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戦う夏休み

ただいま、ツワブキさん(※)

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 新横浜駅に到着すると、地元のマスコミや高校野球ファンで溢れかえっていた。緊急で警察も警備で出動している。


「キャアアアア!松田くーーん!」
「トモちーーん!こっち向いてぇええ!」
「堀くんカッコいいーーー!」
「直倫くーーん!キャアアアア!」
「カッコいいよおおお!直倫様ああああ!」

 智裕、直倫、堀の3人は特に女性からの黄色い声援が送られる。

「清田あああ!感動したぞおおお!」
「よくやったぞ四高!」
「四高バンザーイ!」

 清田はあの負傷ヘッドスライディングで感動を与えていたようでおじさんからの声援が凄まじかった。
 四高の部員、特にベンチ入りメンバーはぎこちなく手を振ったり会釈をしながらそれに応えた。本来ならば電車で駅まで帰る予定だったが、この状況でそうもいかず、昨夜のうちに学校が大型バスを手配しており部員たちは警備に守られながら素早くそれに乗り込んだ。

 バスに乗ると、全員気が抜けて「うあああ」とだらしない声を上げる。

「な、何だよあれ……。」

 この状況をほとんどの部員は理解出来ずにいた。智裕は堀に、清田は今中と監督にそれぞれ支えられながらやっと乗り込む。


「桑原先輩!俺モテ期来ました!」

 智裕は桑原の隣に座るとキラキラした目でそう報告する。イラッとした桑原は智裕の唯一動く右腕を取り、雑巾絞りをする。

「いだだだだだだだ!ギブギブ!ごめんなさい調子乗りました!」
「年上女教師と付き合ってるくせにさらにモテたいかこのシケメン!」
「モテたいけど間に合ってるのでごめんなさい!……あ、気持ちいい。」
「そーか、じゃあもっと絞ってやるよこのドM!」

 ギリギリとさらに絞られてやっと解放される右腕は真っ赤になった。智裕はフーフーと冷ますように右腕を労わりながら、窓の外を眺めた。

「……あのアイドルみたいなウチワありますよね。」
「おお、俺にはねーぞ。」
「9割9分が赤松っすね…。」
「だろーな。」
直能ナオタカさんの時もありましたよね、県大会の決勝で。」
「おそるべし、赤松ブラザーズ。そして羨ましい。」

 その当人はというと、智裕たちから少し後ろの通路側の席に座って肘掛に肘をついて顔を支えている。その姿は芸能人のように美しく、キラキラとしていた。

「……桑原先輩。」
「あ?」
「赤松ってあんなカッコよかった?」
「何?やっぱ抱かれたか?」
「ちょっと…Sっぽい。」
「ははは、死ねドM。」

 桑原に後頭部を小突かれると、1番前に座った森監督が全員に声をかける。

「このまま学校に向かう。降りる時は一人一人礼儀正しくするように。」

 はい!

「それと清田と松田は市立病院に着けてもらうからそこで降りるように。親御さんが待っている。そのまましっかり診てもらえ。特に松田、お前は近々で国際大会が控えてるからしっかり治せ。」

 智裕と清田はふて腐れたように「はい。」と返事した。
 しかし本人以上に追い詰められたような顔をしていたのは直倫だった。隣に座った白崎しらさきがそれに気がついた。

「赤松?」
「………クソッ。」
「……いやいや、お前が悔しがってどうするよ。お前打った方だし、もっと打ってない俺の立場なくなるだろ。」
「俺がもっとしっかり守って打って…ってやれば……清田先輩も松田先輩もあんなにならなかったかもしれないって思ったんです。」
「そっか…お前あの2人と仲良いもんな。まぁもうすぐ夏休み入るし、その間に治るだろ。気にすんなって。」

