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戦う夏休み

激闘の日⑨

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 馬橋のベンチ裏、マネージャー長の外薗ほかぞのは共用トイレの個室で八良ハチローを介抱をしていた。

「うえぇぇぇぇ……ゲホッ、ガハッ!」
「あーあ…ハチロー、あんた飯食ってへんのか。」
「くえ、る…か……うぇ、ガハッ!……はあ……はぁ…。」

 便器に頭を突っ込んでいる八良の背中をさすったり叩いたりする。かれこれもう10分以上嘔吐を繰り返していた。だが、昼食も栄養補助ゼリーとスポーツドリンクだけだった八良からは苦い胃液しか出てこない。

「キョーカぁぁ……あかん…こんなん……エースや、ない…うっ!ぇぇぇ…。」
「はぁ?あんた何寝ぼけたこと言うとんの?」
「だって、完投…でけへん……ゆー、こと、きかれへん……畠、めっちゃおこ、て……かね、もこわ、く……うぅ……。」
「畠くんが怒るのも、試合で雅嗣マサツグがおっかないんも、いつものことやろが。」
「う……うぅ…あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 八良は外薗に縋り泣きじゃくった。外薗は受け止めて母親のように背中をポンポンと叩く。

「あんた目ぇ腫れるで。勝ったら校歌斉唱あるのに。」
「せやかて…俺が、俺があぁぁ!あぁぁぁぁぁ!」
「あーもー泣くなアホ!ったく…あんな1年ボーズ、単打で出しても牽制するか畠くんが刺してアウトにするやろ。」
「出来へんかったぁ……三振せな……俺は…エース……やもん…グスッ。」
「わかった、分かったから。今日はもう、降りたんや…アンタはもう松田八良や……全部吐き出して…な?」
「キョーカ……うう……。」

 肩を震わせて泣く筋肉質の男を外薗は精一杯の力で抱きしめて支えた。

「落ち着いたら医務室行くで。ちゃんと診てもらわんと、ホンマに洒落ならんことになるで。」
「うん……うう……キョーカ……俺、俺ぇ……。」
「うん、うん…大丈夫、カッコ良かったで、ハチロー。」

 外薗は落ち着いた八良を支えながらトイレを出ると、待機していた看護師に手伝ってもらいながら医務室へ向かった。


 その途中、八良は試合状況が人々の口やウグイス嬢のアナウンスで知ることになる。


「嘘やろ……トモちん………。」


***


 打て打て畠! 打て打て畠!
 いけいけ畠! いけいけ畠!


 同点、ここは絶対に塁に出る、そんな意気が18m先の智裕を僅かに怯えさせた。

(松田ぁ……落ち着け……落ち着いて、俺を見ろ!お前が、この生意気なキャッチャーを抑えろ!)

 マウンド上で、勝手に孤独になっている智裕へ、今中はそう呼びかけるようにサインを送る。左手のミットを右の胸にトントンと叩いて、伝えようとする。

 だけど、伝わらない。

 スプリットを要求した。振らせるために。だが、低めのストレート。畠は合わせた。打球は左中間へ真っ直ぐに。

(ダメだ!せめて単打で!)

 今中が立ち上がる、畠は走り出す、智裕は球を捕ろうとしたがすり抜ける、ああ、もう、ダメだ。


 パァンッ


 鋭い、皮のぶつかる音。
 あまりの重さに、捕った直倫ショートは顔をしかめたがすぐに1塁へ送球し、畠はアウトとなる。


「あ、か……まつ………。」


 アウトとなったが、今中が智裕に近づきながら、俯いて右手を上げた。これは、今中が森監督と内密に決めていた合図だった。


 _松田は、もう、駄目です。


(あれ?監督が、ベンチから…出てきて……。)

(野村、の隣に……桑原先輩……が、こっち来てる?)

(みんな……集まってきてる……当麻先輩…白崎先輩……藤崎先輩……赤松……みんな……来てる…。)

(やだ……やだ……俺は、まだ……やれる……。)


「松田。」

(桑原先輩?やだ、俺は…。)

「あとは任せろ。」

(ここで降りたらエースじゃ、ない…!)

