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飼うというのは閉じ込めることか
YouTubeを見ていたら、関連動画に、3回人を殺した水族館のシャチ「ティリクム」の話が出てきたので見てしまい、憂鬱な気分になった。
閉園後に勝手にシャチの水槽に入って殺された男性がいたらしい。そのエピソードを見て、ゾウでもそんな話があったなと思った。たしかドラマでも見た「はな子」だ。
動物の殺人といえばチンパンジーの「ブルーノ」も有名らしい。ブルーノの場合、人間が恨みを買った理由がわりと明確なようだ。
動物にも人間と同じように記憶や感情がある。人間は、表向きには楽しそうに振る舞っていても、悩みを抱いていることが多い。もし「現状に満足していますか?」と聞かれたとして、そう簡単に「はい、幸せです」と言える人ばかりではない。
人間には欲求がある。それと同じで動物も、普段懐いていて楽しそうに見えても、色々と複雑な思いを持っているのだろう。
人間にとって動物を「飼う」という行為はわりと一般的だ。餌を与え、可愛がれば動物は懐く。動物は人間に対して友好的。怖がっていても優しくすれば分かり合える。そんな風に思っているかもしれない。が、動物と真に絆を結べるならば、閉じ込める必要はあるだろうか。動物の自由を奪った上での真の信頼関係というものはあるのだろうか。
鬼滅の刃で、「生殺与奪の権」という言葉を知った。飼われるというのは生殺与奪の権を相手に握られるということだろう。愛情を注いでペットを飼うのは殺すのとは目的が違う、愛だとはいっても、実際虐待や飼育放棄はあるのだし、動物が死ぬこともある。元々殺すために育てられる生き物もいる。戦時中の猛獣殺処分など、今までは大切に飼われていたものが、人間の都合で殺されることもある。動物にとっては、いつどうなるか分からない、自然界とはまた違う危険がある状態だろう。そんな中で動物は、「餌をもらえているから安心」と、心の底からくつろげるだろうか。
私たちは自由を好むが、生き物の自由に対してはわりと無頓着で、想像が及ばないかもしれない。閉じ込めても、生き物は自分を愛すると思うかもしれない。「飼う」という概念が、人と動物とのあるべき関係であると、どこか思い込んでいるかもしれない。しかし、もしも私たちが、頭の狂ったストーカーみたいな人に誘拐・監禁され、食物を与えられ、「愛しているよ」と言われたとして、愛を感じられるだろうか。なんとかして外に逃げ出そうと思うはず。愛しているなら監禁などしない……それは動物も同じではないだろうか。
ほんの少し行動を制限されるだけで人間は窮屈に感じる。たとえ豪邸であっても、家から一歩も出るなと言われれば落ち着いてはいられないだろう。自由に歩きたい、笑いたい、仲間と集いたい、時には遠くまで出かけたい……私たちには、制限されず様々な行動を取りたいという欲求がある。それらの思いを人はどうも、人間特有の気持ちだと思いがちだ。しかし、多くの感覚は、全生物共通ではなかろうか。
ペットが逃げ出したという話をよく見る。私は、「どうして逃げ出すのだろう」と疑問に思っている。
雷や花火に驚いてしまう子もいるらしい。しかし雷なら自然界でも目にするはず。普段から脱走願望を持っている動物も多いのだろうか。
子育てをする動物は巣を作る。帰巣本能があるはず。子を産み、育てるならば、気まぐれに巣に帰るのをやめたりすれば子どもは餓死し、種は死に絶えてしまうはずだ。なのにペットたちはどうして、大切な巣である家、家族である人間から逃げ、帰ってこられないのか……。
以前、興味深い言葉を知った。「ストックホルム症候群」というものだ。誘拐・監禁された被害者が、加害者に対して好意を持つという、謎めいた心理状態だ。
人間の心理もなかなか難しい……。ということは、従順で友好的に見えた動物が唐突に逃げたり牙を剥くのも、そこに様々な心理があるのかもしれない。
そもそも現状、世界は弱肉強食である。人間は、自分だけは生き物ではない、生態系や野生の営みとは関係ない、動物を管理できている、あるいは人類は強くて知能が高い、生態系の頂点であると思っている節がある。
「動物とはちゃんと向き合えば分かり合える」という感覚もあるような。だが生き物と分かり合えるならば、どうして私たちは、泣き叫ぶ豚を殺して食べ、必死に逃げるゴキブリを殺すことができるのだろう。