 白崎は「大丈夫だよ」と直倫の肩を叩いて、頭をくしゃくしゃと撫でた。

「うわ!お前短いから分かりづらかったけどめっちゃ髪の毛サラサラじゃん!」
「そうですか?」
「どんだけ完璧なんだよ、ちょっと分けろ!」

 後ろから乗り出して白崎と直倫のイチャつきを見た増田は2人を盗撮、それを昨日入った馬橋の女子マネージャーのグループ通信に送信した。


***


 学校から2駅ほど離れた場所にある市立病院の前に着くと、智裕と清田は降車した。すぐ近くにそれぞれの母親が井戸端会議をして待ち構えていた。母たちは息子たちに気がつくと、駆け寄るでもなく悠々と歩いて近づく。

「あーあーあー、ケガ人共が。」
恭介キョウスケ、あんた骨折ったんじゃないでしょうね。」

 心配そうな様子は一切なく、面倒ごとを起こしてくれたな、と呆れた言葉を投げられた。

「オフクロ、頑張った息子に労いとかないの?」
「あら、これから貴方がまた怪我してたら誰が面倒見るんですか?」
「ぐぬぬ…。」

 智裕は昨年のことがあるので何も言い返せなかった。隣にいた清田の母も智裕の母に同意する。

「足なんかやっちゃったら、何にも役に立ちませんものねぇ。」
「うるせーよ。俺だって怪我したくてしてるわけじゃねーっつの。」
「偉そうに言う前にちゃっちゃと病院入りなさい!」
「智裕、アンタが支えな。」
「俺もケガ人!」
「左がダメなら右を使えばいいでしょ?」

 智裕の右手には用具やジャージの入った重たいバッグが提げられていたのだが、そんなことは母たちの計算にはないらしい。智裕は渋々清田に肩を貸して、清田は負傷した右足を引き摺りながら病院に向かった。


 2人とも待合室で問診を受け、1時間ほどしてからレントゲン撮影や触診を受けた。智裕は昨年の怪我もあるため、更にMRIの検査も受けた。
 そしてそれぞれが診察室に通され医師から話をされる。

「結果としては異常は見られません、極度の疲労かと思われますので2、3日は左腕を出来るだけ動かさずに安静にして下さい。」
「あの……上手く力が入らないのも、疲労なんですか?俺、以前よりも投げた球数は少ないんですけど……。」
「んー…松田さんに関しては1年前に3回も手術をしてますからね。問診でもリハビリ終了後にイップスを起こしたと伺っていますので…その可能性も否定できません。もし気になるようでしたら専門医を紹介しますけど。」

 母も流石に困ったような顔をした。智裕は覚悟していた言葉が返ってきたので、思いのほか冷静でいられた。
 専門医のいるクリニックの案内状を受け取って、智裕は診察室をあとにした。

「お母さん、会計に行ってくるから。ちょっとその辺で待ってて。」

 そう言われて智裕は再び待合室のソファに腰を落とした。そして左腕を少し上げて、グー、パー、と繰り返そうとするが力が入らない。
 嫌気がさして「はぁ」とため息を吐くと、外科の診察室から松葉杖をついた清田が出てきた。右足にはサポーターが巻かれている。

「清田、お前骨やっちゃった系?」

 智裕は清田に近づいて訊ねる。

「いや、捻挫で全治2週間だと。ちょうど休みに入るから良かったよ。盆明けには復帰出来そうだし。」
「そっかー…良かったよ。」
「足がしばらく使えねー分、肩のトレーニングでもするしかねーかな。で、お前は?」

 訊ね返されて、智裕はバツが悪そうに「あー」と頬を掻く。

「身体的には異常なしだから……そのぉ、イップスの可能性もあって、専門の医者紹介された。」
「マジかよ……クソヘタレのくせにイップスなんて生意気なんだよ。」
「あーーーー明日の朝までに投球の動画送らないといろんな意味で殺されんだけど。」
「……墓参りはしてやるよ。」

 清田に見放されたところで母が戻ってきた。

「さてと、帰るわよ。清田くん、こんな馬鹿だけどこれからも仲良くしてやってね。」

 母はそう言いながら智裕の頭を掴んで下げさせた。智裕は「いてぇよ!」と反論する。清田は恐縮してしまう。

「こちらこそ、これからもよろしくお願いします。」

 そう当たり障りのない返事をすると、智裕の母はニコリと笑って、智裕を引っ張って帰っていった。

(思いっきり左腕引っ張ってたけど……やっぱ松田の親って肝座ってるよな。普通だったらもっと深刻になるんだろうけど。ま、うちの家族も大概だがな。)


