上 下
11 / 16

Side Story 2: 愛弟子「菊川美也」

しおりを挟む
・・・


「光平(コウヘイ)先生、データクリーニングしてメールしておきました」

「さすが美也さん、仕事が早いね。ついでに次も早速頼んでいいかな?」

「もちろんです。どんどん送ってください」

「じゃ、ローデータ送っておくから、CI計算しておいて?ちょっと量が多いけど」

「了解です!」



美也さんは今、北米のどこかにいるらしい。

一人旅が大好きで、大学が休みに入る度にどこかに出かけている。

最初の頃は、締め切りに追われていつも忙しくしている俺に気を使って、旅行中も仕事を請けてくれているんじゃないかと思っていた。

まだ10代だし、遊びたいだろうし。

でも次第に、俺に遠慮してるわけでもなさそうだとわかってきて、それ以降は遠慮なく仕事を頼んでいる。


すごく助かるんだなぁ。美也さんが手伝ってくれると。



まだ18歳だった美也さんと知り合ったのは本当に偶然。

俺の本職はT大の教授で、美也さんが通うK大では大学院でのみの非常勤。

だから、K大の学部生、それも新入生との接点なんてないはずだった。


だけど美也さんがK大学に入学した年、

統計科目を担当するはずだった準教授が、新学期を目の前にして病気で突然倒れる。


急に代わりが見つかるはずもなく

前期だけ、学部生の統計科目も担当してくれないかと大学から頼まれた。


大学一年の前期の科目なんて、幼稚園児に挨拶を教えるようなもの。

そう軽く考えて講義を担当することにしたのは、俺が40歳の時のこと。



新入生のほとんどはまだティーンエイジャー。

受験からの解放感と、新生活への期待とで浮足立っている。

授業中も俺の講義はほとんど聞かず、エモノを探して舐めるように異性を物色する。


まぁ、そういう年頃だし仕方ないんだろうが、

俺も若い時はそんなんだったのだろうかと苦笑しながら講義する俺。

T大もK大もそういう点では全く変わらない。



ちなみに俺の講義の学生からの評判はそこそこいいらしい。

なんでかというと、俺の科目の評価が、2つのレポート(各30%)と期末のテスト(40%)で決まるから。

つまりリスク分散型。

一発勝負で地獄を見ることはない。


K大の一年生の最初の課題。

ほとんどの生徒がパス狙いで適当にやってる中、

俺は、かなりまともに仕上がっているレポートを一つ発見した。


何百というレポートの中のたった1つだから、ものすごく貴重なレポート。

はっきり言うと

適当にやってあるレポートを読む方がかなり辛い。

内容が支離滅裂で、読むのに時間もかかるし、点数をつけるのに相当迷うから。


だから、こういうまともなレポートをたまに見ると、すごく安堵する。

あぁ、講義をしてよかった、と思う。


レポートの表紙にある生徒名は「菊川美也」だった。



2回目のレポートの課題も、まともなレポートを1つだけ発見した。

また「菊川美也」。

俺の講義はいろんな学部学科で必修基礎科目だから、大講堂で、ものすごい人数の学生が聴講する。

だから、「菊川美也」が誰なのか、壇上からはわからなかったけど、名前だけはしっかり覚えた。



そして前期試験。

かなり甘めに採点してもボーダーラインギリギリの点数ばかりの中で、

99点という高スコアを記録した学生がいた。


今回は計算問題が9割だったから

事実上、100点を取る生徒がいても不思議じゃなかったけど

まぁお見事だろう。


名前を見たら、やっぱり「菊川美也」。


T大でもなかなかこういう新入生は見ない。

よっぽど統計が好きなのだろうか?

