雨降る朔日

ゆきか

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第七幕 水の神

終幕

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 朔夜は箸を落とし、呼吸を乱し、胸の辺りを押さえて倒れ込みもがき苦しんだ。呼吸ができない。空気を吸おうとしても胸の筋肉が固まって動かない。

「待ってろ」

 一果は急いで座敷を出て階段を上った。
 研究室に入り、所狭しと並んだ実験器具の間を早足で通り抜けて奥の扉を開く。巨大な培養槽や植木鉢が研究室から差し込んだ光に仄かに照らされて妖しく光る。その部屋のさらに奥。千代紙で厳重に封をした箱の中に、それはある。
 ふと頭によぎった不安を振り払い、壺を取り出して作業台に向かう。

 戻ると朔夜は動かなくなっていた。呼吸は今にも消えそうに浅いが意識はかろうじて残っているようだ。
 注射器に薬を吸い上げ、静脈に針を刺す。注入が速すぎれば身体に強い負荷がかかり、遅すぎれば間に合わなくなる。心を落ち着けて適切な速度を見極める。

 朔夜の様子を注意深く観察し励ましながら薬を入れ終えると、呼吸が落ち着いて顔色も良くなってきた。朔夜は掠れた声で尋ねる。

「……この薬は?」

「仙薬だ」

 針を抜いて止血をする。

「それって………不老不死の薬……?」

「ああ。おまえは今、死ぬところだった。効果のある薬はこれしかないんだよ。
 あたしと同じものは使えないから、限界まで弱めたものなのだが、これでもおまえの身体で耐えられるかどうかは五分五分の賭けだった」

「患者には使わないんじゃなかったっけ……」

「凡人は副作用で死んでしまうからだよ。おまえはこの処方ならば問題ないようだ。
 さすが、あたしの子だな」

 理解が追いついていない朔夜の頭を撫でて笑う一果。

「これからこの薬を年に一度を目安に服用してもらう。今回は緊急だから注射薬に加工したが、本来は飲み薬だ。薬としては珍しく、果実のように甘くておいしいから飲みやすいよ」

 朔夜の身体を支えながらゆっくりと起こす。頭はまだ上手く働かないが、身体はどこにも異常が無く、気のせいか以前よりも軽く感じるほどだ。

「問題なく食べられそうだね。食事を続けようじゃないか。ああ、代わりの箸が必要だね。これを片付けるついでに持ってくるから待っていなさい」

 そう言って注射の道具を片手に持ち、畳の上に落ちている箸を拾って座敷を出た。
 残された朔夜は閉じた唐紙を呆然と見つめる。

 ──まだ生きられるということ……?


- - - - - - -


 うたい坂を登って百辰はくたつ神社の表へ出ると、斜向かいに霜辻医院がある。
 その正面玄関の前に立つ優雅な人物と目が合って、ともえはひっくり返りそうになった。

「げっ、光刻みつときさん!」

 雪の降りそうな時節なのに、夏と変わらぬ装いで蛇目傘をさしている。

「ごきげんよう」

「氷室祭りの季節はまだですよ。植物たちは季節を間違えないというのに、あなたは夏と冬も分からないんですの?」

 近づいてくる光刻との間合いを保つようにすすすっと後退するともえ。
 光刻は大股で二、三歩歩いて距離を詰め、逃げようとするともえの手首を優しく取った。脚の長さが違いすぎる……と、ともえは敗北を感じた。

「じつは一果先生に呼び出されましてね」

 光刻の背中の向こうで医院の扉が開き、一果が顔を出して手を振った。

「もえちゃんも一緒に来ていいよ!」

- - - - - - -

 二人は医院の応接間に通された。一果は蛇神について、これまでのことを詳しく話した。

「……というわけで、来年からの氷室祭りでは、子供を捧げる必要はない」

 一果の話を静かに聞いていた光刻は、深く考え込んでいる。沈黙に耐えられないともえは二人の顔を交互に見ているが、立場は弁えており口を挟んではこない。

「一果先生が嘘をおっしゃるとは思いませんが。そのお話を伺っただけでは一族の者に説明がつきません」

「藤袴」

「御前に」

 一果が名を呼ぶと、唐紙が開いて手箱を携えた藤袴が淑やかに現れた。手箱を一果に渡して下がる。
 金の紐を解いて蓋を開けると、瑠璃色の表紙で美しく製本された、蛇腹折の本。

