*50音の恋愛掌編集*

平野 絵梨佳

文字の大きさ
上 下
1 / 7

“あ”『朝』

しおりを挟む
 私には少し変わった日課がある。
 きっかけは、ほんの数日前のこと。


 七月某日。午前五時過ぎ。
 何故だろう。目覚ましもセットしていないのに、スッキリと目が覚めてしまった。二度寝をしようと再び目をつむってみたけれど、こんなときに限って、睡魔すいまは相手をしてくれないようだった。
 早起きは三文の得とも言うし、たまにはこんな休日も良いかなと思い、私はカーテンの隙間すきまから外をのぞいてみた。
 外はすっかり明るくなっており、空は綺麗な夏色をしている。今日も暑くなるだろう。
 突然、窓の外を誰かが通りかかった。
 朝のジョギングだろう。何気なくその人に視線を向けると、私はその男性に釘付くぎづけになってしまった。
 何故ならば、その人が自分の好みに、驚くほどにピッタリだったからだ。

 その日は特に何も予定がなく、私はずっと、今朝見た彼のことを考えていた。
 清潔感のある短髪は綺麗な黒髪だった。涼しげな目元が特に素敵だったと思う。綺麗すぎないけれど整った顔立ちというのだろうか。一体、どこの人なのだろう。
 勝手に性格を考えてみようか。
 誰にでも優しい穏やかな人。活発で努力家な体育会系。普段はクールで、たまに見せる笑顔の破壊力がすさまじい年上キラー。女子の誰もが憧れる王子様系。どこまでも付いていきたくなる俺様系。
 色々考え出すと止まらない。声は? 仕種しぐさは?
 あれ? なんか、こんな事を考えている私って、もしかして気持ち悪い?
「彼氏なんて、いつか私の前にも現れる日がくるのかなぁ……」
 早朝の静まり返った部屋につぶやかれた声は、やけに大きく響いた気がした。
 彼氏のいる友人たちは私に言う。
 待っているだけでは何も始まらない。面食いならば自分から動き出さなければ、誰かに先を越されてしまうよと。
「自分から動き出す、か」
 仮に動き出すとして、どうしたら良いものかと考えてみる。
 今朝の彼とどうやって知り合う? 自分もジョギングを始める? それとも、新聞を取りに行くふりをして挨拶をしてみるとか?

 でも、彼にはもう彼女が――?

「やーめた」
 どうせ声なんかかける勇気なんて出ないし。
 今までだって、遠くから見ているだけの片想いで満足していたではないか。
(一瞬で終わる恋なんて嫌だし。っていうか、まだあの人に恋をしたわけじゃないし)
 そう自分に言い聞かせた。そう、そうなのだ。まだ恋に落ちたわけではないのだ。
 好みのタイプの人を見かけただけの事。
 まだ、恋なんて。



 八月某日。午前五時過ぎ。
 今朝も目覚ましより早く目が覚めた。
 耳を澄ますと、あの人の足音がかすかに聞こえてくる。
 私はベッドから出ると、カーテンの隙間から外を覗いた。
 涼しげな瞳をしたあの人が、今日も軽やかな足取りで通り過ぎていく。
 彼の背中を見つめながら、私は今日も、静かに溜め息をついた。


*了*
しおりを挟む

処理中です...