俺は興味を持った。



俺はその時、自分の研究を手伝ってくれる学生を探していた。

締め切りに追われた論文や出版物がかなり溜まっていたから。


T大とここの大学院生が何人か手伝ってくれてはいるけれど、

もう一人くらい、地味な作業をこつこつとやってくれる人材が欲しい。


俺は美也さんに声をかけてみることにした。


今思うと、まだ大学一年のティーンエイジャーに自分の研究を手伝わせようなんてかなり無謀。

あの時どうしてそう思ったのか、今だにとても不思議だ。



次の日、統計学科の必修科目の試験があったから、試験官に美也さんへの伝言を頼んだ。

「試験が終わったら、俺の研究室に来てくれるように」と。

俺の研究室ではその日も院生が2人、黙々とパソコンでデータと格闘していた。





コンコン


「どうぞ」




ドアを開けたのは、栗色の巻き髪に、鮮やかな黄色のTシャツ。

細身のジーンズに赤いパンプスを履いた・・・いわゆる普通の女子学生だった。


「光平教授、お呼びでしょうか?」


勝手な想像で申し訳ないけど、自分の中ではすごくダサい女の子を想像していた。

俺と同じ、オタク系だと思っていたのだ。


「ま、そこに座って」

「はい」

「菊川さんは、統計学が好きなの?」

「えっと、正直あまり深く考えてこの学科を選んだわけじゃなかったんですけど・・・前期の授業受けたら、結構面白くて。たぶん、好きなんじゃないかと思います」

俺はその正直な答えに微笑んだ。



「まだ結果が公表されてないからここだけの話だけどね。僕の講義では菊川さんがトップだよ」

「え、そうなんですか?」

「嬉しいかい?」

「・・・というか、高校3年間落ちこぼれだったのでびっくりです」

えへへ、という感じで美也さんは笑った。


面白いコだ。

レベルの高い高校に通っていたということだろうか。


「高校はどこだったの?」

「○○県の二葉高校というところです」

「あぁ、なるほどね」


二葉出身の学生にはT大でよく遭遇する。

公立にもかかわらず、T大合格者を毎年多数輩出することで、全国的に名が知られている高校。



「ところで早速なんだけど、僕の研究を手伝ってくれる人を探しててね。雑用なんだけど、菊川さん、興味があるかな」

「私ですか?」

「うん、複雑な統計処理は院生に手伝ってもらってるから、菊川さんに頼みたいのは本当に地味なデータのチェックとかなんだけど。僕は基本T大の研究室にいるから、そっちに来てくれてもいいし、ここの部屋を使ってもいい。パソコンを持ってるんだったら、家で仕事してくれてもいい」

