もう一度、恋をしよう

亨珈

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もう一度、恋をしよう

過去の恋、いまの恋

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 短大で、小学生の頃仲良くしていた祐子と再会した。家が二百メートルほどしか離れていなくて、晴れた日は用水路で魚をすくったり、放課後の校庭でバスケットボールをしたりして遊んだものだ。
 中学は互いの部活動に忙しく、高校は別だったから接点がなかった。だから、電車で通学する遠距離の短大で、まさか会えるとは思っていなかった。
 昔から良くしゃべり社交的な祐子は、高校も女子校だったけれど、或いは女子校だったからというべきか、恋愛的要素のある他校の男子生徒との付き合いが多かったらしい。度々行動を共にするようになり、彼女は私も含めての六人グループで遊ぶことが多くなった。女子は、私と彼女の二人だけだ。
 彼女が祐子、私が有羽。ゆうが同じで、子供の頃はお互いにゆうちゃんと呼び合っていた。再会してからは、私はそのままゆうちゃんと呼び、彼女は私をゆうと呼ぶ。
 それを真似たのか、男性四人も私たちをそう呼び分けた。
 週に何度も遊んでいれば、特定の誰かと親しくなる機会がある。そのうち、グループの中で一番大人しく一つ年下の男性が、私をデートに誘ってくるようになった。
 皆で遊ぶ時は、カラオケやボウリングでそれなりにテンション高く騒ぐ。私も雰囲気に合わせて、今では考えられないくらいにはしゃいだ様子をしていたと思う。
 その反動か、二人で会うときにはぽつぽつとしかしゃべらない。動物園に行ったり、お城を観に行ったり、手を繋いだままゆっくりと歩いては、たまに視線を絡めて微笑み合ったっけ。
 グループ内のもう一人と、彼はルームシェアをしていた。だからその人は私と彼が付き合っていたと知っていたけれど、敢えて皆に公言はしていなかったから、他の人たちがどう思っていたのかは知らなかった。
 付き合っていれば自然とそうなるように、彼の部屋で私たちは身体を繋いだ。
 二十歳になる前にしたかったという彼に迫られて、性急に床に押し倒され、僅かに胸への愛撫があっただけで指で開かれて突っ込まれた時、これはなんの拷問かと泣きたくなった。
 濡れてもいない膣をこじ開けられ、喉も引き攣り悲鳴すら漏れない。ただ、スキンの潤滑剤だけを助けに揺さぶられた一方的な行為の後、ふらふらとしながら家に帰りついたのを憶えている。
 自宅のトイレで滴り落ちる鮮血を見て、本当に涙が零れた。ひりひりとした痛みは翌日も続き、セックスに対する嫌悪感を抱くには十分な経験だったと思う。
 それなのに。
 次の週末に車二台でサファリパークに行った。彼とは違う車に乗せて貰い、車で一巡りした後に皆で歩いて回るコースに集合した時、彼が「ゆう」と呼んだのは、ゆうちゃんだった。
 愕然としている私に向かい、彼女が笑う。
 実は付き合ってるんだ。でもややこしいから二人のときしかその呼び方はやめて、と彼を小突く。彼はその日、一度も私と視線を合わせなかった。その代わりのように、彼の同室者が、気の毒そうに私を見ているのを感じた。
 二股だったのかとの怒り、それを上回る悲しみ、それなのに事情すら説明されないままに今まで通りに全員での集まりに誘われ、私は表面上笑うしかなかった。
 けれど、皆の前で堂々といちゃつく二人に呆れ、他の男性からも苦言を呈される。そのうち集まる回数は減り、卒業間近に学校からの帰り道で、彼女は私に打ち明けた。
 あんたと彼が付き合ってたの知ってるよ、と。
 彼は隠し事できないから、全部話してくれたよ。あんた不感症なんだって? 全然気持ち良さそうにしないし、むしろずっと不機嫌だし、バージンって聞いたのに血は出ないしって。でも私とは気持ち良かったって。私は初めてじゃないけど、だからこそ色々してあげられることもあるしね。
 呆然とする私に、勝った、と言わんばかりの自慢げな表情で語り、言葉が出ない私に向かって言いたいことだけ言って去って行った。
 悔しかった。
 彼女も彼も、もう二度と会いたくないリストナンバーワンだ。
 彼が彼女を選んだというのは、まあ仕方がないとしよう。でも、私たちが幼馴染みということを知っていて、なぜセックス事情まで赤裸々に彼女に話したのかと信じられない。
 泣いて呪った。
 二人とも、私に見えないところに行ってくれと。

