となりの露峰薫さん

なずとず

文字の大きさ
42 / 44

42

しおりを挟む


「大丈夫ですか? 薫さん……」

「うん、平気……ああ、明日も休みで良かった……」

 薫は苦笑しながら、ベッドに沈んでいる。あの後、和真は薫を休ませてから、シャワーを浴びさせた。裸を見られることをひどく恥ずかしがっていたけれど、疲れているからかされるがままの薫に、たくさんキスをしたものだ。

 そしてすっかり体も綺麗になったふたりは、再びベッドに潜っている。セックス後の心地良いまどろみ、後はもう、幸せに眠るだけの時間は甘い。

「すいません。薫さんになるべく無理はさせたくなかったんですけど、俺もつい……興奮しちゃって……」

 本当はもっともっと、ゆっくりセックスを楽しむつもりだったのだけれど。薫の痴態を前に、まるで初体験の若者みたいにがっついてしまった気がした。しかし、薫は微笑んで首を振る。

「大丈夫、和真君はとっても丁寧にしてくれたから……」

「薫さん……」

 薫は心からそう思っているように、優しい瞳で見つめている。そのことに和真は安心し、しかし少々不安になる。

 薫はこういう時、自分に気を遣って平気なふりをしたりするかもしれない、と。

 そう考えると、薫に告白された時感じた得体の知れない不安が、背中に覆い被さってくる。暗くて冷たいものに押し潰されてしまいそうだ。

「……薫さん……」

「うん?」

「……薫さん、あの、俺ね……あの、今すごい不安なんですけど、ちょっと、うまく言葉にできるか……」

 薫に助けを求めるように口を開いたものの、一体何が怖くて、何を言って欲しいのかもわからない。次に言うべきことも見えないまま薫を見ると、彼はやはり微笑んでくれる。

「うん、大丈夫。和真君のペースでいいよ。話したいことが有るなら、時間がかかってもいいから、言ってみて。やっぱり言いたくないようなら、それでも大丈夫だからね……」

 薫はどこまでも優しい。優しさとは痛みか打算の産物だ。今更、薫が何かを狙っているとは思えない。だとしたら彼は沢山の痛みを知っているから、こうして待ってくれているのだと思う。

 それが、悲しくて、そしてどこか不安だった。

「……薫さん、その。俺、失礼なこと言うかもしれないです」

「大丈夫だよ。言ってみて」

「……薫さんって、たぶん、嫌なこととか、つらいこととか……自分の中にしまいこんで、言わないようにしちゃうタイプ……だと思うんすよ」

「まあ、それは否定できないね」

「だから……お願いが有るんですけど、俺には……俺に対してだけでもいいから、そういうのやめて欲しいんです。嫌なら嫌って言ってほしいし、我慢してほしくないし……それで……」

 それで。

 思い浮かんだ言葉に、和真は一瞬息を呑む。

 そうか。これが自分の、あの得体の知れない不安の正体なのかもしれない、と。

 こんなことを言って、薫に嫌がられないだろうか。おずおずと薫の表情を窺っても、彼が穏やかに聞いてくれているから。

 和真は、意を決した。

「……何か、嫌なことが有って、理由が有って、俺と一緒にいられなくなったとき……そのわけを、教えて欲しいんです……」 

「……それは、勿論そうするけど……また随分、気の早い話だね……?」

 薫は特に気を悪くした様子もなく、率直にそう呟いているようだった。確かに、やっと付き合い始めたばかりだというのに、もう別れ話の心配をしているのだから、気は早いかもしれない。

 しかしどうやら、自分にはとても重要なことらしい。和真は胸の奥で渦巻く苦しいほどの不安を感じながら、続けた。

「嫌、なんすよ。なんか……自分の知らないところで、理由もわからないまま、嫌われたり、……捨てられたりするのって……」

 そう口にしたことで、和真自身も何の話をしているのか理解する。

 これはきっと。和真の深い寂しさの根底にあるものだ。

「……だって、理由を言ってくれたらこっちだって努力はできるじゃないすか。こうされるの嫌とか、わかれば……俺だって嫌なことしない努力もできるけど……。でもそういうこと、何にも無くて捨てられたら……だって……何が悪いのかわかんないじゃないすか……」