「お前ばっかにいい顔させらんねーよ。」

(いやだ!俺は……俺は……!)

「松田、ありがとう。」

(俺は……俺は……。)


「桑原先輩……お願い、します。」


 智裕は左手に持っていた白球を、桑原の右手に渡した。


***


 球場に、虚しいアナウンスが響いた。


『第四高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャー・松田くんに代わりまして、ピッチャー・桑原くん、ピッチャー・桑原くん、背番号、10。』


 八良の時とは対照的で、智裕は1人で歩けていた。前を向いて、堂々とベンチに向けて歩みを進める。凛としたその姿に胸を打たれた観客は立ち上がり、智裕へ労いを投げかける。


「松田!よくやったぞー!」
「神奈川の星だー!」
「馬橋相手によくやったー!」


 まっつっだ! まっつっだ! まっつっだ! まっつっだ!


 大きな、大きな声援は、智裕の耳には入らなかった。


(なんか……グルグルしてる……何も聞こえない。あ、監督が腕組んで立ってる……怒られるんだろうな、何やってんだ、って。清田にも、野村にも……みんなが呆れてるだろうなぁ……俺は、背番号“1”なのに……。)


 智裕は森監督の前で止まり、帽子を取って頭を下げた。するとゴツゴツした手が頭に乗せられる。


「よくやった。」


 厳しくても優しさが含まれた声色。智裕の耳にいやに響く。

 帽子を深く被り直して、ベンチにいた部員がタオルとスポーツドリンクを差し出した瞬間だった。


 ガターンッ


 智裕はそのまま倒れこんだ。


「ああああああああああああああああああ!」


 その瞬間が、運悪く全国に届けられてしまった。


***


「あ…っ!」


 松田家で見ていた全員は思わず前のめりになった。いつもは呑気に飄々と構えている両親も顔をしかめた。智之トモユキは立ち上がってテレビの目の前に座った。



『ちょっと今、第四高校のベンチで……降板した松田が倒れたようです。今ベンチの部員と監督…あ、裏からマネージャーも出てきましたね。声をかけています。ベンチに手をついてグッタリしている様子です。』
『熱中症や脱水症状ですと早急に手当てが必要ですね。ちょっと…これは……嘔吐しているようにも見えますが……。』
『あ、今係員が出てきました。何か、叫び声が聞こえますが……松田でしょうか。』
『恐らく作戦外の継投リリーフが相当悔しかったんでしょうね。先ほどの馬橋の松田選手同様、相当なプレッシャーを背負っていたことは間違いありませんから。』
『そうですね。今大会、目玉になっていると言っても過言でないカードですから……あ、どうやら、自力で歩けるようですが、係員に抱えられてベンチ裏に下がりました。場内も騒然としておりますが、グラウンドにいる選手たちは冷静です。登板した桑原、今中のバッテリーも準備万端という状態です。』



「とーちゃん、にーちゃん…大丈夫かな。」
「ちょっと……これって……。」
「やべーな…帰ってきたら荒れるかもなー。」

 父が不安そうな声でそう言うと、母は立ち上がりながらため息を吐く。

「またあんな面倒臭い……仕方ないわね…。」
「やだよ、あのにーちゃんクッソ怖いんだもん。殺し屋みてぇな顔するし。」
「ちょっとの辛抱よ。それだけお兄ちゃんは追い詰められていたってことなんだから。」
「うえー。なぁとーちゃーん、俺やだよ、あんなにーちゃん。」
「仕方ねぇだろ、放っておくのがいいんだよ。俺たちがアイツのために出来る事は何もない、普通にいつも通りに接して時間が経つのを待つしかあるめぇ。」

 そう智之に言い聞かせた父は缶ビールのプルタブを上げた。説き伏せられた智之は「ぶー」と口を尖らせた。

 少しの動揺、でも直ぐにいつもの平静。家族は何度も経験しているのだろうとわかる。
 
 だけど、拓海は震えが止まらなかった。平静になんてなれなかった。

「あ、あの……お、お手洗いお借りします…。」

 拓海はそう言って離席すると、トイレに入る。その途端に膝から崩れて、両手で口を塞いだ。


 「智裕くん!智裕くん!智裕くん!」と何度も叫びそうになったが声を殺して泣いた。ギリギリと奥歯を痛いほど噛み締めて泣いた。声が漏れないように、口を塞いだ。


(やだ、やだ…智裕くん!いやだ!どうして…どうして俺は何も出来ないの?智裕くん!)


