ドッペルゲンガー

月澄狸

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一話完結

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 気づくと私は深い深い闇の中にいました。

 ここは夢の中でしょうか? あたりはしんとしていて、まばらに木があり、足元には草が生えているようです。私の前方には町があり、いくつかの光が見えます。
 しかしどうも光さえ薄暗いです。田舎道にある切れかかった道路灯と、そのまわりの空気のように、何か「ここは昔である」というような感覚を呼び覚まされるのでした。

 しかし実際のところは、現在なのか過去なのか、はたまた夢の世界なのか分かりません。闇だけが濃く、それ以外は淡く、まるで黒い空気の中に自分自身が溶け入ってしまいそうなのです。退屈だとか気味が悪いとか思いもしないまま、時が止まってしまいそうでした。

 ところが突然、その世界に動くものが現れました。前方から現れたそれは、人間の形をしており、さらに言うと私の形をしておりました。私が、私に向かって歩いてきたのです。
 すると今ここに在る自分は何なのか。私は私ではないのか? 確認する術などありません。前方から来た「私」は歩みを止めることなく、ついに私の前に立ったのでした。

 それは夢の中で出会う人間のようにおぼろげな存在で、私は自分の形をしているそれを、現実的な人間のようには感じませんでした。
 ですから私は、物を手に取るように、気兼ねなくその存在に手を触れてみたのです。肩や、顔の輪郭をなぞってみました。しかし自分の指の感覚がはっきりしません。こうしているうちに自分も相手も暗闇に塗りつぶされてしまいそうな気がするのでした。

 すると突然、頭の中に声が響きました。
「自由がないとは哀れなものだな」

 私が発した言葉なのか、それとも相手の声なのか、私にはそれすら分かりません。ただそのとき突然、自分は宙に浮いたような感覚になり、目の前にいたもう一人の私は急に小さくなったのです。

 元々夢のような淡い感覚であるのに、そこにさらに夢のような情景が流れ始めました。
 動く私。歩いてゆく私。何かを一生懸命に言う私。誰かと話している私。
 またしばらく経つと、私以外の人々が現れ、その人たちが話す言葉が流れてきました。

「……だから……そう……しなくては……。ここから離れられない。……それを…………しないわけにはいかない。……するしかないから……最後まで私はここで…………」

 概念という概念が、細かい砂のようにあたりに巻き散りました。しかしうるさくはありません。私はそれを、夢に出てくるどこか別の世界のもののように、他人事のように、ぼんやりと眺めていたのです。


 ふと気づくと、私はまた、自分と同じ大きさの「私」と向かい合っていました。

 相手の「私」はしばらく、人形のように微動だにせずこちらの目を見つめたあと、ゆっくりと視線をはずして背を向けました。
 すると相手の背中のさらに奥、闇の向こうから何かもう一つの気配が現れました。それは猛獣でした。

 うなり声も上げず、呼吸音や足音すら聞こえないような静けさの中で、獣はもう一人の私に近づいていきました。暗闇の中で一人と一頭が向かい合っています。

 すると突然、私のまわりに多くの生物の幻影が現れました。黒の中に白で描かれたような輪郭をまとったそれらの存在は、山奥から見上げる澄んだ星空のようでした。

 水の中や土の中で静かに息づく小さな小さな命。それらが急に大きくなって、私のまわりを泳ぎだしました。魚のような影も見えます。

 もう一人の私は、生物たちの影に向かって手を伸ばしました。すると様々な動物がそのまわりに集まってきたのです。
 その瞬間、今度は鮮明な光景が広がりました。多くの動物たちと触れ合っている私が見えたのです。生き物と寄り添いあい、空を見上げ、その手は星々にまで触れそうな勢いでした。

 するとあたりの町から植物が現れました。窓から、屋根から、地面から。ありとあらゆる場所に根を張り、葉を広げ、あたりを覆い尽くします。
 それはまるで、自分自身の抑え込まれていた何かを解放されるようでした。どこからどのように生えてもいい。どこへ向かって伸びてもいい。朝も夜も越えて、どこまでも歩いてゆける。遠い海や町や、星空まで……。
 無邪気ないたずら書きのような自由を植物に返すとともに、自分を縛るものも消えたように思いました。

 こちらへ伸びてきた蔓草に、私はそっと手を触れました。その指先にくるりとかすかに、蔓草が巻きつきました。


 その後、気づくと私はまた「他人」を見ていました。

「……だから……そう……しなくては……。ここから離れられない。……それを…………しないわけにはいかない。……するしかないから……最後まで私はここで…………」
 自身への呪文のように、同じ言葉を繰り返すのが聞こえます。

 すべての人の声の一部をかき集めたようなその存在は、今にも消えそうな炎のようでした。耳を澄ますとその言葉は、いつか最後に私が感じるであろう後悔にも似ていました。

「何の……意味があって……どうして私はここに……誰のために……しなければならないと言っているのか……なければいけなかったのか……私の……ではないものばかり身に着けて……私の……ではないことしかできないまま……また終わるのか……永遠に続くこの……から解放してほしい……私は……ただ……たかっただけ……」

 人間の概念の集合体のようなそれは、よく見ると、声を震わせ幼子のように泣きじゃくっていました。その丸まった小さな背中は弱々しく、抜け出せない何かをまとい、怯えているようでした。人々の隠された本心なのかもしれません。

「私の……ではないことばかり……自分にも……人にも…………自分の……意志さえ忘れて……」

 生きているときには、意識を、ほとんど別のものに乗っ取られている。その行動は、自分の思うものではない。手をうまく扱えずにぐずっていた小さい頃と変わらないのかもしれない。……最後まで。


 そんな思いを感じた私は、思わずそれを抱きしめました。そうして、自分にも言い聞かせるように語りかけました。

「………………」

 ……私はたしかに何かを言いました。


 すると抱きしめた相手がゆっくりと顔を上げました。その存在は「私」に変わっていました。

「」
 相手も何かを言いました。


 そしてもう一人の私はふわりと空へ浮かび上がりました。その後ろにあるのはもう暗闇ではなく、朝焼けの空のようでした。「私」は腕に小動物を抱き、こちらに向かって笑いかけました。その顔は清々しく、今までに私が浮かべたことのない表情でした。

「私」は、すうっと空気に溶けるように姿を消しました。その向こうには見たこともない町並みが広がっていました。さっきまでの暗闇から感じていた印象が「昔」なら、今のこの町並みは……

「未来……」
 私はつぶやきました。



 その後、私は現実の世界に戻りました。あんなにも弱々しく震えていた概念たちは、元気と自信を取り戻したのか、けたたましく鳴り響いています。ここは、空にさえ文字の羅列が浮かんでいるかのような忙しい日常でした。

 数々の命がこぼれ落ちる毎日を知らなかったのはもっと遠い昔のことで、かつては何か知る度に自分の夢とは違うことを実感していきました。今は浮き沈みする感情の波に溺れないようにしています。

 それでも名もなき命が散るのは儚いことではなく、帰る家があるように安心できることで、そこに終わりも絶望もないのだと、私はあの夜を通じて確信しました。私の指先には今もまだ、赤子のように指を握ってくれた蔓草の温もりが残っているのでした。


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