「いいんですか、私で?」

「もちろん。とりあえず試しでやってみるかい?」

「はい、よろしくお願いします。バイト探してたので助かりました。ありがとうございます」

美也さんは試験明けから俺の手伝いをしてくれることになった。



何にでも向き不向きがあるように、この学問にも向き不向きがある。

美也さんに研究を手伝ってもらってわかったこと

それは―――



美也さんは、地道に丁寧に取り組む繊細さもあるし、答えを見つけるまであきらめない根性もある。

そして感が良くて、大胆に分析する能力もある。

なかなかそういうバランスの取れた人材を見つけるのは難しい。


だから彼女にどんどん仕事を渡した。

まだ大学で勉強してないこともどんどん教えて、研究を手伝ってもらった。

俺の研究を出来るだけ長く手伝ってほしい、そう考えていた。




**********


ところで、自分で言うのもなんだが

統計学者、光平健作(コウヘイケンサク)の名前は結構知られている。


論文や出版物も星の数ほどあるし、

若くしてT大の教授になったということでも話のネタにもされるから。


世間から見れば、俺はいわゆる「オタク」。

それも超マイナーな「統計オタク」。


全く関係がないと思われていた複数のモノの相関性を証明することが俺の生きがい。

趣味と実益を兼ねた生活を送れる俺は本当にツイている。



まぁ、逆に言うと。

それ以外のことにはかなり無頓着。


パートナーの玲子に「大学教授も客商売なんだから」と言われて、他人に不快感を与えない程度に身だしなみは整えるけど、まぁその程度。

洋服と靴は玲子が用意してくれるものをそのまま着る。


玲子はセンスがいいみたいで、たまに学生から

「先生そのシャツ、どこで買ったんですか?」

と聞かれるが、俺にはさっぱりわからない。


玲子とは、T大で博士号を取った後、アメリカの大学で研究していた時に知り合った。

その時彼女は、同じ大学で言語学を研究していた。


大学の廊下で彼女がいきなり

「日本人同士、飲みに行きませんか?」

と俺を誘ったときにはびっくりしたけど、後で聞いたら、慣れないアメリカ生活にストラグルしていた俺のストレスレベルがひと目でわかって、心配して声をかけてくれたらしい。