 過去の怒りをまざまざと思い出し、すう、と身体が冷えていく。拳を握り、硬く硬く己を戒める。
 もともと、期待なんてしてなかったんだから。明日なにを告げられても、私は大丈夫。
 希望なんて一筋も見えなくても、その夜は泣かなかった。


 記憶の中の笠原さんは、いつも微笑んでいる。
 小さな丸いカフェテーブルの向こうから、そうっと差し出された手が、包み込むように顎から頬を撫でて戻っていく。
 榛色の少し眦の垂れた目は、細められている。こういうのを愛おしそうな、って言うのかしら。なんだかちょっと眩しい感じに幅を狭めて、私を見ている。
 どうしたらいいのか判らないから、取り敢えずカップを持ち直して紅茶を飲んだ。
 真っ白でシミや汚れどころか模様すらない陶磁の茶器は、優美なラインがしっくりと私の掌に馴染んでいる。だけどそれをむやみやたらとソーサーに置いてはまた持ち直して小さくひとくち。
「楽しいですか」
 自分でもぶっきらぼうな声が出てしまった。
「この上なく楽しいよ」
 ちょっとニヤケた感じで、あの人は返した。嫌みのように取られていなさそうで、ほっと吐息する。
 足を使う仕事。とはいえ、殆どは屋根のあるところにいるだろうに、この人は年中日焼けしている。わざとじゃなくて自然に焼けた小麦色だから、どんな色の服でも似合っていた。オフホワイトのニットを着て、時折思い出したかのようにコーヒーを口に運んでいる姿は、カフェの男性スタッフすらチラ見するくらいかっこいい。
 それにくらべて……私は。
 顔からテーブルへと落ちていく視線を追うかのように、あの人の手が伸びてきた。その人差し指が、とんとんと私の手の甲を叩く。
「俺ね、本当にきみのことって特別だと思ってるんだ」
 脈絡のない台詞に、きょとんを通り越していぶかしげに首を傾げると、まいったなあなんて首の後ろに手を当てて、少しだけ赤くなっている。
「二ヶ月前、きみに声を掛けてから、誰とも寝てない」
「はい?」
「あ、その顔は嘘だと思ってるだろ。確かに俺誰にでも気安く声掛けるしさ、イケるって思ったらそのままってことも多いけど
 いや、多かったけど。っていうか、今はきみひとりだから」
「そう、ですか」
 話半分に割り引いて聞いておいた方がいいんだろう。きみひとりなんて、きっと全員に言っているんだ。
 ただ、たまたま私とブッキングしていないだけで。
 そう、思うのに。
 指先が震えて、カップを落とさないようにと戻すときに、カチャカチャと音が鳴った。
 本来なら、誘っておいてほかの女性とも関係があるほうがおかしい。誰とも寝ていないなんて宣言するのも変だし、寝てなくて当たり前じゃないのか。
 理性では、そう思うのに、高鳴る胸は抑えられない。
 私なんて、出会った瞬間から好きだった。
 素敵な出会いがあるかもと期待して入った勤め先は、雑貨店を営む企業で。店舗の名前は、店ごとに全部違う。だからこれもチェーンと呼ぶのかもしれないけど、ぱっと見には全然別の店だろう。品揃えだって違うし。
 私が居る店舗は、ショッピングモール内にある。市内には、郊外に姉妹店もあって、立地が違えば客層も違う。そういう店舗ごとのカラーに合わせて商品を仕入れてくるのが、この人の仕事だ。
「ゆっくり仲良くなりたい」
 そう言って、テーブルの上で所在なげにしていた私の手に、あの人は自分の手を重ねた。
 とうに二十歳を過ぎている私をなんだと思っているんだろう。宣言通りに、あのひとからのアプローチは緩やかだった。
 緩やかすぎて、焦らされているのかと勘繰るほどに。
 勿論、こんな触れ合いは嫌いじゃない。学生たちのようにあからさまにではなく、さりげなく少しだけ触れてくる。隣を歩くときには、腰に手を回し合うことだってある。それは私に幸福を与える仕草だ。
 一度だけのセックスは、私に痛みしか教えなかった。友人や同僚のあけすけな体験談をどれだけ耳にしても、それを快楽と結びつけることなどできない。行為前に漠然と抱いていた期待はあっけなくぺしゃんこにされ踏みにじられ、びりびりに引き千切られたのは、男性全般に対する信頼感だった。
 だから、笠原さんのことも。
 ただ、眺めているだけで幸せだった。
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