となりの露峰薫さん

なずとず

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 恐る恐るチャイムを鳴らす。ピンポーン、という音が、夕方のアパートで妙に大きく響き渡った。

 クリスマス当日、土曜の夕方だ。いないかもしれない。そう思いながら、和真はしばらく反応を待つ。

 こんな日でもいつもと変わらず、アパートから見える景色は夕焼けに照らされ、橙色に染まっている。郊外の、一階に大家が住んでいるようなアパート。その4階からは、小高い丘や公園、道に沿って並ぶ住宅と、さらに向こうまで視線をやれば大通りの有る街が見える。いつも通りの光景に、少し心が和んだ。

『はい、どちらさまでしょう?』

 インターフォンから、機械を隔てた薫の声がする。和真は視線を戻して、よそ行きの声で返事をした。

「あ、隣の七鳥です! 今、お時間大丈夫ですか?」

『ええ、大丈夫ですよ』

「パジャマをお返しに来ました!」

『ああ、いつでも良かったんですけど……ご親切にどうもありがとうございます。今、開けますね』

 親切にしてくれたのは、薫のほうだ。和真が複雑な気持ちでいると、間も無く扉が開く。

 改めて、素面で見ると薫はなかなか顔立ちのいい男だ。長く伸ばした亜麻色の髪を三つ編みにして、穏やかな表情を浮かべているのだから、黙っていれば誰かの母親のように見えるかもしれない。温かそうな部屋着のセーターに、ショールを肩にかけているのも猶更そのように思わせた。

 年上、だろうと思う。背丈は少し、和真のほうが高い気がする。相変わらず、急に来たのに迷惑だなんて欠片も思っていなさそうな微笑みを浮かべていた。

 こんな男、めちゃくちゃ女の子にモテそうな気がするのに、イヴも今もひとりなんだな、と和真は頭の隅で思った。

「お待たせしました、わざわざ来ていただいて助かります」

「いえいえ! これ、ありがとうございます。それと、……お世話になったお礼です」

「ああ、いえ、本当にお礼なんてよかったんですよ」

「いやいや、それじゃあこっちの気が収まらないというか。本当に、ありがたかったので! どうか受け取って下さい!」

 パジャマの入った紙袋と、菓子折りの入った紙袋、二つを差し出す。薫は一瞬困った表情を浮かべたけれど、ややして「では、ありがたく頂きます」とそれらを受け取ってくれた。

「こんなに早くお返しをいただけるなんて。お加減も良さそうで、安心しました」

「いやー結構体、丈夫なほうなんで! それに、中に入れてくれた露峰さんのおかげで、風邪を引かずに済みましたし! ホントありがとうございました! また、そちらも困ったことがあったらいつでも言ってやってください! なんでもお手伝いしますよ!」

 じゃ、これで! と、和真は元気よく立ち去ろうとした。

 この後、街に繰り出して今夜の相手を探すつもりだった。薫に恩返しもできたし、スッキリした気分で男を漁れるというものだ。

 ところが。

「……ああ、あの」

「は、はい!」

 薫に声をかけられて、和真は出鼻を挫かれた。

「あの、もしよかったらなんですけど……あ、他にご用事が有れば別に断って頂いても結構なんです、でもその……よかったら、ピザパーティ、しませんか?」

「……はいィ?」

 思いもよらない単語が出てきて、和真は素っ頓狂な声を出してしまった。それをどう思ったのやら、薫は僅かに頬を染めて、気恥ずかしそうに言う。

「じ、実は、クリスマスにピザでも取って贅沢をしようと決めていたんですけど……ひとりでは食べきれないと思っていたところでして……」

「……ひとりで、ピザを?」

 和真の質問をまたどうとったのか。薫は苦笑して頷く。

「ええ、やっぱりひとりのクリスマスってなんだか寂しいから、せめて贅沢でもしようと思ったんですけど。余ったピザは冷えたら美味しくないだろうし、かといって冷凍したり、ましてや捨てるのもどうかと悩んでいたところなんです。なにぶん、年甲斐もなく初めてのことをしようとしたものだから、勝手がわかっていなくて……でも、今更止めるわけにもいかなくて。予約しちゃったから……」