「……和真君……」

 薫が、悲痛な表情を浮かべている。きっと彼も、和真がなんのことを言っているか気付いているのだろう。

「いいんすよ、だって人それぞれ事情も有るだろうし、色々あるうちに嫌いになるなんてこともそりゃ、避けられないと思うんです。でも、そういう説明無しでお別れされると……色々、考えちゃうじゃないすか。……何がよくなかったんだろうとか、……俺が、……俺はいないほうがよかったのか、とか……」

 胸が苦しい。目頭が熱くなる。いけない、薫さんを心配させてしまうから、これ以上この話はしない方がいい。

 和真は咄嗟に笑顔を浮かべて、「だから、お願いします!」と元気に言った。

「薫さんも、俺と一緒にいて嫌なこととか、もし嫌いになったら、その理由を教えて欲しいんです!」

「……」

 薫は少しの間、なにか考えるようにしていたけれど。彼は小さく頷いて、微笑む。

「わかったよ、和真君。きっとそうする。でも私は本当に君のことで嫌な思いなんてしたことはないよ。だから安心して欲しい」

「薫さん……」

「その上でね、和真君」

 薫はじっと、和真の瞳を見つめている。その慈愛に満ちた色は、どこか義母を思い出すものがあった。

「これだけは覚えておいて欲しいんだ。確かに、これから長い付き合いのうちには嫌なことや喧嘩も有るかもしれないし、その末に、私たちが一緒にいられなくなる日も来るかもしれない。たとえ、そうなったとしても……」

 薫が、和真の手を優しく握って包んでくれる。その温かさが、どうしてか苦しい胸にまで届くように感じられた。

「君という人が、この世界に唯一の、素晴らしい子であることは変わらない。君の価値は、全く傷付かない。君は生きていてくれるだけで尊くて……誰かにとって、そして君自身にとっても大切な愛しい人だということに、なんら変わりはないからね」

「…………」

「人間なんだもの、嫌な部分も、ダメな部分もいっぱい有るんだと思う。でもそれと同じぐらい素敵な部分だって必ず有るよ。だからもしこの先私が、万が一君のことを遠ざける日が来たとしても、それは君の全てを否定することじゃない。きっとお互いに譲れないことのすれ違いや衝突が有るだけだ。そういうことは、「普通」の人間なら持っているし、することだと思う」

「……そう、ですね……」

「だから……そうだね。君がこのことで不安に思うのも、理由を教えて欲しいと願うのも、広い意味で言えば「普通」のことなんだよ。きっとね。……だから、……だからね、和真君」

 薫の手が、ぎゅっと和真の手を握る。大切なものを、離さないように。

「君の考えていることも、思いも、何もかも大切なものだから。それを大事にして、いいからね。そして忘れないで。何が有ろうと、誰が何と言おうと、君は世界にひとりの大切な君で、その価値は決して揺るがない。……少なくとも私は、そう信じているよ」

 薫が優しい、けれどしっかりした声で語る。それに対して、何と返事をするべきだろう。和真はそんな風に考えた。

 とても、向き合って。大事なことを言ってもらえた気がする。

 そう、思っていると。

「……あ、あれ?」

 頬を伝うものに気付いて、和真は慌ててそれを拭う。手の甲が濡れ、それでようやく、自分が涙を零したことを理解した。

「あ、あれ、なんで、俺……っ」

 傷が有ると知れば、痛むように。泣いていることを自覚した瞬間、喉が、胸が苦しくなる。次から次へと溢れ出る涙を拭いながら、「すいません」と口にした。

「ど、どうしてだろ、お、俺、大丈夫ですから、だから心配しないで……すぐ泣き止みますから!」

 震える声でそう伝えていると、ふいに薫の手が延ばされる。「え」と漏らしたその体を、身体が優しく抱き寄せてくれた。

 まるで、母の胸に顔を埋めるように。和真はその温かな場所に包まれて、困惑した。

「か、薫さん、」

「いいんだよ」

「え」

「泣きたいときは泣いても。無理して泣き止まなくても。元気なふりをしなくても。君の気持ちを大事にしてあげて。君がどんな姿であっても、私は君のことが好きだから。ね?」