俺と玲子は一瞬で意気投合。

それ以来、俺たちはずっと一緒にいる。


統計以外になんのとりえもない俺のどこがいいんだかわからないけど、一緒にいてくれると言うんだからありがたい。

本当に奇特なヤツ。


俺がT大に戻るためにアメリカを離れる時も、「私も行く」と向こうでの研究をあっさり手放した。

同じ研究者である俺には、それがどれほどのことなのかよくわかる。

特に、アメリカというとてつもなく厳しい場所で生き抜いてきた玲子にとっては尚更。


「本当にいいのか?」

何度も聞いたけど、彼女の意思は固かった。



俺は玲子に一度だけプロポーズをしたことがある。

アメリカを離れるとき。

ニューヨークのJFK空港で、俺の隣にいる玲子に言った。

「死ぬまでちゃんと養ってやるから」


玲子はその意味をちゃんとわかっていたと思う。

でも彼女の口から出た言葉は

「健作の世話になるほど落ちぶれてないから遠慮しとく」


ぷっ。


玲子らしくて思わず噴出した。

「まぁ、健作を養ってく覚悟はあるけどね」



俺が玲子に惚れ直したのは言うまでもない。

玲子が「結婚」という形を選択したくないのだったらそれでもいい。

でも俺は玲子を手離すつもりは毛頭ない。


ちなみに彼女は日本人だけど、日本のアメリカンスクール卒。

専門のせいなのか、生まれ育った環境のせいなのか、

珍しく日本語と英語のバランスが取れてる完璧なバイリンガル。


そして日本に戻ってきた後すぐ、玲子はS女子大の準教授のポジションを確保した。

さすがとしか言いようがない。

大学では英語を担当していて、たまに通訳や翻訳の仕事も受けている。

俺の論文のチェックもしてくれている。


たぶん俺より収入は多い。

副収入が多いから。

そのうち、本当に玲子に養ってもらうときが来るのかもしれないと思う今日この頃。


52歳になった今現在

俺は玲子と

ラブラドールリトリバーのラブちゃんと

三毛猫のラットサック(通称ラディ)の2人2匹暮らし。


結論から言うと、なかなか幸せな、

俺らしい人生を送っている。


**********


さて、美也さんのことに話を戻そう。


俺の研究をできるだけ長く手伝ってほしいと思ってるのは確かだけど、

俺は美也さんに対して、恋愛感情は全くない。

その辺は誤解しないでほしい。

俺は玲子一筋だし、美也さんとは20歳以上離れている。


どちらかというと娘のような・・・いや、弟子、愛弟子

それが最も適切な言葉。



大学3年の後期試験が終わったあと、

お決まりのように美也さんが言った。

「今回は南米を周ってきます。お土産、楽しみにしててくださいね。またメールでデータ送ってください」

「本当に送っていいの?助かるけど、休みたいときは遠慮なく言っていいんだよ?」

だけど美也さんは言った。


「仕事、コンスタントに頂けてすごく助かってるんです。先生がよければ、旅行中もやらせてもらえませんか?」

俺はなんとなくその言葉に違和感を持った。

もしかしたらお金に困ってるんじゃないか、そんな気がしたのだ。



俺が美也さんにバイト代を払ってるんだから、

彼女の収入がどのくらいかはわかる。

普通の大学生に比べたらかなり多いはず。

もし他にもバイトをしていたら、相当な収入。


「手伝ってもらえるなら僕はすごく助かるけど、旅行資金は足りてるの?」

「あ、はい。貧乏旅行ですし、いつも底を着く前に、戻ってきますから」

「他にもバイト、してるの?」

「たまにですけど・・・ピンチのときだけです」


美也さんは笑ってそう言った。

なんか腑に落ちなかった。


見かけは普通の可愛い女子大生。

それなりにお洒落もしている。

でも、同じ20歳の学生と比べると、隙がないというか、しっかりしすぎというか。



それに休み中はほとんど日本にいない。

それも1人でかなり危険なところも旅している。

年末年始なんて休みが短いのにもかかわらず、絶対に日本にいない。


親は何も言わないのだろうか?

親じゃない俺でも、しばらくメールがないと心配になるっていうのに。


「近いうちにちゃんと話そうと思ってたんだけど」

「はい」

「前に、研究を手伝ってほしいから大学院に進まないかって言ったの、覚えてるかな?」

「はい」

「進学ってことで大丈夫?ほら、ご両親の意向とかお金のこととかいろいろあるだろうから、無理強いも出来ないし・・・」



美也さんはちょっと戸惑ったのような顔をした。

やはり何かあるのだろうか?


「あの・・・私、1人なので、大丈夫です」

「1人?って?」


そのあと美也さんから聞いた話に、俺はショックを隠しきれなかった。

そんなこと、普段の彼女からは想像もできなかったから。



「先生にはいつかお話しようと思ってたんですけど・・・事情があって、両親とは高校1年の秋から会っていません。私はその後、高校卒業まで児童養護施設で暮らしていました」


「大学の4年間は、返還義務のない奨学金を貰っています。貯金があるので、修士課程の2年分の学費はなんとかなると思いますけど、まだ時間もあるので、また奨学金頑張ってみます」


「先生、そんな顔しないでください。私は大丈夫です。心配しないでください」


美也さんの笑顔を、俺はまともに見られなかった。

同情とかじゃなくて、いままで美也さんがしてきた苦労に気がつかなかった自分が悔しかったんだ。



そしてこの時、

美也さんが野崎くんと別れた直後だった、ということを知ったのはつい最近のこと。

先日、野崎くんと飲みに行った時、彼が話してくれた。


彼は、美也さんが施設から高校に通っていたことを聞いてなかったようで、ショックを受けていた。

野崎くんが知らないとは思ってなかったから、つい口に出してしまったんだけど、

もしかしたらこのことは言ってはいけなかったのかもしれない。



「野崎くん悪い。今のことは聞かなかったことにしてくれないか?」

「もちろん、彼女が言ってくれるのを待ちます――― 俺・・・ロンドンへ・・・美也を迎えに行くフライトの中でようやく気づいたんです。高校生の時、美也はどこから二葉に通ってたんだろう、って」

「・・・」

「先生、俺ね・・・本当に後悔してるんです・・・俺たちが高校生だったころのことは特に・・・」

野崎くんは辛そうな顔をした。



「高校3年の時、満開の桜の下で美也が1人で佇んでいたんです。夢を見てるような感じで」

「うん」

「最初、遠くから美也のこと見てたんですけど、すごく幻想的で、綺麗だなって思って―――声をかけたんです。美也は俺のつまんない話をただ聞いてくれて、笑ってくれて。でも、美也が高校一年の時に描いた絵のことに触れたら、いきなり「さよなら」ってどっかいっちゃったんですよ・・・先生、美也の絵、どこかで見たことありますか?」