「……はあー、なるほど……」

 薫の言葉を噛み砕いて理解しながら、どう断るか考えていると。

「あ、もちろん、お代は私が持ちますので……いかがです?」

 そう尋ねられて。和真は一瞬考えて、「じゃあ御馳走になります!」と元気いっぱい返事をしていた。



 
 小さなちゃぶ台に、Lサイズのピザを2枚とジュースを並べて。こんな贅沢しちゃっていいんだろうか、と喜んでいる薫は、穏やかな大人の雰囲気も何処へやら、まるで子どものようだ。

 和真は、宅配ピザならそれなりに注文したことがある。ひとりの時にだってもちろん。だから最初、ひとりピザぐらいでそんなにはしゃぐものかとも思った。

 しかし嬉しそうな薫を見ていると、なんだか特別な場に招かれたような気がして、こちらまで心が躍る。チーズがたっぷり乗ったピザは湯気を上げていて実に美味しそうだ。

「冷えないうちに、いただきましょう」

「そっすね! 露峰さん、先に好きなところから食べちゃってください」

「じゃあ、遠慮なくこの、チーズがいっぱいのところを……わあーーー、見てください、すっごいチーズが伸びちゃう、あああ、どうしよう、どうしよう」

「そのまま、そのまま口で迎えちゃって!」

「む、迎えにいく……あ、あむ!」

 見かけによらず大きく口を開けて、ばくりと頬張った瞬間、薫も顔をとろけさせた。んふふ、と笑顔でピザを楽しむ薫があんまり幸せそうで、不思議と和真も優しい気持ちになる。

「俺も、ご馳走になります! じゃあこっちの肉が乗ってる奴を……」

 テリヤキチキンにマヨネーズのかかったピザを手に取ると、ふうふうしてから口に放り込む。猫舌にも優しい熱さで、口いっぱいに罪の味が広がる。

「……ああー、やっぱピザうめえーー」

「ね、美味しいですね、ふふ」

 ふたりは笑い合いながら、次々とピザに手を伸ばした。

 正直言って、薫とのピザパーティーは実に楽しいものだった。

 そこに酒もセックスも睦言も無いけれど、不思議と退屈もしない。それは目の前の薫が、実に嬉しそうにピザを見て喜び、地球上で一番おいしいものでも食べているように、満面の笑みを浮かべて頬張っていたからかもしれない。

 なんにせよ、楽しい時間はあっという間に過ぎていくものだ。

「はあ、美味しかったですね、お腹いっぱいです」

「いやあ、めちゃくちゃご馳走になっちゃってありがたいです」

 テレビを見ながら、なんと言うこともない会話を楽しんで。いつの間にかテーブルの上には空のピザ箱が乗っている。

「周りを気にしないでピザを思いっきり楽しんだのは初めてです。お付き合いありがとうございました」

「い、いやいや! 俺はなんというか……タダ飯にがっついちゃっただけの奴なんで、ホント、ありがたいです。やっぱりお金出したほうが……」

「ふふ、じゃあ、私は「あちら」をタダ飯させてもらいますから、おあいこ、ということで」

 薫が冷蔵庫をチラリと見て言う。ああ、それならまあ、彼がいいと言うなら、いいか。和真は納得して、「お言葉に甘えて」と頷いた。

「でも、少しお腹が落ち着くのを待ちましょうか」

「そっすね、まだ腹の中がピザでいっぱいっス……あ、そだ、露峰さん」

「はい、なんでしょう?」

 空のピザ箱を軽く片付けていた薫に声をかける。

「あの、たぶん俺より年上のかただと思うから……タメ口で大丈夫ですよ」

「え、いいんです?」

「はい! 俺は……ちょっぴし丁寧に話しますけど」

 丁寧といっても、その程度だ。まだ出会って間も無い、年上の恩人にタメ口をきけるような気はしなかったけれど、逆はいっこうに構わない。そう思って提案すると、薫はしばらく考えて、頷いた。

