、再び逃げた。私の態度に、観客は怒りを隠せない。彼らは不満の声を上げ、物を投げてくる者もいた。狂戦士に仕立てようと、毒の矢が私に向かって次々と放たれる。
 ジドは一向に疲れの色を見せない。何が彼をここまで駆り立てているのか。

「ジド、目を覚ますんだ!」

 呼びかけは虚しかった。剣の切っ先が私のペンダントを捕らえ、鎖を引きちぎった。ロケットが宙で弧を描きながら、ジドの足元に落下した。

「ほお、これがお前の大切なものか」

 彼は面白そうにロケットを拾い上げ、蓋を開く。中身を一瞥すると、地面に叩きつけ、

「こんな物にいつまでも囚われているから、戦えねえんだよ!」

 と、間髪を容れずに剣を突き立てる。ジドは高笑いをしながら、何度も何度も刃を突き刺した。

「お前は何のためにここに来た? 逃げるためか? ククク、馬鹿らしい。奴隷になった俺達は、もはや逃げられない。自分の名前を忘れちまい、今更南に戻って何ができる?」

 ロケットから火花が散る。

「アズ、俺がここに来た目的を教えてやろう。戦うために帝国に来た。南でうじうじ媚びへつらって君主に仕えるのに飽きたんだよ。どいつもこいつも他所の国の顔色ばかり窺って。そんな君主どもをぶった斬ってやりたいんだ」

 どうか、これは悪い夢だと思いたい。だが、ジドからは黒々としたオーラがくすぶっているのが見える。

「お前の親父は小心者なんだな。お前を見捨てて逃げたんだよ。今頃誰の手にも届かない所で、のうのうと暮らしているだろうよ」

 写真の中の「父さん」が血と泥で塗れていく。表面はボロボロに破れ、隣の女性も消えていく。

「親だってな、結局一番可愛いのは自分なんだ」

 それでも彼は剣を動かし続ける。高潮しているのか、腕の動きが先程より激しくなっている。

「お前は何を失った?」

 もはや写真は跡形もなかった。ロケットは形を失い、ただの鉄の塊にすぎない。

「――言いたいことはそれだけか」

 私の中で何かが音を立てて切れた。冷ややかなる怒りが体中から沸々と沸き起こり、体中の血液が脳に向かって一気に流れ込んでいる。
 許せなかった。彼の言葉は、私を極限まで追い詰めた。

「お出ましか」

 これを最期に、彼には勢いがなくなった。
 私は本能のままに動いていた。戦で正気を失ってはいけないと父が言っていた。戦に食われたらお終いだと。あの時、私はどのような形相をしていたのだろうか。
 明らかにジドを圧倒していた。力任せに剣を振るい、彼を追い詰めた。元々深手を負っているだけに、動きは遅い。刄が触れる度に皮膚が裂け、鮮血が飛び散った。

「……があぁっ!!」

 ジドを斜めに斬りつけ、血が吹き出る腹部に深々と剣身を突き刺した。止めの一撃だった。
 私の攻撃に、その場にいた誰もが歓声を上げた。歓喜に湧いて席を立ち、身を乗り出して大きく両手を振る者もいる。

「……やればできるじゃないか」

 剣は見事に貫通している。致命傷を受けているにも係わらず、ジドは乾いた笑い声を上げる。

「……お前のそれが見たかったんだ」

 顔は狂喜に歪んでいた。
 体中から血の気が引いていくように感じた。降り注ぐ歓声は遠ざかり、周囲から音が遠ざかっていく。
 彼が恐ろしくなり、半歩下がった。ギラギラと血走る眼を私に向けて、彼は近づいてくる。

「来るな、来るなっ!」

 怖かった。更に後ずさった。だが、背中に壁がぶつかり、これ以上逃げられないと悟った。彼の命を辛うじてつなぎ止めているのは――貫通した剣を引き抜いた。
 途端に、止まっていた血が噴水の如く吹き出した。返り血は私の顔を真っ赤に染め、ジドは力なく倒れた。

 戦場にいるのは遂に私だけになった。生き残った者は奴灰から『灰』へと身分が改められ、闇の帝王に仕える兵士となる。
 降り注ぐ歓声が、轟音のように私を打ちのめす。
 後戻りはできない。彼の言うとおり、捕虜になった時点で手遅れなのか。それなら帝国に立ち向かってやる。

 私は捕虜として帝国に連行された。見聞きするもの全てが新しいもののはずなのに、自分の中で冷静に対処することができた。帝国についての知識は、旅の中で父から教えられたんだ。
 確かすぎる情報。不精髭を生やした父は、実は相当な地位に就いていたに違いない。父は逃げたのではなく、もしかしたら殺されたのかもしれない。祖国を裏切るあるまじき行為を犯してしまったのか。父の謎を暴きたい、と誓った。

 あの時、ジドは私の中の何かを感じ取っていたのかもしれない。
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