***


 母と車で帰宅する。駐車場から自宅のある棟に入ろうとすると入り口に見慣れたひょろりとした人影があった。

「あら、椋丞リョウスケくん。」
「ちわっす。」

 夏休み中なのになぜか制服を着た宮西が智裕に近づく。そして智裕の大荷物をヒョイと取り上げ、その辺に放す。

「おい!何してんだ!」
「あ?お前ガッコ行かなくていいの?」
「俺病院帰りだっつの!また次の登校日に報告会する……って。」

 ドサッ ダァンッ

 一瞬だった。宮西が智裕の胸ぐらを掴んでエントランスの階段に尻餅をつかせると、智裕の顔のすぐ横で足ドンして怯ませて身動きを取れないようにした。そして冷酷な目で智裕を見下す。

「朝から補講とかでガッコだったんだわ俺。」
「そりゃ5教科赤点…だしなぁ……。」
「ツワブキちゃん、超目ぇ腫れてたんだけど。」
「……………は?」
「お前が昨日だらしなく倒れたところ、テレビで放送されてたんだよな。」

 初めて知った事実に智裕は冷や汗をかいた。そして久々に見る宮西のガチギレモードに恐怖で震える。

「で、例の如くお前スマホ切りっぱなしじゃねーの?」
「……あ……うあ…。」
「図星だなぁ…その調子だと。おら、立てよ。」

 強引に左腕を引っ張られて立たされる。智裕は膝が笑っている。

「た…くみ……さん……が…。」
「あーあとな、何かお前のファンみてぇな奴に『てめぇは松田の恋人の資格なんかねぇ』とか言われて泣きまくってたぞ。」
「はぁ?」
「10分以内で保健室行け。」
「いや、俺左腕安静に」
「走れこのヘタレ。」

 そして宮西は智裕の臀部を思い切り蹴って、道路に飛び出させる。智裕は左腕に力が入らなかったのでそのままズサっとコケた。

「おい!何すんだよ!」
「てめーがちんたらしてる間にツワブキちゃん泣いちゃってるかもなー。」
「……くそ!」
「早くしねーと、俺が寝とるぞ粗チンヘタレ。」
「うるせーーーー!絶対お前だけには寝取らせねーからな!」

 智裕は宮西の安い挑発に乗って、そのまま学校に向かって全速力で走り出した。

「あー、炎天下の中ご苦労なこって。」

 宮西は智裕のバッグをヒョイと持ち、エントランスに入った。

「椋丞くん悪いわねー。」
「いいっすよ……おばさん、あの2人のこと知ってんだ。あいつは知ってるの気付いてないっぽいけど。」
「あの子、ホントに鈍い時は鈍いからねぇ。」
「マウンド降りたら半人前だよなあいつ。」
「言えてるわねー。」

 宮西は智裕の母と智裕の家に向かった。


***


(くっそあちぃ!てゆーか左手動かねーから全然走れねー!10分以内とか鬼すぎだろ!ベースランニング並みの速度じゃねーと着かねーっつのおぉお!)

 ジリジリと太陽が皮膚を焦がす。いきなり走ったものだから酸欠に近い症状が出てくる。だけど智裕は足を止めなかった。

(拓海さん!ごめん!俺自分のことばっかで、拓海さんを悲しませてたことに気がつかなかった…本当にごめん!)