「いや、初めて聞いた」


野崎くんによると、全国各地の美術館に時々貸与され展示されているらしい。

でも美也さんは今まで、絵を描くなんてことは一言も俺に言わなかった。


「今その絵は会社に戻ってきてるんで、今度玲子さんと見に来てください。ま、とにかく――― 美也はずっと1人で頑張ってきて」

「あぁ」



「俺、本当になにやってたんだろうって。実際何もできなかったとしても、話くらい聞いてやれたって―――今になってわかるんですよ。あの桜の樹の下で、美也は死にそうだったんだって。なのに俺の話に付き合って笑ってくれて・・・おまけに俺が話したどうでもいいような内容、全部覚えてるんですよ」

「・・・」


「それにあの後、せっかく再会したのにまた手放してしまった―――その時、美也が言ったんです。「一人の寂しさには耐えられるけど、二人でいて寂しいのには耐えられない」って。家庭環境が彼女をそうさせてしまった訳ですけど、その寂しさから湧き出るコントロールできない感情で、俺を潰してしまう事をすごく恐れて・・・美也は俺のことを考えて「別れよう」って言ったんですよ」

「・・・」


「実際、あの時俺はまだ若くて弱くて、大学も仕事も辞めようとしましたから―――そんなことしたって、美也を守れるはずないのに。仲間が止めてくれて助かりました」


「美也を取り戻した今となっては、とりあえず結果オーライ、って言えますけどね・・・でも、結局そのあと、7年も離れ離れになってしまって・・・」

「あぁ」


「・・・本当に、もうちょっとなんとかできたんじゃないかって・・・いつも思うんですよ」

「・・・」


「・・・もしできるなら・・・美也と最初に出会った美術室まで時間を戻して、ずっと一緒にいて、いっぱい美也の話を聞いてやって、美也の背負ったものを少しでも軽くしてやりたいです」





そんな話を聞くと余計に、野崎くんと別れた直後に俺に見せた笑顔を想って胸が痛い。

――先生、そんな顔しないでください。私は大丈夫です。心配しないでください――


なんでそんなこと俺に言えたんだろう?

あの小さなカラダのどこに

そんなチカラが残っていたのだろう?