「これでどうかな。朔夜が蛇神の話を聞いて書き記したものだ。この通り、珠白の安寧を約束させている」

 箱から取り出し、一ページずつ開いて見せてゆく。ふっくらとした白い紙に青みのある黒い墨で美しく書かれた文字。光刻はゆっくりと睫毛を伏せてから姿勢を正し、一果を見て静かに言った。

「……我々はこの一千年以上もの間、蛇神様の心を知ろうともしなかった。ありがとう存じます」

 そして、翌年の祭りでは、氷と芍薬の花が捧げられた。


- - - - - - -


 夏の終わり、朔夜が土間の台所で薬草の下処理をしていると、戸がターンッと開いた。一果が入って唐紙を開け、奥で医学書の翻訳をしているミーシャに声をかけた。

「話がある」

 無視して尻尾をぱたぱたとさせながら翻訳を続けている。

「おれも一緒に聞くから付き合ってくれ、な、」

 朔夜が間に入って一生懸命に説得すると、尻尾を畳に叩きつけながらも返事をしてくれた。

「仕方ないな」

 六畳間で向かい合って座り、一果が話し始める。

「クレアの修復のことだ」

 ミーシャの表情が変わる。

「朔夜の努力によっておまえの修復は随分進んだ。だが、クレアの身体を作り直すには資料が足りない。
 そこで、おまえにはあるものを手に入れてきてもらいたい。シェデーヴルの設計書だ」

 設計書という言葉を聞いて朔夜はびくりと身体を震わせたが、これは自分の話ではないと何度も心の中で唱えて平常心を保った。

「オリアナは体裁の整った本を自分で作ることは無かったが、記録は事細かに残す奴だった。シェデーヴルの設計書が、どこかにあるはずだ」

「たしかに、そうだね。あの人なら残していそうだ」

 嫌な人の顔を思い出させられたミーシャは苦々しい表情をしているが、クレアの修復に関わることなので会話に付き合ってくれている。

「オリアナのアトリエは?」

「そこは何度も探したよ。それで、次の候補として挙げられるのがセレーネの月桂館だ。あそこの図書館では古今東西のあらゆる魔法や錬金術に関する本が管理されている。保存のためにそこへ預けた可能性が考えられる。
 ただ、貴重な資料が保存されている部屋に入るには特別な許可が必要だ。あたしや朔夜が穏便な手段で立ち入ることはまず不可能だろう。そこで、みーちゃんには翻訳家として月桂館で信用を勝ち取り、その部屋に入って設計書を探してもらいたい。
 図書館で保存されている書籍の中には、現代の人間には読むことのできない古代の言語が使われていて解読が進んでいないものもある。それが翻訳できるとなれば、月桂館はおまえを歓迎するだろう」

「………」

 黙り込んで考えているミーシャの顔を朔夜は焦った様子で覗き込んで言う。

「魔法の知識はシェデーヴルにとって毒になるんだろ? その図書館の本を読ませるわけにはいかない」

「みーちゃん自身の手で本を開いて解読を行うことまでは求めてこないだろう。こういった本には高度な暗号化が施されている。解読には専門の技術が必要なんだ。こいつの仕事は、学生に語学を教えることだ」

「……それならいいけど、絶対に読むなよ」

「どうする、ミーシャ・シェデーヴル」

 一果が問う。しばらくの沈黙の後、ミーシャは尊大な微笑みと共に答えた。

「このシェデーヴルを使おうだなんて、きみたちは親子揃って身の程知らずだね。……クレアのためだよ」


- - - - - - -


「朔夜、ぼくは北の国へ帰ろうと思う」

 夜の薬草園を歩きながら、ミーシャはそう言った。
 朔夜はぽかんとする。

「……月桂館は?」

「もちろん忘れてないよ。けど、セレーネは珠白に似て温暖な気候だと聞く。じめじめしていないだけましだろうけどね。住むのはカペラがいいんだ。セレーネには用があるときだけ行くことにする」

「おまえは暑いのが苦……嫌いだもんな」

「うん、暑いのは嫌い。でも珠白の土地が美しいと思うのは本当だよ。大切にするといい」


- - - - - - -


 秋祭りの夜、ミーシャを白磁山まで送り届けた。クレアは医院で保管しておくように頼まれた。
 雪との境界を失うようなその白く美しい姿を見て、やはり彼らは珠白の永遠を言祝ぎに訪れた白磁様だったのだろうと、朔夜は思った。
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