 いつもは15分ほど歩いてたどり着く学校に10分もしないで校門に入った。昇降口は開放されていた。急いで靴を履き替えて、保健室へ全力疾走する。


 時刻は16時を回っていて、もしかしたら拓海はもういないかもしれない。だけど智裕はそこまで考えが回っていなかった。ただ、拓海が自分のせいで泣いていたという事実に心を痛めていた。

 ガラッと勢いよく保健室のドアを開けると、窓を眺める白衣を着た後ろ姿が微妙に熱い風になびいていた。そのキラキラした風景は間違いなく、智裕が愛しいと想う姿だった。

 愛しい人が振り向く間もなく、智裕はその後ろ姿を力一杯抱き締めた。先ほどまで全く力が入らなかった左手に、感覚が戻って、抱き締めた感触を智裕は認知する。


(嘘だろ……!さっきまで…全く動かなかったのに……。)


 「どうしたの?」「大丈夫?」「ごめんなさい。」、色々と拓海かける言葉を考えていた。だけど、智裕が選んだ言葉は。


「拓海さん、ただいま。」


 智裕が息を整えてから言葉をかけると、涙を流していた拓海が振り向いてきた。それを拭いたい智裕は、そっと拓海の唇に触れた。


「おかえり、智裕くん。」


 安心したような顔をした拓海が愛おしく、智裕はすぐに手を引いて、ベッドの仕切りのカーテンを閉めた。密室が完成した刹那、2人は時間を、淋しさを埋めるように深いキスを交わす。


「あ……ともひ、ろ…く……ん、ふぁ…ん。」
「んぅ…拓海……ごめん…んんっ。」

 キスをしながら、智裕は謝った。拓海の輪郭や首筋を左手で確かめる。

「動いた………。」
「え……どうした、の?」
「左手……昨日から……力、入らなくて……でも、拓海を触れてる……。」

 智裕はトンッと拓海を寝かすと、ワイシャツを忙しく脱いで、左腕に着けられたサポーターやテーピングを全て外した。露わになった智裕の左の掌や指先は、県大会決勝の日と比べ物にならないくらいボロボロだった。まだ微弱だが指先が震えている。

(……こんなに……こんなになるまで………。)

 拓海は両手で智裕の左手を取った。

「痛かった…よね?」
「……ううん、平気。」
「嘘つかないで……俺は……俺は…。」

 それから右手を智裕の左手に指を絡ませて、優しく握って智裕の指先を唇に持っていって口付けて。


「どんな智裕くんも、大好きだよ……どんな智裕くんでも知りたいし、受け止めたい……俺じゃ、頼りないかもしれないけど、智裕くんの痛いのとか、悲しいのとか、苦しいことも…全部一緒に向き合って……一緒に乗り越えていきたいんだ………だから、もう、置いていかないで……。」


 もう一度、口付けて、一度目を閉じて、目を開けて、智裕を見つめると、智裕の目からは涙がボロボロと溢れていた。


「ご、め……ほんと……ごめん………いた、かった……怖くて…1人で……ずっと、ずっと……。」


_あのマウンドの上で松田くんは孤独だったんです。

_期待の倍の失望や絶望を覚悟する重圧を背負って。


(野村くんの言葉は本当だったんだ……“1人じゃない”って慰めは通用しないんだ……。)


「ここに、俺が……いるから………帰ってきたら……俺が、いるから……ね?」


(俺はマウンドでは孤独だ。18m先に清田が見えても、下を向けば何も見えない。先を見据えても俺に敵意を向ける人がいる。俺は世界で1人だけだと思う。音も聞こえない、後ろも見えない、誰も信じられない……闇の中でただただもがいている。そこに光なんて、マウンドから降りるまで見えない。)


 智裕は左手で拓海の温もりを握りしめる。

(覚えておきたい、この体温を……マウンドを降りたら、愛しいこの人が存在していることを、覚えておきたい。)


「ありがとう……拓海………。」


(あんなに動かなかった……。)


「見て、拓海……俺の左手……。」

 智裕は拓海の右手をさすってみたり、自在に操る。そして拓海の右手にキスをお返しする。

「俺にとって、左腕は命と同じ……。」

 チュッ

「さっきまで動かせなかったのに、拓海に触ってから動くようになったよ…。」

 チュッ

「拓海は、俺の命を救ってくれた………ありがと……ありがとう……。」

 智裕は拓海の肩に顔を埋めて、嗚咽を殺して泣いた。
 そんな智裕の頭を拓海は愛おしく抱き締めた。
 

***


 窓もドアも施錠していないから、智裕と拓海は慎重に理性を保ちつつも深く交わる。

 制服のスラックスの前を寛げただけの智裕の脚の間に下半身だけ脱いだ拓海が顔を埋めて、智裕の屹立したソレを舌先で愛撫する。智裕は唾液で濡らした右手の指先で拓海の秘部を拡げる。