彼女が強い人だから、という人もいるかもしれないけど、俺は違うと思う。

そうならざるを得なかったんだと思う。



―――胸が痛い。




**********


さて、話はまた、美也さんが学部生だったころに戻る。



美也さんが南米に旅立った後、俺はいろいろと考えた。

彼女のために、何をしてやれるのだろうかと。

俺は玲子に相談した。



「すごいね、その子・・・美也さんだっけ?」

「3年も研究手伝ってもらってるのに、何にも知らなくて・・・俺、情けねぇ」

「成績いいんでしょ?健作が推したら、大学から奨学金取れるんじゃないの?」

「そうだな、ちょっと調べてみる」



「私、健作には他にも出来ることがあると思うよ」

「なに?」



「美也さんを育てること。健作の持ってる統計の知識と技術を全部、彼女にあげなよ。そしたらこの先、食いっぱぐれはないじゃない?」

さすが玲子だ。惚れなおした。その通りだ。


「私も協力するし。英語で論文が書けるようになれば万全よね?」




その後、

美也さんは予定通り修士課程に進学した。

幸い、大学から奨学金もおりた。


俺はかなりスパルタな担当教官だったけど、彼女のためだと思って心を鬼にした。

美也さんは素直についてきたけど、俺に文句を言いたい時だってあったはず。


そういう時、彼女をうまくフォローしたのは玲子だった。


頻繁に俺の研究室に顔を出しては、彼女の英語の論文のチェックをして

間違いは丁寧に教え、

時々は外に連れ出して俺抜きで食事をしたり、

買い物に行ったりしていた。


玲子は美也さんのことを、妹か娘のように思っているんだと思う。

美也さんといると、とても楽しそうだから。



俺と玲子は二人ともキャリア志向で、若い時は特に、普通の生活・・・つまり、結婚して子供を育てて、というタイプじゃなかった。

お互いがいればそれでよかったし、研究以外のことはあまり考えてなかった。


今になって、子供を作っておけばよかったかも・・と思う時がある。

玲子との間に子供がいたら、違う意味で楽しかったかもしれない。

でも玲子はもう、年齢的に子供を産むのはムリ。



事実上、美也さんに頼れる両親はいない。

そして俺たち二人には頼られる子供がいない。


―――これは巡りあわせなのかもしれない。




美也さんが修士課程を卒業するころには、俺と共著で英語の論文を出せるまでになっていた。

その業績が認められて研究費が下り、また学費が免除になって、彼女は博士課程に進学することができた。

美也さんは研究者として、俺の同士になった。


いや、そう思ってるのは俺だけ。



なぜなら彼女は相変わらず謙虚で

「先生からいつも仕事頂けて、本当に助かってます」

と、訳のわからないことを言ってくる。



本当はもう、俺の手伝いをしなくても立派に食べていける。

英語でいくつも海外の学術誌に論文を載せている美也さんのところには、

世界中からたくさんのオファーが来てるし、

俺のところにも、美也さんを指名してくるクライアントが大勢いる。




博士号を取得した時

「大学で教えることに興味はあるかい?」

と一応聞いてみた。


もしやりたいなら、俺のところで助手をすればいい。

すると

「すみません先生。興味がないというより、私にはムリです」

と即答した。


大学一年から美也さんのことを知っているが

こんなにはっきりと断られたのは、それが初めて。



「いいけど、はっきり言うなぁ」

「先生、私が一か所に留まれないの知ってるじゃないですか。私、もし先生がよければ、これからも旅をしながらお仕事していきたいんです」

そして続けた。


「ここまで育てていただいてありがとうございました。先生と玲子さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです」