「…………っ」

 和真はその時、頭の中ではっきりと感じた。

 許された、と。

 そして、和真は子供のように声を上げ、薫の胸に縋りついて慟哭した。





 怖かった。

 ずっと怖かったのだ。

 本当の両親が、どうして自分を捨てたのか。

 もし、何か深い事情が有ったなら。理解もできる。諦めもつく。同情もできるし、本当の両親とも家族になれるかもしれない。

 けれど、もし。

 ただ、自分が「いらないもの」だったら。

 それを知ってしまったら。自分が本当に無意味で、無価値なモノになってしまう気がして。

 そして、どちらに転んでも。育ててくれた両親の、心からの愛情を裏切ってしまうような気がして。

 どうしても知りたいのに、どうしても、知れなかった。

 怖かった。

 知らなければ、今のままでいられると思った。

 それなのに。

 夜はひどく寒くて、震えるほどの孤独が背中から心を掻きむしるようで。

 寂しくて、寂しくて。とてもひとりではいられなかった。

 育ての両親に、これほど愛されているのに。満たされない自分が憎くて、苦しくて。

 夜な夜な、知らない男と身を繋げる自分が、申し訳無くて。

 和真は、実家にさえ戻れなくなってしまった――。




「お、俺、俺、ホントは、ほんとは、」

 薫にぎゅっと抱き着いて。その胸で、喉の奥から声を絞り出す。

 苦しくて、痛くて、辛いけれど。今、言葉にしなければ、一生話せないような気がして。

「ホントは、……知りたいんです、俺を生んだ……、俺を捨てていった、ひとたちの、こと……っ」

「…………」

 薫は何も言わずに、ただ優しく、和真の頭を、身体を撫でてくれる。その温もりがまた、優しすぎて苦しい。こうされたかった。ずっとずっと、こうしてほしかった。誰かに、――きっと、本当の、親に。

「できることなら、理由を教えて欲しかった、どうして俺を、育てられなかったのか……俺にダメなところがあるなら、教えて欲しかった! ……でも、知るのが怖いんです、俺がいらなかったんだったら、俺が、生まれちゃダメだったんなら……っ」

「……なら……?」

「……ッ、俺に、何の価値も無い、生きてる、意味も無い気がして……ッ、どうして! 生んだ! って、……問い詰めて、しまいそうで……!」

 言葉を詰まらせながら、和真は全てを打ち明けていく。それは酷く苦しくて、身を裂くように痛くて。薫が抱き留めてくれていなかったら、暴れ出していたかもしれない。

 長い長い時間、和真さえわからないまま心の奥にしまい込んでいた気持ちは。酷く激しくて、黒く濁っているようでもあり、また限りなく透明でもある。

「だから、だから、ずっと、俺、俺、隠して、……っ、でも、やっぱり無理で、つらくて、忘れようとしても、忘れらんなくて」

「うん」

「誰かと、仲良くしたって、その人も俺を捨てるんじゃないかって、思っちゃって。人を好きになるのも怖かった。好きになられるのも怖かった。だから、身体ばっかり、……でもなんも解決しなくて、どんどん寂しくなって、俺、俺……」

「うん、うん……」

 ゆっくりと背中を撫でられて。次第に気持ちが鎮まってくる。まるで引き潮で普段は海中に隠れている場所が見えてくるように、自分のぐちゃぐちゃの心が、そして考えが明らかになっていく。

 あの日。

 リンに振られて、廊下で泣いている、見ず知らずの自分を。

 無条件で部屋に入れて。慰め、励まし、受け入れてくれた薫。

 そんな彼だから、どこかで信じたのだ。

 この人なら、自分を受け入れて、捨てないでいてくれるかもしれない――。

「……っ、薫さん、薫さん……!」

「うん、大丈夫。ここにいるよ」

「うう、ぅ、う~~~~!」

 和真は、その声に。その優しさに安心しながら。

 しばらくの間、泣き続けた。まるで、これまでの全てを洗い流すように。




 ようやっと。ようやっと、許されたような気がした。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結|好きから一番遠いはずだった

七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

【完結】取り柄は顔が良い事だけです

pino
BL
昔から顔だけは良い夏川伊吹は、高級デートクラブでバイトをするフリーター。25歳で美しい顔だけを頼りに様々な女性と仕事でデートを繰り返して何とか生計を立てている伊吹はたまに同性からもデートを申し込まれていた。お小遣い欲しさにいつも年上だけを相手にしていたけど、たまには若い子と触れ合って、ターゲット層を広げようと20歳の大学生とデートをする事に。 そこで出会った男に気に入られ、高額なプレゼントをされていい気になる伊吹だったが、相手は年下だしまだ学生だしと罪悪感を抱く。 そんな中もう一人の20歳の大学生の男からもデートを申し込まれ、更に同業でただの同僚だと思っていた23歳の男からも言い寄られて? ノンケの伊吹と伊吹を落とそうと奮闘する三人の若者が巻き起こすラブコメディ! BLです。 性的表現有り。 伊吹視点のお話になります。 題名に※が付いてるお話は他の登場人物の視点になります。 表紙は伊吹です。

イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした

天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです! 元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。 持ち主は、顔面国宝の一年生。 なんで俺の写真? なんでロック画? 問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。 頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ! ☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。

クリスマスには✖✖✖のプレゼントを♡

濃子
BL
ぼくの初恋はいつまでたっても終わらないーー。 瀬戸実律(みのり)、大学1年生の冬……。ぼくにはずっと恋をしているひとがいる。そのひとは、生まれたときから家が隣りで、家族ぐるみの付き合いをしてきた4つ年上の成瀬景(けい)君。 景君や家族を失望させたくないから、ぼくの気持ちは隠しておくって決めている……。 でも、ある日、ぼくの気持ちが景君の弟の光(ひかる)にバレてしまって、黙っている代わりに、光がある条件をだしてきたんだーー。 ※※✖✖✖には何が入るのかーー?季節に合うようなしっとりしたお話が書きたかったのですが、どうでしょうか?感想をいただけたら、超うれしいです。 ※挿絵にAI画像を使用していますが、あくまでイメージです。

海のそばの音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖
BL
☆久田悠人(18)は大学1年生。そそかっしい自分の性格が前向きになれればと思い、ロックバンドのギタリストをしている。会社員の早瀬裕理(30)と恋人同士になり、同棲生活をスタートさせた。別居生活の長い両親が巻き起こす出来事に心が揺さぶられ、早瀬から優しく包み込まれる。 次第に悠人は早瀬が無理に自分のことを笑わせてくれているのではないかと気づき始める。子供の頃から『いい子』であろうとした早瀬に寄り添い、彼の心を開く。また、早瀬の幼馴染み兼元恋人でミュージシャンの佐久弥に会い、心が揺れる。そして、バンドコンテストに参加する。甘々な二人が永遠の誓いを立てるストーリー。眠れる森の星空少年~あの日のキミの続編です。 <作品時系列>「眠れる森の星空少年~あの日のキミ」→本作「海のそばの音楽少年~あの日のキミ」

俺ときみの、失恋からはじまる恋 ~再会した幼なじみ(初恋相手)が同性だった件について~

紀本明
BL
小林冬璃(とうり)は、10年間も忘れられない初恋相手の「はるちゃん」と念願の再会を果たす。 しかし、女の子だと思って恋焦がれていた「はるちゃん」が実は男だったと知り失恋する。 人見知りでなかなか打ち解けないはるちゃん=春斗との同居に不安を覚えつつも、幼なじみとして友だちとして仲良くなろうと決めた冬璃。 春斗と徐々に距離を詰めていくが、昔と変わらない春斗の笑顔にときめいた冬璃は、自分の中に芽生える感情に戸惑って……。 小林冬璃 さわやか無自覚系イケメン攻め      ✖ 冴木春斗 人見知り美人受け 恋愛慣れしていない初心な二人が織りなす、ぴゅあきゅんボーイズラブ。 表紙イラストは針山絲さん(@ito_hariyama)に描いていただきました。

【完結】恋い慕うは、指先から〜ビジネス仲良しの義弟に振り回されています〜

紬木莉音
BL
〈策士なギャップ王子×天然たらし優等生〉 学園の名物コンビ『日南兄弟』は、実はビジネス仲良し関係。どんなに冷たくされても初めてできた弟が可愛くて仕方がない兄・沙也は、堪え切れない弟への愛をSNSに吐き出す日々を送っていた。 ある日、沙也のアカウントに一通のリプライが届く。送り主である謎のアカウントは、なぜか現実の沙也を知っているようで──? 隠れ執着攻め×鈍感受けのもだキュンストーリー♡ いつもいいねやお気に入り等ありがとうございます!

欠けるほど、光る

七賀ごふん
BL
【俺が知らない四年間は、どれほど長かったんだろう。】 一途な年下×雨が怖い青年

処理中です...