「じゃあ、お言葉に甘えて……名前は七鳥君でいいかな?」

「あー、なんか職場みたいだから、できたら和真でお願いしたいス……」

「ふふ、じゃあ、和真君と呼ばせてもらうね。私のことも薫と呼んでくれると嬉しいな」

「薫さん」

 長い髪を三つ編みにした、穏やかな人を前にそう呼ぶと、なんだか本当に淑女と一緒にいるような気持ちにさえなった。

 だから、かもしれない。和真はセックス依存症であり、その気配が有ったら初対面の男とでも寝れたものだが、薫にはそんな気持ちは少しも起こらなかった。これほど近くにいるのに、だ。

「……薫さん、昨日の夜の俺から聞いたかもしれないけど、俺、フラれちゃって」

「……うん、昨日そう言っていたね……辛かったね、和真君」

 しんみりと言われたら困ってしまう。見ての通り、きれいサッパリどうでもよくなっているのだ。それほど軽薄な男だからフラれたのだろうし、実際すぐに立ち直るような男だからダメなのだ。

 その事実はすっかり隠して、和真は頭を下げる。

「ホント、薫さんによくして貰って、元気になれました! ありがとうございます」

「ふふ、よかった。私もとっても楽しいよ。ありがとうね……でも、無理はしないでね」

 薫はどうやら、空元気で言っていると認識したらしい。改めて己の薄情さが恥ずかしくなったが、和真は「はい」と素直に頷き頭を掻いた。

「でも、まだメインが残ってるよ。そろそろ頂こうか。和真君に貰った焼き菓子も有るし」

「そ、そっすね! いやまさか、こんなことになるとは思ってなかったんで、マジ俺いい仕事したなって気持ちッス」

「本当に、和真君には感謝しかないよ。クリスマスをこんなに楽しく過ごせるなんてね……ちょっと待ってて、冷蔵庫から取ってくるから。あ、温かい飲み物でもどう? コーヒーと紅茶が有るよ」

「じゃあコーヒーを……ブラックでお願いします!」

「和真君は大人だねえ、私はミルクティーに砂糖を入れないと飲めないんだよ」

「ええっ、なら俺もコーヒーに砂糖つけてもらえるとありがたいですっ」

 和真が慌てて言い直すと、薫はまた微笑んで頷いた。




 サンタやツリーの姿をした砂糖菓子が、白いホールケーキの上に佇んでいる。散りばめられた真っ赤なイチゴやベリーが、粉砂糖で雪化粧をしていて、小さな子どもでなくたって心が躍る。

 恐る恐るナイフを入れてみると、断面のスポンジケーキにもイチゴが挟まれて、実に彩り鮮やかで美味しそうだ。口に運べば、甘すぎない生クリームと、優しい酸味のイチゴ、そしてしっとりした生地と合わさって口いっぱいに幸せが広がる。日本人はどうしてこんなにショートケーキに惹かれるのだろうか。もしかしたら、子どもの頃のことでも思い出すのかもしれない。

 これまで数えてきた、幾度とないクリスマスの全てが重なって、深い味を出しているような。いやそれは考えすぎか。和真は焼き菓子やケーキ、コーヒーを楽しみながら、薫との時間を過ごした。

 不思議と、とても安らいでいたのに楽しくて。もしかしたら、ここ数年で一番いいクリスマスかもしれない、とぼんやり感じた。




「今日はホント、ご馳走になりました!」

 片付けも手伝って。すっかり夜も更けた頃、和真は部屋へ戻ることにした。

「こちらこそ、ケーキをありがとうね」

 薫も笑顔で手を振っている。ピザは薫が、ケーキは和真がお金を出して、割りがあっているかはわからないけれど、それでクリスマス会の貸し借りは0ということになった。

「また機会が有ったら、是非、お話しようね」

「はいっ、是非!」

 ふたりはそうして別れて、それで終わりだ。

 また機会が有ったら、なんて社交辞令でしかないし、ふたりは同じアパートの隣同士でしかない。和真にとっては、セックスの対象にはならなかったし、普通は薫にとってもそうだろう。この関係はこれで終わり。

 少なくとも、和真は本気でそう思っていた。この時点、では。


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