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第二章:不登校
しおりを挟む『あなたはどうなのかな』
私は小学三年生の頃に聞いたあの言葉が忘れられない。
絶対に『びんぼう』な筒井 蓮くんだったのに。
ママが言っていることに間違いなんてない。
それなのにあの母親は認めようともせず、私に問い返してきたのだ。
そして、あの時のママの私を見る瞳も忘れられない。
蛇のように鋭い目をしていたから。
その日の夕食はまるでお通夜のようだった。
お箸がお皿に当たる音だけが響き、空気が張り詰めていた。今にも破裂しそうなほど膨らんだころ、私の言葉が針となり爆ぜた。
「パパは今日も遅いのかな」
ガシャりと音を立て、二本で一組のお箸がバラバラになった。
「佳純ちゃん、ママに言うことないの」
「……いただきます」
「違うわよ!今日の参観会で自分が何をしたかわからないの?」
「発表できなかった」
怒りを含んだ言葉を発するママの目を見ることができなかった。
「違う!ママに恥をかかせたでしょ。みんなの前で『貧乏ですか』なんて聞いたりして、常識のない子育てをしてると思われたじゃない!」
「でも、ママたちいつもみんなで言って……」
言い終わる前に、一本になったお箸もどこかに飛んでいった。
「本人に言っていいこと、いけないことの区別もつかないの?そんな子に育てた覚えはないわよ」
「びんぼうって悪いことなの?」
私は本当に分からなかった。『びんぼう』の正体が……。
バラバラになったお箸を拾いながらママは言った。
「悪いんじゃなくて、可哀想なの。きっとお家でもお腹いっぱいご飯だって食べられてないと思うわ。でも、本人に言ったらいけないことなのよ」
「わかった」
「だから可哀想な子には優しくしてあげなさい」
「うん!」
拾われたお箸は片方ずつ違う色をしているように見えた。この時に感じた違和感が今でも心に居座っている。
……私はどうしても『びんぼう』の正体を知りたかった。
学校に行っても頭の中は『びんぼう』で占領されていた。勉強も身が入らず黒板に書いてある明日の予定、二時間目の『びじゅつ』がどうしても『びんぼう』に見えてしまう程。
「安藤さん、聞こえてますか?国語辞典を出してください」
『パンパン』と手を叩く音でハッとなり、隣の男子が曲がった机を無言で直してくれたことで焦っていた自分に気がついた。
「あ、ありがとう」
恥ずかしさを隠すために辞書を開きながらお礼を言った。
……は、ひ、ひ、びん、びんぼう。
無意識に『は行』に惹かれていく……。
『びんぼう【貧乏】・収入、財産が少なく、生活が苦しいこと』
「やっぱり、分からない。でもお金がないってことはわかったかも」
「何を調べてるの?」
「適当に開いてみただけ」
「お金って言ってたよ?」
急いで『あ行』を開き誤魔化した。
「ペラペラめくってただけだよ」
結んだ口を横に伸ばし、笑ったような顔をした。
授業中も蓮くんの母親が立っていた窓側を何度も見てしまう。
汚れた『しろいふく』を着ていたのに辞書に書いてあったような『貧乏』という冷たさは感じ取れなかった。
むしろ、温かな言葉と真っ直ぐな瞳が、私の胸に突き刺さったまま抜けないでいる。
きっちりと結われた髪をグチャグチャにしてしまいたい衝動に襲われた。
……分からない。もしかしたら私も『びんぼう』なのだろうか。
食欲が湧くはずの匂いが教室に充満しているが、私のお腹は食べ物を取り込むことを拒否している。蛇のように『びんぼう』を丸呑みしたからだろう。喉の奥でトグロを巻いているのだ。消化するまでにどれだけの時間を要するのかと怯えた。
それなのに、斜め前でパクパクと口を開けスムーズに物体を喉に流し込む蓮くんの姿が吐き気を誘った。
「……『びんぼう』のくせに」
つい、目には見えない物を吐いてしまったが、汚れた感情を拭う方法を思い出した。
足音を立てず、ぬるっと蓮くんに近づく。
「私の給食あげるね」