 _拓海さん


 拓海の頭の中にある智裕の声は全部優しい。あんなにも笑わない、目を逸らしたくなるほどの苦痛を、拓海は知らない。
 大切な人が、大好きな人が、愛している人が、あんな風になっているのに、何も出来ない自分に不甲斐無さを覚えた。

「うぅ……あ、あぅ……も、ひ、ろ…く……うぅ…。」

(涙とまれよ。1番苦しいのは、智裕くんなのに…悔しいのは、痛いのは、智裕くんなのに、俺が泣いちゃダメなのに……。)


(ああ、俺、本当に智裕くんのこと、何にも知らない。)


***


 係員の男性に抱えられてベンチ裏に下がった智裕はなんとか自分の足で医務室へ向かった。

「ベルトを緩めて、まずは呼吸を落ち着かせてください!」
「はい!」

 医務室の看護師は顔面蒼白になっている智裕を見て、付き添いの増田に指示した。ベッドに腰を降ろさせて、増田は手際よく、ベルトを外し、スパイク、ソックスを脱がせた。そして智裕のボロボロで、ガタガタと震えている両の手を取り智裕の目を見ようと努めた。

「松田くん!私の声聞こえる⁉︎」

 そんな増田の呼びかけに智裕は頷きもしなかった。パニックになって過呼吸を起こしている。汗、涙、鼻水、唾液、胃液、ありとあらゆる体液が溢れる。増田はタオルで逐一拭う。

「落ち着こう、一緒に、呼吸して…お願い。いくよ?吸って…!」

 智裕はまだ整わない、コントロール出来ない状態だった。増田は立ち上がって片方の手で背中をさすった。

「大丈夫、大丈夫だよ…吸って。」

 何度も宥めて、ようやく智裕から「スゥ」と呼吸の音が聞こえた。

「止めて。」

 10秒数えて、その間も背中をさする。そして吐かせる。また吸わせる。それを何度も繰り返した。

「はぁ……はぁ……あぁ…あぁ…。」

 何度も何度も繰り返して、落ち着いた頃に看護師が経口補水液を差し出した。

「どうですか?飲めそうですか?もし無理なら点滴にしますけど。」
「のみ、ます……。」

 智裕は右手でペットボトルを受け取り、それを飲んだ。

「さっき吐いたのに、大丈夫?」
「点滴だと…試合終わる。」
「え?」
「降りても……ちゃんと、見ないと…ダメだ、から…。」

 落ち着いたはずなのに、増田の目に映った智裕の目には炎が灯されていた。

「それが、エース…でしょ?」

 独り言のように呟いた智裕の声は、仕切られたカーテンの中にいた清田に届いた。シャッとカーテンが開くと、けんけんしながら清田が智裕に近づいた。

「松田……立てるか?」
「おう……。」
「スパイク持てよ、行くぞ。増田、ベンチまで支えてくれるか?」
「だ、ダメだよ!2人ともまだ安静にしないと……!」

 戻ろうとする清田と智裕を諌める増田だったが、2人の熱意が無言でも伝わる。増田はキュッと唇を噛み締めて、拳を握り締めて、顔をあげた。

「あとで監督に怒られてよ。」

 智裕の手を取り立ち上がらせ、清田を肩に抱えて、3人は看護師や係員の制止を無視してベンチに戻っていった。


 その3人のやり取りを、カーテン越しに聞いてた八良と外薗は顔を見合わせた。

「キョーカ、点滴コレあとどんくらいやろ?」
「さぁ…20分はかかるんちゃう?」
「終わってまうやんか……。」
「かも知れんな。」

 八良はフラフラと上体を起こし、外薗の腕を掴む。

「エースは、最後まで試合を見届けなアカン……俺らはそう教えられたんや……。」
「……私はど突かれたくないんやけど。」
「今晩寿司食うたらちゃんと休むから、カンニンして。」