生易しい言葉では語れない溝が、すべての生き物と生き物の間にある。別に恨んでいようがなかろうが、そもそも生き物は生き物を殺すのだ。
人間は、「食べるための生き物」以外は「思いやるべき仲間」だと考えているかもしれない。コアラやパンダを見れば可愛いという。もし可愛い動物をいじめでもすれば、激しく批判されるだろう。殺していい生き物と、殺す対象ではない生き物……大切に守るべき命……そんなのは勝手な区別であり、生物共通の認識ではないというのに。
魚や鳥や虫や草と、人間と、動物から見て何が違うというのか。魚を食べる動物なら、人を殺すこともあるだろう。どうして「動物が人を殺すのは異常」なのか。動物にとっては人殺しなど、大事件でもなんでもないかもしれない。人だって、食べるためではないのに、人間の都合で生き物を駆除することも多々ある。自分たちは生き物に殺されない、などということはない。
「平成狸合戦ぽんぽこ」の人殺しの描写は衝撃的だったが、あちらの方が、動物の心理としては自然かもしれない。人間は生き物を追いつめている心当たりがなく、また、生き物は様々な情報を共有してなどいないだろうと思っている。童話などで動物が子どもに「人間は恐ろしいんだよ」と教えていたりするが、たしかに動物はそういう共有認識は持っていそうである。
私たちは日々魚や肉を食べているという事実を忘れ、「死」から遠ざかり、死骸を恐れる。動物は、死骸を恐れて生きていけはしないはず。
私は人を殺したくない。死ぬのを見るのが怖い。さっきまで生きて話していたものが、叫び、静まり、死骸になって動かなくなる様を見たくない。死への恐怖が強い。しかし動物は、殺すことに関して躊躇していられない。
現時点ではすべてにおいて犠牲がある。「あらしのよるに」の小説版で、ヤギたちが楽しそうに暮らしているように見えて、常に自分たちが殺される対象であることを忘れていないような描写がある。創作物とはいえリアルだ。
もし我々がヤギならば、「すべての動物はお友達」などと考えないはず。人間以外の動物の多くは、狩る側であると同時に、自分たちが獲物として狙われることを忘れていないだろう。人間は、ニュースなど見れば警戒するが、常に「殺されるかもしれない」と警戒することはないだろう。
人間は野生の過酷さを恐れる。今すぐ山で暮らしなさいと言われて、できる人は多くないだろう。食料があり、傷つく危険が少ない環境を好む。動物も、自然の暮らしは過酷なのだから、餌をもらって安全な場所にいる方が幸せなんじゃないかという意見もある。しかし、たとえ死ぬ危険が多々あるとしても、自由を愛する動物も多いのかもしれない。逃がしても人間の元に帰ってくる子もいるだろうし、繋がれずに人と一緒にいる子もいるだろうし、個体の性格によるだろうが。
現時点では飼うことは閉じ込めること。故に人間のエゴであるといわれる。
もちろん現在、動物の放し飼いはできない。すべての動物をその場で解放しろなどという極端な思いはない。生態系の問題もあるし、人に飼われた子はもう野生には帰れないかもしれない。「放し飼いにしていたらどっか行った」などというのは無責任だと思う。
以前、うちに住み着いたハエトリグモがいたが、ある日誤って掃除機でひき殺してしまった。小さな生き物に対し、常に注意を払うのはなかなか難しい。動物を囲うのは、動物を危険から守るためでもある。飼うならば生き物の安全を考えるべきだ。
現時点で、生き物を「飼う」ことが間違いとは思えない。今は今のルールや価値観に従うべきだろう。人と生き物の心温まる交流を見ると、本当に愛し合っているのだなと思う。誰かが撮ってくださった動物たちの動画を見て、日々感動している。飼うことによって生き物を知る……それがなければ、もっと環境問題や種の多様性が無視されていたかもしれない。
私はシャチの人殺しを見てシャチが怖くなった。元々、自分よりはるかに小さい虫でさえ怖い。なのに動物たちはすごい。人間より小さい猫や小鳥が、人間を信頼し、愛情を示す。それは当然のことではなく、感謝するべき奇跡であり、飼い主さんの心遣いの賜物なのだろう。
今は人間同士であっても、愛に制限が入る。「早く結婚して幸せになりなさい」と幸せの定義を押し付けたり、子どものやりたいことを制限して勉強させたり。
「動物 異種愛」で検索していると、きっともっと素晴らしい世界があるはずだと感じる。いつか弱肉強食はなくなり、動物を閉じ込めることもなくなり、人と生き物は自由になれるはずだと。