「まだ嫁にはださんぞ。俺の研究は死ぬまで手伝え」

「もちろん死ぬまで先生に付いて行きますから!」




そして美也さんは再び日本を離れた。

なんとなく俺はその時、しばらく彼女には会えないのだろうと覚悟して見送った。

玲子もそう感じたみたいで、とても寂しそうにしていた。



でも予想よりもかなり早く、彼女は日本に戻ってきた。

野崎くんというパートナーと一緒に。





今日は玲子と一緒に、野崎くんの会社にやってきた。

先日野崎くんが言ってた、美也さんの絵を見るために。


「美也には内緒で来た方がいいと思いますよ」

そう野崎くんが言ったから、美也さんには言わなかった。


だけど、美也さんがここに来るタイミングに合わせた。



野崎くんと日本に戻ってきてから約半年。

その後も、たまに海外へ行ってる美也さんだけど、仕事でどうしても必要な時だけしか行かなくなった。

最近は顧客満足度の調査分析や広告の効果測定などで、野崎くんの会社にも関わってるらしい。



一階ロビーの受付で待っていると、1人の青年が現れた。

「光平教授に玲子さんでいらっしゃいますね?野崎の秘書の吉田と申します」

彼はお辞儀をして、俺らに名刺を渡した。


「こちらへどうぞ」


かなり大きな会社。

ITのコンサルをしてると野崎くんが言っていたけど、会社名がmedianなのには笑った。

美也さん絡みなんだと勝手に判断して、理由は聞かなかったけど。


「前のミーティングが少し長引いてるので、少々こちらでお待ち下さい」



通された部屋は会議室。

吉田くんがコーヒーを二つ持ってきてくれた。



「元々あの絵は一階ロビーに飾る予定だったんですけど、社長も美也さんも恥かしいと駄々を捏ねまして、結局社長室に落ち着いたんですよ」

吉田くんが笑ってそう説明した。


「なんで野崎くんが恥かしがるの?」

俺の疑問を玲子が投げかけた。


「あ、それは僕の口から言っていいものかどうか・・・後ほど社長に直接お尋ねください」

ぷっ、と吉田くんが吹きだしている。


その時、別の男性が会議室に現れた。




「副社長の坂上と申します。実は光平教授とは初めましてではないんですが」

坂上くんはイタズラっぽく微笑んだ。


「え?どこかでお会いしましたっけ?」

「はい。まぁ先生は覚えてらっしゃらないと思いますけど、先生の講義をいくつか取りました。経営統計とか」

「え、T大それともK大?」

「T大です。medianの設立メンバー4人はみんなT大出身なんです」

「野崎くんも美也さんも、そんなこと言ってなかったぞ!」



「あぁ、あの2人は天然なんで、そんなこと気にしてなかったんでしょう。でも、T大社会学部の社会統計学を担当したのも光平先生ですよね?」

「今もそうだよ」

「ここの会社名、野崎が付けたんですけど、社会統計学の講義で印象に残ってたからって言ってましたよ。どうやら先生のことはすっかり忘れてるみたいですけど」

坂上くんと吉田くんは爆笑していた。


「なんだか世の中、狭いわね・・・」

玲子は相当驚いた顔をしている。



その時、吉田くんのスマホが鳴った。

「どうやらミーティングが終わったみたいです。行きましょう」




同じフロアーの奥にある社長室。

あの若さでこれだけの会社を経営するんだからたいしたもんだ。



「社長、お連れしました」

どうぞと吉田くんに促され中に一歩入ると、そこには美也さんと野崎くん。

あともう一人知らない男性。



「え?!先生に玲子さん!どうしたんですか!」

いつも冷静な美也さんが焦っていて、玲子と2人で爆笑した。



「美也さんの絵を見せてもらいに来たんだよ」

そう言って顔を上げた瞬間、目に入ってきたのは巨大な桜吹雪の絵。

「「うわぁ・・・」」




俺も玲子も絶句した。

「美也ちゃん、今まで一言も絵を描くなんて言わなかったじゃない!水臭いわ!」

玲子が美也さんを責めた。


「先生、玲子さん、まぁどうぞ座ってください」

野崎くんがソファーを勧める。

もう一人の男性は、専務取締役の三木下と名乗った。



「玲子さん、私がまともに描いた絵ってこれだけなんですよ。だから絵を描くって言う程の事でもなくて・・・」

「こんな素晴らしい絵を前に、なにとぼけたこといってるの!」

玲子は本気で怒っていた。

きっと美也さんのことはなんでも知っておきたいんだと思う。



「玲子さん本当の話ですよ。高校一年の時に描いた絵はもう残ってなくて、その次が27歳の時に5年かけて完成させたこの作品なので」

野崎くんがそういうんだからそうなんだろう。



「それにしてもすごいな」

俺が呟くと

「本当ね」

玲子も真っ直ぐにそれを見つめた。



「で、なんでロビーに飾らなかったの?これだけ大きかったら、ロビーにぴったりだろうに」

そう言うと、野崎くんと美也さんが顔を見合わせた。

他の3人はくすくす笑っている。


「えっと・・・この絵のタイトル、「ハル」って言うんです」

「うん」

「でも、季節の春じゃなくて・・・「俺の名前「ハル」なんですよ。そしてこの桜、先日先生にお話しした、あの桜です」」


あぁそっか。

ここには美也さんの、野崎くんへの想いがいっぱい詰まってるのか。



すると突然、横にいた玲子が泣きだした。

「どうしたんですか、玲子さん?!」

美也さんが駆け寄った。


俺もちょっと泣きそうになったから玲子の気持ちはよくわかる。

この桜の話も、玲子にはしてしまったし。



「・・・美也ちゃん、よかったね。大切な人と一緒にいられるようになって、本当によかったね」

玲子は美也さんを抱きしめた。


「はい」

美也さんは素直にそう応えた。





でもこの桜が、野崎くんが話してくれた「高校3年の時の想い出の桜」なのではなく、

「高校1年の時の、二人が初めて出会ったときの桜」だと知るのは、まだまだ先の話。



☆☆fin☆☆


******************

まだまだSSは続きます☆

しおりを挟む

処理中です...