「あ、あぁ…拓海……気持ちいいよ…拓海は?」
「ん、ふぅ、ん……きもちいぃ……。」

 決して拙くない拓海の行為で智裕は敏感になる。卑猥な水音が誰かに聞こえてないかという警戒心も立派な興奮剤だった。背徳感とでもいうのだろう。
 智裕の逞しい3本の指が拓海のナカに侵入して、内壁を擦る。拓海は咥えながら声を漏らす。

「はふぅ……う、ん……‘。」

 クチュ、クチュ、と卑猥な音が2人の耳を犯す。

「も…いいよ……拓海、こっち……。」

 拓海の秘部から指を引き抜くと、智裕は拓海を抱き上げる。拓海は膝立ちをして智裕を見つめる。

「ともひろくん……。」
「……なに?」
「キス、していい?」

 愚問を投げると、智裕は柔らかく笑った。

(ああ、カッコいい……俺の大好きな優しい笑顔だ……。)

 拓海は智裕の肩に手を置いて、智裕の大きな手が腰に添えられて、拓海の方からキスをして、そのまま腰を落とす。そして解した秘部へ智裕の猛りを挿れた。

「ふぅう………んん…ぁ…はぁ……。」

 顔を紅潮させた拓海の喘ぎを、智裕が全て吸い込むように舌を絡めた。拓海はもっと智裕に密着したくて智裕の首に腕を回した。智裕の右手は拓海の背中を抱きしめる。

「拓海…淋しかった?」
「うん…。」
「甘えたかった?」
「うん……ともひろ、くん……ぼく、こわかったよ…。」
「……ごめんね、拓海。」

 生理的なのか感情的なのか目尻から流れた拓海の涙を智裕は舐めて、「しょっぱいね。」と笑った。それに拓海は安心してふにゃりと笑って智裕の首筋にキスをした。

「ぼくの、だいすきな……ともひろくんだぁ……。」
「うん……俺も、大好きだよ……。」

 また互いの唇を、呼吸を貪ると、智裕は腰を動かして拓海を突き上げた。

「はぁ…ん……っ!」
「拓海、声。」
「んん……むりぃ…おく…あ、ぁ…。」

 声が漏れる拓海は唇を噛んで耐える。智裕は荒れた左手を拓海の輪郭に添えて、親指で唇をなぞる。

「噛んだら痛いよ……ほら、俺にひっついて……好きでしょ?」
「うん…すき……だいすき……。」

 智裕は左手をするりと拓海の後頭部に持っていくと、そのまま拓海の頭を抱き寄せて自分肩に拓海を埋めた。そして拓海の髪の毛にキスを落として、突き上げる律動を速める。

「あ、あ、あ、あ、やぁ、んんん…あぁ……っ!」
「拓海、拓海……もう、泣かないで……ごめんな……拓海……。」
「ん、んん…ともひろくん…ともひろくん……あ、もぉ、はぁん…っ!」

 空白の数日、数日ぶりの触れ合い。空虚になった心を、熱を、満たすように注いだ。


***


 定時になって拓海は職員室に戻った。

「石蕗先生、お疲れ様です。」
「あ、久米くめ先生…お疲れ様です。」

 給湯コーナーに入ると事務員の久米に声をかけられた。久米は拓海をジロジロと見ると、クスッと笑う。

「なんか今朝と全然お顔が違いますね。」
「え…そうですか?」
「はい。今朝は何というか…この世の終わりのような顔色で心配したんですけど。」
「す、すいません……。」
「やっぱり石蕗先生は可愛い笑顔がお似合いですよ。」
「え……っと……。」

 久米は拓海の頭をクシャリと撫でて、「お疲れ様でした」とその場を後にした。

 拓海は洗面台にあった鏡で自分の顔を見る。

(目、腫れちゃってるなぁ……。)


 でも心はポカポカに満たされていた。


「おかえり……智裕くん。」


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