ママに教えられた通り、『びんぼう』に優しくした。お腹いっぱいご飯を食べられることを喜んでくれると思ったが、視線を逸らされた。
チクリと針を刺されたかと錯覚し、喉でトグロがギュッと締め付けられる。
「だってかわいそうだもん」
もう一度優しくしたが拒絶され、私は得体の知れない『びんぼう』に飲み込まれてしまいそうだった。
「私のママも言ってた」
……危ない。友梨奈の声が全てを飲み込みこむ前に手を差し出した。
『私は間違っていない』
今度は友梨奈にぬるっと近づき体を巻きつけた。
「やっぱり、蓮くんは『びんぼう』よね」
蛇の舌のように友梨奈の耳にそっと言葉を這わせた。
「うん。ママたちもみんな言ってるもん」
二人はヌメっとした空気に包まれ、無言で手を繋ぐ。
「私たちは『びんぼう』じゃなくてよかったね」
友梨奈ちゃんの言葉に救われた。そして、共同体になった私たちは無敵だ。攻撃してくる奴は飲み込んでしまえばいいのだから……。
昼休みが始まった頃、友梨奈ちゃんに呼ばれた。
「ねぇ、佳純ちゃん。私は要らないって言いたのに、これ……」
ピンク色のリボン柄をした体操着袋をぶらさげていた。
「また、持ってきたの?」
「違うの。ママが勝手にランドセルに入れるんだもん」
長い舌を鳴らし、そのまま掃除箱に丸ごと飲み込ませた。
「簡単なことだよ」
友梨奈はカエルのように目を丸くし、ゴックンと唾を飲み込んでいる。
「これで今日も二人で見学確定!」
「……う、うん。そうだね!」
返事の遅れが気になったが、飲み込むことにした。
グラウンドには『しろいふく』を着た固まりがゴロゴロしているが、一人だけ色をまとった人が近づいてくる。
「安藤さん、友梨奈さん、また見学ですか?」
「はい。体操着が小さくて……」
当たり前のように嘘を吐いた。
「成長期ですから、仕方ないと思いますが……なるべく早く用意してもらってくださいね」
「はい!私たちは『びんぼう』ではないので、大丈夫です」
私たちに背を向けた色をまとった先生に向け、二人で短く舌を出し笑った。
白く固まったものたちが、跳ねたり列を作る様子を静かに見ている間、顔の前で指を一本立て、友梨奈に秘密を話した。
「蓮くんのママにね、お仕事させてあげてるの」
「おしごと?」
またカエルような目をしていて、なぜかその目を見ると攻撃したくなる。ふーっと大きく息をし、続けた。
「蓮くんのお家は『びんぼう』だから、私のママがお店のチラシ入れをやらせてあげてるんだって」
「佳純ちゃんのお家、美容院だもんね」
「そう。電話番号の紙をティッシュの後ろに入れるやつ」
「あー!見たことある!」
「やっぱり『びんぼう』には優しくだよね。私のママっていい人でしょ」
「佳純ちゃんと一緒で優しいんだね」
私の目を見ずに答え、フリルのついた服に心を奪われているようだ。
「ねぇ、聞いてる?せっかく秘密を話してるのに」
「あ、ごめん。佳純ちゃんの服、真っ白なフリルが可愛いなって思って」
鋭い目に変わろうとした時、ギュッと手を握られ変わらずに済んだ。親密な時間はあっという間に過ぎていく……。
上靴を履くために友梨奈と手を離した時、白い固まりの一個がピョコンと現れた。
「体操着、忘れすぎだろ」
また、長い舌を鳴らした。大翔くんの鳴き声は大きく、職員室にまで届いてしまった。
ほら、ペタペタと聞こえる。
「先生、大丈夫です」
大翔くんと『びんぼう』に鋭い視線を向け、また嘘も吐いた。隣でじっとしている友梨奈にも同じ視線を送ることを、忘れなかった。
『もう、私に触るな』
喉のトグロが邪魔でうまく出来そうもなかったが、無理やり飲み込んだ。
……階段の手すりがぬるっと冷たく肌にまとわりつく。
……後ろからぬるっと何かが近づく。
「安藤の服、汚れてるぞ。『び・ん・ぼ・う』だな」
……び、、び、ん、ぼ、う?
白いフリルが茶色に染まっているのを見つけた。
私のカラダは大きな口を開けた『びんぼう』に飲み込まれてしまった……。
ここは真っ暗だ……。
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