閉園後に勝手にシャチの水槽に入って殺された男性がいたらしい。そのエピソードを見て、ゾウでもそんな話があったなと思った。たしかドラマでも見た「はな子」だ。
動物の殺人といえばチンパンジーの「ブルーノ」も有名らしい。ブルーノの場合、人間が恨みを買った理由がわりと明確なようだ。
動物にも人間と同じように記憶や感情がある。人間は、表向きには楽しそうに振る舞っていても、悩みを抱いていることが多い。もし「現状に満足していますか?」と聞かれたとして、そう簡単に「はい、幸せです」と言える人ばかりではない。
人間には欲求がある。それと同じで動物も、普段懐いていて楽しそうに見えても、色々と複雑な思いを持っているのだろう。
人間にとって動物を「飼う」という行為はわりと一般的だ。餌を与え、可愛がれば動物は懐く。動物は人間に対して友好的。怖がっていても優しくすれば分かり合える。そんな風に思っているかもしれない。が、動物と真に絆を結べるならば、閉じ込める必要はあるだろうか。動物の自由を奪った上での真の信頼関係というものはあるのだろうか。
鬼滅の刃で、「生殺与奪の権」という言葉を知った。飼われるというのは生殺与奪の権を相手に握られるということだろう。愛情を注いでペットを飼うのは殺すのとは目的が違う、愛だとはいっても、実際虐待や飼育放棄はあるのだし、動物が死ぬこともある。元々殺すために育てられる生き物もいる。戦時中の猛獣殺処分など、今までは大切に飼われていたものが、人間の都合で殺されることもある。動物にとっては、いつどうなるか分からない、自然界とはまた違う危険がある状態だろう。そんな中で動物は、「餌をもらえているから安心」と、心の底からくつろげるだろうか。
私たちは自由を好むが、生き物の自由に対してはわりと無頓着で、想像が及ばないかもしれない。閉じ込めても、生き物は自分を愛すると思うかもしれない。「飼う」という概念が、人と動物とのあるべき関係であると、どこか思い込んでいるかもしれない。しかし、もしも私たちが、頭の狂ったストーカーみたいな人に誘拐・監禁され、食物を与えられ、「愛しているよ」と言われたとして、愛を感じられるだろうか。なんとかして外に逃げ出そうと思うはず。愛しているなら監禁などしない……それは動物も同じではないだろうか。
ほんの少し行動を制限されるだけで人間は窮屈に感じる。たとえ豪邸であっても、家から一歩も出るなと言われれば落ち着いてはいられないだろう。自由に歩きたい、笑いたい、仲間と集いたい、時には遠くまで出かけたい……私たちには、制限されず様々な行動を取りたいという欲求がある。それらの思いを人はどうも、人間特有の気持ちだと思いがちだ。しかし、多くの感覚は、全生物共通ではなかろうか。
ペットが逃げ出したという話をよく見る。私は、「どうして逃げ出すのだろう」と疑問に思っている。
雷や花火に驚いてしまう子もいるらしい。しかし雷なら自然界でも目にするはず。普段から脱走願望を持っている動物も多いのだろうか。
子育てをする動物は巣を作る。帰巣本能があるはず。子を産み、育てるならば、気まぐれに巣に帰るのをやめたりすれば子どもは餓死し、種は死に絶えてしまうはずだ。なのにペットたちはどうして、大切な巣である家、家族である人間から逃げ、帰ってこられないのか……。
以前、興味深い言葉を知った。「ストックホルム症候群」というものだ。誘拐・監禁された被害者が、加害者に対して好意を持つという、謎めいた心理状態だ。
人間の心理もなかなか難しい……。ということは、従順で友好的に見えた動物が唐突に逃げたり牙を剥くのも、そこに様々な心理があるのかもしれない。
そもそも現状、世界は弱肉強食である。人間は、自分だけは生き物ではない、生態系や野生の営みとは関係ない、動物を管理できている、あるいは人類は強くて知能が高い、生態系の頂点であると思っている節がある。
「動物とはちゃんと向き合えば分かり合える」という感覚もあるような。だが生き物と分かり合えるならば、どうして私たちは、泣き叫ぶ豚を殺して食べ、必死に逃げるゴキブリを殺すことができるのだろう。
生易しい言葉では語れない溝が、すべての生き物と生き物の間にある。別に恨んでいようがなかろうが、そもそも生き物は生き物を殺すのだ。