 八良は左腕の点滴を抜いて、ベッドから降りた。


「甲子園終わったら、なんか奢ってもらわんと割に合わんわ。」
「へへ…スイーツバイキング1回、でどや?」
「交渉成立。」

 智裕たちとは反対側に2人は歩いて行った。


***


 試合終了のサイレンが鳴ると、球場内からは割れんばかりの拍手と大歓声が選手たちに送られた。


 そしてすぐに四高のメンバーはベンチの前に整列し、馬橋のメンバーはホームベースの前に整列した。校旗掲揚、名門・馬橋学院の旗が浜風になびく。そして校歌斉唱、その中に八良も毅然としていた。


 球場を、激闘を終えた選手を、応援をしていた人々を、涙を流す人々を、夕陽が赤く照らした。



 その夕陽の下に、一起カズキ裕紀ヒロキはいなかった。


「う…うぐ……うぅ……。」
「かーずき、もう泣き止めよ。」
「だって……だって……ま、つだ…あんなに、あんな…うぐ……。」

 男子トイレの個室に2人で入って、智裕が降板してから泣き止まない一起を裕紀は抱きしめていた。頭を撫でたり、背中をさすったりして、なんとか落ち着かせようとしている。

「それはここで戦うやつらみんな一緒だ。まあ、あの2人は特別っちゃ特別だけど……。」
「わかって、ます…け、ど……うぅ……おれ、は……。」
「次に会った時に、頭ぶん殴って、お疲れって言ってやればいいんだよ。ほら、もう顔あげろ。」

 裕紀は一起の顔を持ち上げ、上を向かせる。ぐちゃぐちゃに真っ赤になったその顔に触れるだけのキスを落とした。

「せんせ……。」
「さ、今日はチキショー会だな。飲むぞー。」
「もう…飲み過ぎ……なんだよ、ばか。」


 トイレを出ると会場を後にする人達の会話が耳に入る。

「あの最強馬橋に2点差ってだけですげーよな。」
「ホンマ、馬橋が負けるんちゃう?ってなったよな。」
「あの赤松と堀ってやばない?なんであの2人公立におんねんな。」
「W松田の投げ合いは痺れたわー。」
「やっぱ今年はハチローで、来年は神奈川の松田がドラフトの目玉かな。」
「なぁ、U-18の試合ってBSか?」
「CSちゃう?ワシもあの2人もっかい見たいわー。」

 その言葉たちに一起はまた泣きそうになる。裕紀は一起の手を握り、人混みの中に突入させた。

「せ、ん…せ…?」
「裕紀、だろ?」
「あ……。」
「一起、お前は本当に底抜けにいい奴だな。」

 裕紀はぎゅっと力を込めて手を握ると、一起の方を見た。


「そんなお前が、可愛いよ。」


 たったそんな一言で、微笑みで、先ほどまでの一起の悔しさが吹き飛んでしまった。


***


 試合終了と同時に区役所ロビーでは自然に、バンザイ三唱が起こった。


「松田あぁあああ!よくやったぞおおお!」
「すごかったぞー!清田も赤松も!」
「もう…なんか怖いのか感動なのか…まだ涙でるよ…。」
「松田、すごかったね…。」

 2年5組はみんなそれぞれ感情をあらわにする中、幼馴染たちは突っ立ったままだった。

「負けちゃった…ね…。」

 高梨が信じられない、というように呟いた。

「勝つときもあれば負けるときもあるだろ。」
「……松田、大丈夫なのかな。」

 不安そうに画面を見つめる里崎を宮西は寄り添って支える。

 裕也は言葉を失っていた。

「大竹、大丈夫だよ。もう、全力だった……んだか、ら……。」

 裕也を慰めようとした高梨の方が泣き崩れた。裕也の肩に顔を乗せて支えにして泣いた。

「悔しい……ここまで、これてすごい、のに……負けるの…見たくなかったぁ……。」

 そうやって泣く高梨を裕也はそっと抱きしめた。

「みんな悔しいんだよ……高梨……俺も、悔しいよ…。」
「お、おた、け……。」

 ずっと智裕を見守っていた2人は静かに、静かに悔し涙を流した。


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