人間は、「食べるための生き物」以外は「思いやるべき仲間」だと考えているかもしれない。コアラやパンダを見れば可愛いという。もし可愛い動物をいじめでもすれば、激しく批判されるだろう。殺していい生き物と、殺す対象ではない生き物……大切に守るべき命……そんなのは勝手な区別であり、生物共通の認識ではないというのに。
魚や鳥や虫や草と、人間と、動物から見て何が違うというのか。魚を食べる動物なら、人を殺すこともあるだろう。どうして「動物が人を殺すのは異常」なのか。動物にとっては人殺しなど、大事件でもなんでもないかもしれない。人だって、食べるためではないのに、人間の都合で生き物を駆除することも多々ある。自分たちは生き物に殺されない、などということはない。
「平成狸合戦ぽんぽこ」の人殺しの描写は衝撃的だったが、あちらの方が、動物の心理としては自然かもしれない。人間は生き物を追いつめている心当たりがなく、また、生き物は様々な情報を共有してなどいないだろうと思っている。童話などで動物が子どもに「人間は恐ろしいんだよ」と教えていたりするが、たしかに動物はそういう共有認識は持っていそうである。
私たちは日々魚や肉を食べているという事実を忘れ、「死」から遠ざかり、死骸を恐れる。動物は、死骸を恐れて生きていけはしないはず。
私は人を殺したくない。死ぬのを見るのが怖い。さっきまで生きて話していたものが、叫び、静まり、死骸になって動かなくなる様を見たくない。死への恐怖が強い。しかし動物は、殺すことに関して躊躇していられない。
現時点ではすべてにおいて犠牲がある。「あらしのよるに」の小説版で、ヤギたちが楽しそうに暮らしているように見えて、常に自分たちが殺される対象であることを忘れていないような描写がある。創作物とはいえリアルだ。
もし我々がヤギならば、「すべての動物はお友達」などと考えないはず。人間以外の動物の多くは、狩る側であると同時に、自分たちが獲物として狙われることを忘れていないだろう。人間は、ニュースなど見れば警戒するが、常に「殺されるかもしれない」と警戒することはないだろう。
人間は野生の過酷さを恐れる。今すぐ山で暮らしなさいと言われて、できる人は多くないだろう。食料があり、傷つく危険が少ない環境を好む。動物も、自然の暮らしは過酷なのだから、餌をもらって安全な場所にいる方が幸せなんじゃないかという意見もある。しかし、たとえ死ぬ危険が多々あるとしても、自由を愛する動物も多いのかもしれない。逃がしても人間の元に帰ってくる子もいるだろうし、繋がれずに人と一緒にいる子もいるだろうし、個体の性格によるだろうが。
現時点では飼うことは閉じ込めること。故に人間のエゴであるといわれる。
もちろん現在、動物の放し飼いはできない。すべての動物をその場で解放しろなどという極端な思いはない。生態系の問題もあるし、人に飼われた子はもう野生には帰れないかもしれない。「放し飼いにしていたらどっか行った」などというのは無責任だと思う。
以前、うちに住み着いたハエトリグモがいたが、ある日誤って掃除機でひき殺してしまった。小さな生き物に対し、常に注意を払うのはなかなか難しい。動物を囲うのは、動物を危険から守るためでもある。飼うならば生き物の安全を考えるべきだ。
現時点で、生き物を「飼う」ことが間違いとは思えない。今は今のルールや価値観に従うべきだろう。人と生き物の心温まる交流を見ると、本当に愛し合っているのだなと思う。誰かが撮ってくださった動物たちの動画を見て、日々感動している。飼うことによって生き物を知る……それがなければ、もっと環境問題や種の多様性が無視されていたかもしれない。
私はシャチの人殺しを見てシャチが怖くなった。元々、自分よりはるかに小さい虫でさえ怖い。なのに動物たちはすごい。人間より小さい猫や小鳥が、人間を信頼し、愛情を示す。それは当然のことではなく、感謝するべき奇跡であり、飼い主さんの心遣いの賜物なのだろう。
今は人間同士であっても、愛に制限が入る。「早く結婚して幸せになりなさい」と幸せの定義を押し付けたり、子どものやりたいことを制限して勉強させたり。
「動物 異種愛」で検索していると、きっともっと素晴らしい世界があるはずだと感じる。いつか弱肉強食はなくなり、動物を閉じ込めることもなくなり、人と生き物は自由になれるはずだと。
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